第3話

 ――――思えば、長い時を過ごしたものだ。

 神の領域に至り、俗世を離れ、儂の拳はさらに磨きがかかった。

 じゃが、終わりは必ず訪れる。

 亜神あじんですら、いつかは死ぬのだ。

 本来、亜神は自身の領域から出ることをあまり好まない。

 それは神に至ったがゆえに、人間の醜悪さに耐えられなくなるからだ。

 だからこそ、己が領域に引きこもり、それぞれが道を極める。

 中には俗世に降り立ち、まさに神のごとき振る舞いで民衆を率いる亜神もいた。

 だが、そんな者はごく一部である。

 皆、自分の道を極め、死んでゆく。

 それが当然であり、儂もそうだと思っていた。

 だが、自身の死を悟ったことで、その考えに疑問が生まれる。

 ……儂は本当にこのままでいいのだろうかと。

 何か、大切な物を見落としているのではないか。

 それを探すため、儂は死ぬ前に己が生きた世界を見て回ることにしたのだ。

 ――――そこには、その土地で必死に生き抜く、民衆の姿があった。

 儂らが醜悪だと断じた人間は、その短い時を鮮烈に生き抜いていたのだ。

 それは、儂が遥か昔に失ったもの。

 儂が切り捨てた、美しきもの。

 ああ……儂は、こんなにも美しき世界を、自らの手で切り捨てたのか。

 それはどれだけ勿体ないことなのだろう。

 ……どれだけ悔やんでも、儂の時間は戻らない。

 ならばせめて、この瞬間に目に焼き付けよう。

 こうして世界を回っていた儂は、とある島国を訪れた。

 亜神に至る前、このような国を知らなかった儂にとって、そこは未知の国じゃった。

 そして、儂はそこで不思議な島を見つけた。


「何じゃ? この島は……」


 島の中心地に、何故か妙な結界が張られているのだ。

 その結界は、亜神である儂ですら通ることができない。

 しかも、島全体を覆っているのではなく、本当に局所的に結界が張られているのだ。

 ひとまず儂は、結界の上空からその様子を観察した。。


「これは……とんでもなく強力な結界じゃのう。亜神である儂ですら通れぬとは……ただ、何故じゃ?」


 儂が不思議に思ったのは、その結界の力もだが、何より結界が阻んでいる物だった。

 本来結界は、内側に何かを封じ込めるために使用される。

 だが、この結界は、何故か外部からの侵入を封じていたのだ。


「……まあ良い。解除は……なるほど。特定の血脈のみ通すのか……効果が分かりやすい分、強力じゃ。文字通り、この結界を張った者の血脈以外は通ることもできんのぅ。しかも、中を見通すことすら許さぬか。ここまで徹底的じゃと、何が隠されておるのやら……少なくとも、封印ではないのぅ」


