16. 母さんのことを
〝突然に旅立ってしまった愛する父母よ
次の世ではその生が穏やかであることを
どうかパヒスースの手がその道行きをお護りくださらん事を〟
墓碑にはそう刻まれていた。
木漏れ日の揺れる、ジュール・エスタシオとニュイ・アカーシャ=エスタシオの墓の前で、ユエは
自前の服ではなく、いささか古風なターラタン生地のドレスを着ている。その姿はさしずめ「親の服を着た十五歳の娘」にしか見えないだろう。
この姿を鏡で見た時、
(かなわぬ事なのだろうが、今一度、この時に戻りたく思うよ)
この時とはつまり、右目と名前を失う前の娘が、このドレスを着ていた頃のことだ。
ユエは今、ウェランの家に客として滞在している。
※ ※ ※
子宮の魔女が眠りにつき、戻ってきたユエの身体はいつものように完璧だった。
腕や腹、胸の縫合跡も一切がなくなり、毛織の胴衣から伸びる腕も、湯上りの如くつるんとしていた。
傷跡はなくなってしまった。
ユエはひとつため息をつき、夜風にくしゃみをひとつする。そして、
ウェランが在宅であるのは話し声で確認した。聞き耳をたてるに、他にもプルイという娘が滞在しているらしい。
崩れた化粧をどうにか直し、外へと忍び出て、再び正面玄関を訪れる。
応対した家政婦に紹介状を渡して客間に通され、ユエは考えておいた自己紹介を口の中で反芻する。
そしていささか疲れ気味のウェランがやってくるなり発言した。
「わたしはユエと言います。ユエです。遠い東の国から来ました。助けてくれたお礼を言いたくて、セレーランさんに紹介の手紙を書いてもらいました」
挨拶も済まないうちからの非礼だ。困惑と苦笑を浮かべた男へ、こう畳みかけた。
「わたしは、あなたの姪っ子です」
もちろん事実ではない。元の名で呼ばれてしまうのを防ぐための、そして、仮に元の名が口にされたとしても、その名が自分に向かないようにする
だが、術とはまた別の狙いもあった。
ユエは、自分がすでにウェランの姉ではないと確信していた。
ならば、それも伝えるべきではないだろうか。
ずっとあの時のままになっている「あの子」の部屋には、もう誰も帰らないと、伝えるべきではないのだろうか。
突然の姪の登場に驚きと疑いをないまぜにしてウェランが席に着き、ユエは非礼を詫び、お茶が出された。
勧められて口をつけ、熱くて怯む。
調度品の趣味は良いが、客間から感じた気分のかけらは、拒絶、隔離、あこがれだ。
「あの子」もあまり立ち入らせてもらえなかったのかもしれない。
ユエは緊張を感じていた。肌の内を流れる血の色も見透かすような視線が、正面から投げかけられている。
「実は、僕の血縁を騙る者はそれなりに多いのだ。なぜだかわかるかな?」
「お金持ちだってセレーラン先生が言ってました」
呆れたような表情が浮かぶ。その顔からもなにがしかの「気分のかけら」がユエの胸に入ってくるが、リールーがちょうどいい所で助言をくれた。
(姉君が消息不明であったわけで――)
あ、そうか。
「お姉さん、いなくなったから――その息子や娘だって嘘つく人がいる?」
「そうだよ。気を悪くしないでほしいのだが、僕の姪と言われても、やすやすと信じることができないのだ。ユエくん、といったか? 君が僕の姪だというなら、なにか証拠を見せて欲しい」
この展開は予想していた。ユエは胴衣の懐に手を入れた。ユエの持ち物で、唯一、この家とつながりのある物を取り出す。
「これを、母さんは、その母さんからもらったそうです。わたしも、母さんからもらいました。初めて月が巡ってきた日のお祝いの、
テーブルの上に置いた削り出しの金属鏡に、ウェランの表情が変わった。
「他には……他には何か言っていなかったかね?」
言われて、他を考える。リールーも思い出そうと唸っている。
その間に、ウェランの震える手が鏡に伸びて来ていた。
ふいに、気分のかけらが来た。
「さわらないで」
「済まない」
と手が引っ込む。
「あ、ちがいます。あの、お姉さんは。その鏡を、触らないでほしかったみたいで」
言い
「ああ……そうだ。そんなことがあったよ……。あの頃、僕も、永久鏡なんて見たことがなくてね。置いてあったのを手に取って、いろいろ映していたんだ。それで――鏡がなくなったと思った姉さんと、ケンカになってな……まったく、置きっぱなしにしてたくせに、すごい剣幕で怒鳴られてな……」
ハンカチで目頭を押さえるウェランを前に、ユエは心の準備をする。来るだろう質問に、答えなければならない。
「それで、姉さんは、君のお母さんは、今どうしているんだ?」
瞳の奥に期待が覗いた。ユエの心は揺れた。いっそ、嘘を重ねてしまおうかとも思った。
「母さんは――」
けれど、ウェランの姉が帰ってくることは、ないのだ。
「死にました」
そこからは、自らの体験を交えた作り話だった。
魔女の呪いを受け、
呪いのせいで帰れず、そのまま東で娘ができて、育てた事。
この右目には母の使い魔の目が入っている事。
父親はおらず、母は
そして、とある山の村で病に倒れ、亡くなった事。
長い沈黙の後、ウェランは「遠い所からよく来て、よく知らせてくれた」と低い声でユエをねぎらうと、長い長い溜息をついた。
四十年が、吐き出されていく。
時計の鐘が十一回鳴って、ウェランは顔を上げた。
「ユエ君、もしよかったら、しばらくうちに滞在してくれないか。君の、肖像画を、ぜひ描かせてくれ。君にも何か、街でやりたいことがあるなら力になるが、何かないかね?」
ユエは少し考えて、答えた。
あの子のことを
「母さんのことを、知りたいです」
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