10. あの子

 階段をひとつ降りるたびに、胃のあたりが徐々に締め付けられるような感覚があった。

 

 あの時の照明は蝋燭ろうそくだったが、今はここも瓦斯ガスが照らす。

 食糧などの貯蔵棚は新しくなり、いろいろと細かな配置も変わっていたが、地下の構造そのものは変わっていない。

 目的の一角に進む。レンの壁を前にして、床に膝をつく。

(覚えておるのか?)

「うん」

 隙間ひとつない壁の、下側のへりに左手を這わせる。皮膚感覚が煉瓦ひとつ分のへこみを見つける。その凹みの中へ手を差し入れる。左目にも右目にも手が壁に潜り込んだように映り、違和感を嫌ってユエは両目を閉じた。

 手のひらを上にして探るとすぐに、指が金属質の突起に触れた。四つある。それぞれに指を当てる。

「この街の思い出もこの家の思い出も全部なくしたのに、魔女の事だけは喰われないんだ。魂を受け取ったことも、この隠し通路の開け方も、この先で起こったことも」


 ため息のような深呼吸をした。

 気持ちを落ち着けるためでもある。

 魔力を取り込むためでもある。


「こんなところ、あの子はどうやって見つけたんだろう」

(鼠が逃げ込むのを、偶然見たのだそうだよ。不審に思って壁を蹴ったと)

「おてんばさんだ」

(そうしたらば、壁から鼠が飛び出してきて泣くほど驚いたと)

「でもそこに手は突っ込む子だったと」

 取り込んだ魔力を指先へと通し、突起へと順番に流し込む。

 よん、いち、に、よん。小指、人差し指、中指、小指。

 魔力を流し込むのに反応して、微かに金属音がする。しっかりした魔力の扱いが身についていなければ、この仕掛けは開けられなかっただろう。

 煉瓦の目地にジグザグと光が走る。

「こんな仕掛けがあるのも驚きだけど、この順番を見つけたのにびっくりだよ」

 ぱきりと音を立て、光の跡に沿って壁が分かれる。ユエは立ち上がり、分かれ目に指を差し込んで壁を開く。重く、しかし滑らかに、壁が引き戸のように開いて行く。

(飽くなき探究心で見つけた、と言っておったよ)

 総当たりか。

「見つけなかったら、あの子も今頃は普通のおばさんになってたかもしれないね」

 手を離すと、壁はゆっくり戻ろうとする。

「――ここを見つけるような子なら、別のどこかを見つけたか」

 目の前にぽっかりと開いた暗い通路へユエは進み、壁は背後で合わさってと乾いた音をたてて接合した。

 猫の目ですら何も見えない、真の闇。



 手鏡を出し、魔力を取り込んで、鏡のモノ「遅々ラルゴ」に呼びかけた。

 遅々ラルゴはユエに答えて、先ほど屋根裏で跳ね返すはずだった光を

 永久とこしえかがみから出るぼんやりした光を頼りに進めば、すぐ左手に現れる錆び付いた鉄扉。

 そしてリールーの低く明晰な声。

(大丈夫か?)

「……なにが?」

(私の所まで届いておるぞ、そなたの鼓動が)

「だいじょうぶ。――緊張してるし、思ったより怖いけど、この気持ちはわたしのものだ。わたしが引き受けるよ」


 そして、ユエは扉を開ける。


 悲鳴。

 悲鳴の幻聴。

 耳鳴。


 耳鳴が高音部を走り鼓動が低音部を刻む。

 ユエは喉を鳴らして荒く息を吸い、止め、歯の隙間からゆっくりと吐く。

 繰り返して整え、目を凝らす。


 何のために作られたのか誰も知らない、がらんどうの隠し部屋を遅々ラルゴの光が弱々しく照らしていた。静寂というよりは空白な、古い館の底。

 あの時もこの魔法を明かりにしていた。

 紐を通した手鏡を、首からぶら下げて。


 歩みを進める。

 古びた布が落ちている。

 あの時は緊張をほぐしたくて、リールーに軽口を言った。


 ――遅々ラルゴ、別にいらなかったよね。翡翠のランプで照らせばよかったんだ。


 布は、翡翠のランプを包み隠していた物だ。

 あの日、包みを開き、眩しさに目を細めた。

 ある晴れた日に湖に潜って、空を見たときの模様。

 壁に映った緑の紋様はそれに似ていた。


 魔女の魂が灯火のように揺らめき、翡翠の六角柱を透過した光も踊っていた。


 美しかった。


 部屋に満たした霊銀エーテルの気体に、緑の光が漂う帯となっていた。

 そして自らの名を名乗り、魔女の魂に魔法の繋がりを求めて、あの子は最期を迎えた。

 あの時、ランプを持つ両手に滲んだ汗の感覚さえ覚えているのに。

 

 ――助けて。おかあさん、おとうさん、助けて。ごめんなさい、もうこんなことしないから。ごめんなさい。ごめんなさい――


 自分の悲鳴も、魂を齧られる痛みも覚えているのに。

 あの時、両親を求めて泣き叫んだくせに。


(ユエ?)

