第2話 記憶の無い男2

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「それじゃ、朝のホームルームを始めるぞ」

 え、という感覚。

 昨日の夜から今朝に掛けての記憶が無くなっている?

 もしくは、先程の授業風景すらも夢だったのだろうか?

(最近はこんな事が多い)

 世の中には明晰夢と呼ばれるものがある。

 それは、夢の中にも関わらず、全ての感覚がリアルで、まるで本人が夢を見ていることを感じさせないほどの現実感を伴った夢のことをそう言うらしい。

 俺はそんな夢を良く見続けていた。

 結果として、最近の俺はこれが現実なのか、夢なのかをはっきりと理解出来ない状態に陥っていた。

 今の状態が拙いのは、流石に理解出来ている。

 今でこそ夢の中で暴れている殺人衝動が、現実でも現れたら――そう思うとぞっとしないからだ。

 いや、既に暴れていないとは言えないのではないか?

(俺には記憶がない……)

 現実と夢があやふやな状態であり、これが現実だと自信を持って言い切れないのが、今の俺の状態だ。

 その状態で、どうして現実でも殺しを楽しんでいないと言い切れるのだろうか。

 俺の心の内で言い知れぬ焦燥感が募っていく。

 今朝のニュースを見た記憶は? 近くで殺人事件などは起こっていなかったか? 本当に、俺は昨日家で過ごしていたのか?

 だが、その問いに答える事は出来ない。

 答えは、『分からない』からだ。

「あー、あと伝えておく事があった。この近辺で殺人事件があった」

 不意に耳朶を打つ担任の言葉に胸の鼓動が早鐘のように高まる。

 殺人事件があった……?

「犯人が近くに潜伏しているかもしれないという事で、全校生徒はなるべく早く帰宅するようにと警察署の方から連絡があった。なので、部活をやっている者もやっていない者も校舎にはなるべく遅くまで残らないで早めに帰ること。分かったなー?」

 教室の中に漣が起きるかのように、小さな動揺が伝播していく。

 生徒の一部が「ニュースでやっていた奴だ」と言う声が聞こえ、それがただの憶測や妄想の類ではない事を裏付けてくれる。

 その事実が、俺をまた追い詰める。

(俺に、昨日の夜半から今朝に掛けての記憶は無い……)

 その時間帯に何をしていたのか、何処に居たのか、それを証明する手立てが無い。

(いや、落ち着け。落ち着いて思い出せ)

 俺は、昨日何をしていた?

 昨日の夜の出来事を探るようにして記憶を浚う。

 すると、ひとつだけ印象に残っている出来事が記憶に残っている事に気が付いた。

 押し入れの奥に何かをしまった記憶――。

(何だ、何をしまったんだ……?)

 だが、俺が思い出そうとする度に頭の奥がずきずきと痛みを訴えてくる。まるで、それ以上は思い出すなと言わんばかりの痛み。

 人知れず表情が歪む中、俺は手繰り寄せた記憶を覗く。


 それは、血塗れのパジャマを押し入れにしまい込んだ記憶であった――。


(あ、裸足……)

 連想したのは、深夜に公園で立っていた時の事。

 いや、違う。あれは夢で……。

 夢ならば、何故血塗れのパジャマが俺の部屋の押し入れにある?

 あれが現実で、教室で目を覚ましたのが夢じゃないのか?

 分からない……。

 分からないが……、くそ、頭が痛い……。

「あと、一年も終わりのこんな時期だが転校生だ。みんな仲良くするように」

 俺が脳の痛みと戦っている間に、担任がまたも驚きの発言をする。

 転校生? こんな時期に? とは俺も思うが、色々と家庭の事情もあるのだろう。そこを詮索する気はない。

 いや、むしろ、目下の問題は殺人事件の方であり、そちらを気に掛けている余裕が俺には無かった。

「入って来て良いぞ」

「は、はい」

 若干、緊張を含んだソプラノボイスが響き、扉を開けて学校指定のブレザーを着た少女が入ってくる。

 その少女の姿に誰もが呆気に取られた表情を見せていた。

 思い悩んでいた俺ですらも、目を奪われたのだから、クラスメートたちの反応も至極真っ当なものだろう。

「えっと、佐藤イブリースと言います。ルーマニアのブカレストという都市から来ました。みなさん、よろしくお願いしましゅっ!」

 教室に入ってきた金髪碧眼のツインテール美少女は、自己紹介をしながら頭を思い切り下げたせいで、最後の最後で噛み倒していた。

 そして、頭を上げない。

 多分、恥ずかし過ぎて上げられないのだろう。

 今、少女の顔を覗き込めば、多分茹蛸のように真っ赤になった姿を見る事が出来るはずだ。

 教室中に誰かフォローしてやれよ、という空気が流れる。

 こういう事は一切俺には関係の無い事だと傍観を決め込んでいると――。

「席は……一番後ろの窓際の席の隣だ。丹生、フォローしてやれ。今のトチった分も含めてな」

 空気の読めない担任が無茶を言って、場を和ませようとする。

 だが、クラスメートたちも分かっているのだろう。

 俺はそういうキャラじゃないので、それは無理だという事に。

 金髪少女が顔を上げて……まだ少し頬が赤いが……毅然とした態度で俺の隣の席にまでやってくる。近くまで来て分かったが、彼女は随分と背が低い。

 そして、思った以上に整った顔立ちをしていて、手足が長く、スタイルが良い印象だ。

 モデル体型とでも言うのだろうか?

(嗚呼、この子の悲鳴を聞いてみたいなぁ)

 ……雑念を振り払う。

 現実が夢に侵食されている気がする。

 心の中で本能と理性が鬩ぎ合っている感覚。

 今はまだ理性が優勢だが、本能に負けたらどうなるのか。……考えたくもない。

「イブリースです。よろしくね」

「丹生だ。よろしく」

 心の内の感情などおくびにも出さずに、俺はそう答えていた。

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