 どの血脈なのかは分からない。

 しかし、ここまで強固な結界を展開している以上、何かがあるのは確かだろう。

 どうせならこの結界をより詳しく調べたいところだったが、残念ながら儂に残された時間はあとわずか。

 そのうえ、島の様子をざっと見てみたが……中々強力な魔物が多い。この魔物どもを相手にしつつ、結界を調べるのは面倒だろう。

 もっと早くに世界を見て回るべきじゃったと、微かな心残りが生まれたところで……彼を見つけた。

 十五ほどに見えるその少年は、何やら醜悪な魔物に襲われていたのだ。

 その魔物自体も儂は初めて目にしたが、儂にとっては何の脅威でもない。

 しかし、今その魔物と戦っている少年にとっては違う。

 ただ、その少年は生を諦めておるのか、魔物の攻撃を眺めるだけだった。

 ……はぁ。

 その日を必死に生きる者もいれば、あのように生を諦める者もおるのか。

 必死に抗うのであれば、助けてやらんこともなかったが、はなから生を諦めている者に手を貸すほど暇ではない。

 儂がその場から立ち去ろうとした瞬間……強烈な生命力の波動を感じた。

 思わずその方向に視線を向けると、そこには先ほどとは打って変わり、人骨を手にした少年が。

 生を諦めていたところから、目を見張るほど生命力を漲らせ、何が何でも生き抜くという生への執着が感じ取れた。

 そして、魔物と少年の戦いが始まる。

 だが、それは戦いとは呼べぬほど一方的なものだった。

 魔物に全身を噛みつかれ、今まさに息の根を止められようとしている中、少年はその状況でも生を諦めない。

 死を目前にしながらも、生きることを確信しているのだ。

 ――――面白い。


「――――ほっほっほ。こりゃあ凄まじい生命力じゃのぉ」


 儂がそう思ったときにはもう、その少年を助けているのだった。


***


 俺は、徐々に意識が覚醒するのを感じつつ、瞼を開ける。


「うっ……あ……」

「目が覚めたかの」

「!」


 すると、先ほど気を失う直前に耳にした声が聞こえてきた。

 声の方に視線を向けると、そこには穏やかな笑みを浮かべる一人の老人が。


「どうじゃ? 体の調子は」

「体……そ、そうだ! 俺っ……!」


 そこまで言いかけて、俺の体が完全に回復してることに気づく。

 そ、そんな馬鹿な。

 確かに俺は、堕飢に体を喰われた。

 だがどれだけ確かめても、体に傷一つ存在していない。

 しかし、俺の着ていた服は堕飢による襲撃を物語っており、ボロボロになっている。

 呆然と体を眺めていると、ご老人は満足そうに頷く。


「うむ。久しぶりに治療術を行ったが、儂もまだまだ現役じゃのう」

「あっ……た、大変失礼いたしました!」


 自分が目の前のご老人の手によって救われたことを思い出し、すぐさま感謝した。


「こ、この度は老師様のおかげで救われました。本当にありがとうございます……!」

「あー、よいよい。そう畏まるな。儂はただ、偶然お主を見つけただけじゃよ」

「は、はあ……」


 適当に手を振るご老人に、俺は何とも言えない返事をした。

 このお方……ただ者ではない。

 まず、ここは紫位刀士でなければ到達できない極魔島だ。普通のご老人が足を踏み入れるなど不可能である。

 そこにふらっと現れ、一瞬にして堕飢たちを殲滅して見せた。

 本来、そこまでの実力があれば、どれだけ気配を隠そうとも、体から溢れ出る気配は相当だ。

 しかし、目の前のご老人からは決して大きな気配が感じとれない。

 それどころか、そこに存在しているのかさえ不安になるほど、気配が希薄なのだ。

 ただ、これらすべてが可能である存在を、俺は一つだけ知っている。


「そ、その……亜神あじん様、でしょうか……?」

「ほう? その年で亜神を知っておるのか」


 ――亜神。

 それは人間でありながら何かを極め、神の領域に足を踏み入れた者たちを指し示す言葉だった。

 俺も昔、陽ノ国に関する歴史書を読む中でその言葉を知ったのだが、世間ではあまり有名ではない。

 というのも、亜神は基本的に世俗から離れ、それぞれの領域に引きこもってしまうからだ。

 ただ、実は陽ノ国初代皇帝も亜神になられたのではないかと言われている。

 俺の問いに楽しそうに笑うご老人を見て、それは確信に変わった。


「ま、まさか亜神様に助けていただけるとは……」

「だから、そう畏まらんでもよいと言っている。儂がお主を助けたのも、単なる気まぐれじゃしな。それに、神などと呼ばれておるが、亜神なぞただの変人どもの集まりじゃぞ?」