「へいき」

 そうだ、平気なのだ。

 家政婦からジュールとニュイの死を聞いてユエの口をついたのは「そうでしたか」という言葉だった。そして、お悔やみの言葉を探した。言葉を知らなくて言えずに終わった。

 二人がこの身体の両親だということはわかっている。だが、彼らに対して抱く感情は、どうあっても他人の域を越えていかない。

 たとえば屋根裏にあった赤ん坊の服も、小さなドレスも、彼らの注いだ愛情の形だったのだと思う。だがそれは「あの子」に注がれた愛情であったとユエは感じる。ユエ自身の感覚は、この家につながっていかない。

 想像することはできても、納得することができない。


 いま在るのは、魔女と猫を抱えた別の子だ。このわたしだ。



 ――大バカな、わたしだ。


 

 わたしが彼らをなくしても、彼らは覚えているだろう。

 そんなことが、わからなかったはずはないのだ。その事を、もっと考えておくべきだったのだ。考えて、できることを探すべきだったのだ。クォンにだって、相談してみればよかったのだ。どんなふうに彼らが思っているだろうか、だとか、しばらく離れても大丈夫か、だとか、そもそもどうしたらいいだろう、だとか、話してみるべきだったのだ。


 クォンはもういない。

 魔法にもまじないにも、死者と語らうすべはない。

 ジュールもニュイも亡くなってしまった。


 伝えなければならなかったのだ。

 に実感がなくとも、あなたたちの娘は生きていると。


 事情があって会うことはできないけれど、家族を持ち、幸せな時間だってちゃんとあるのだと、伝えなければならなかったのだ。

 手紙でも、書き置きでも、人を使った伝言でも、やってみればできただろうに。この街にだって、来ようとすれば来られただろうに。


 ――わたしにしかできなかったのに。

 

 喪失感が肺を埋める。

 左手で顔を覆い、右手が鏡を握りしめる。

 胸が重い。

 その重さを抱えてユエは膝をついた。

 この重ささえなくしてしまう時が来るかもしれない。

 それでも、この部屋からはじまった因縁には決着をつけなければならない。

 古い布をつまみあげた。

 ここでやっておくことがあるのだ。


 ランプを包んでいた布がここに落ちているなら、その破片もこのあたりにあるはずで、期待通りにすぐに見つかった。

 割れたランプは拍子抜けするほど普通の、魔法的な気配もなにもない石に思えたが、ひとまず先ほどの古布に包んだ。


「ここは、これぐらいかな」

 黙っていてくれた相棒リールーに声をかけて立ち上がろうとし、少しよろめいて後ろに一歩、足をつく。


 ぱきり。


「わ、何か踏んだ」

 驚いて足をどけ、鏡の明かりで照らす。

 ぼんやり浮き上がる、くすんだ白色の骨。

 ユエが踏んだのは、骨の後ろ脚の辺り。

 ユエもリールーも獣骨に詳しくない。

 が、この骨には心当たりがあった。


 王族猫ケトリールのものだ。


「ごめん!」

(いや、いや、よい。今の私は、ほら、におるのだし)

「そうだけど……うわぁ、リールーの骨を折っちゃった気分」

(言葉の上ではその通りなのだが、この私は痛くも痒くもない。非常に斬新な体験で戸惑ってはおるが……ユエ、なぜ服を脱ぐのだ?)

「だって、包みがないから」

 と毛織の胴衣を脱ぎ、その下の麻の袖付きを脱いで、これに拾った骨を包む。

(持って行くと?)

「だって大事だよ……ちょっと忘れてたかもしれないけどさ」

 赤い胴布イェムの上に毛織の胴衣を再び着込む。包んだ骨をユエは愛おしそうに胸に抱えた。

「さすが王族猫ケトリール、骨も太くて立派だね」

(私はここだと言うのに)

「なぁに? ヤキモチ焼いたの?」

(自分の骨にか? 馬鹿を言え。……他にやり残しはあるかね?)

「ないよ。戻ろう」

 顔だけで笑って鏡をしまい、ユエは魔力を吸って魔法を構えた。

 もう一度隠し扉を開けてこっそり戻ってもいいが、屋根裏に目印の平笠を置いてきてある。戻りは魔法で楽に行きたい。

 構えた魔法を発動する。

 

「猫は、いつの間にかいなくなる」

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