「そ、そうなのですか?」


 俺にはそう答えることしかできない。

 たとえご老人が他の亜神様を変人と仰っても、俺にとってみれば、雲の上の方々であることに変わりないのだから。

 すると、亜神様は俺に訊ねる。


「それで、お主はこんな場所で何をしておったのじゃ?」

「あ……」


 亜神様からの問いに、つい表情を歪めた。

 本当は人様にお話しするような、気分のいい話ではない。

 それは俺が話すという意味でもそうだが、何より俺の話を聞いたところで面白くもないからだ。

 しかし、亜神様は俺の恩人である。


「その……あまり面白い話ではないと思いますが、構いませんか?」

「別に構わんよ」


 亜神様が頷いたのを確認して、俺は自分のことを語った。

 この場所に来るまでの経緯を。

 最初は簡単にまとめて話すつもりだったにもかかわらず、気づけば俺は、亜神様にすべてを話していた。

 ここまでの人生を語っていたのだ。

 もしかしたら俺は、誰かに聞いてもらいたかったのだろう。

 母上が亡くなってから、俺の話を聞いてくれる人などいなかったから。

 だが、それはあくまで俺の感情である。

 こんな話を聞かされたところで、亜神様も困るはずだ。


「す、すみません……もっと簡潔にお話すれば……」

「いや、よいよい。しかし、そうか……なるほどのぉ……」


 亜神様はその立派な髭に手を当てると、何やら思案する。

 そして、大きなため息を一つ吐いた。


「はぁ……お主、歳は?」

「あ……じゅ、十五になります」

「まだまだ小童じゃのぅ。それをこんな場所に……これだから人間は嫌なんじゃ」


 心底うんざりした様子で、亜神様はそう呟いた。

 すると、今度は亜神様がご自身のことについて語ってくださった。


「儂はのう、そろそろ天寿が近くてのぅ。死ぬ前に一度、世界を見て回っておこうと思ったんじゃ」

「なっ……あ、亜神様が死ぬ!?」


 それは俺にとって、大きな衝撃だった。

 なんせ、亜神様は神の領域に足を踏み入れたお方である。

 それが普通に天寿を全うし、亡くなるというのが信じられなかった。

 そんな俺の反応を見て、亜神様は笑った。


「何を言っておる。儂だって元々は人間じゃ。確かに亜神に至った際、人の肉体は捨て、新たな肉体を手に入れた。とはいえ、万物には終わりが存在する。亜神の肉体もまた、終わりがあるのじゃよ」

「な、なるほど……」

「とはいえ、万年生きておるからの。儂としては、これ以上この世に未練もない」


 まさか、亜神様は万を超える年月を生きているとは思いもよらなかった。

 しかし、考えてみれば納得できる話である。

 もし亜神の寿命がないのであれば、亜神に至ったとされる、初代皇帝もいまだに生きていることになるからだ。


「それで、お主はどうするつもりじゃ?」

「え?」


 予想外の言葉につい聞き返してしまうと、亜神様は穏やかに続けた。


「お主は生贄にされることを望んでおらんのじゃろう? それならば、儂が故郷まで連れ帰ってもよいぞ」

「それは……」


 確かに亜神様であれば、ここから脱出するのは簡単な話だろう。

 だが……。


「……帰ったところで、私には居場所がありませんから」

「ふむ……それならば、どうするんじゃ?」


 俺は……どうしたいのだろう。

 分からない。

 今の俺には、何をするべきなのかも、何がしたいのかも、分からなかった。

 具体的な考えは何もない。

 ただ、それでも一つだけ言えるのは――――。


「生きたい、です」


 そんな曖昧な答えを告げると、亜神様は笑った。


「生きたい、か。よい答えじゃな」

「え?」

「これも儂が死ぬ前の、最後の大仕事じゃな」


 呆然とする俺に対し、亜神様は立ち上がる。


「少年よ。名は何という?」

「ご、護堂刀真です」

「うむ、刀真か。では刀真よ――――」


 亜神様は俺を真っすぐ見つめ、言い放つ。


「――――儂の弟子となれ」


 ――――俺の運命が、動き出した。

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