9. 何かだった、ということだけが

(――落ち着いたか?)

「うん。まだ気持ちがざわざわするけど、大丈夫、行こう」

 邸宅の屋根の上。

 ユエは魔力を呼吸する。

 リールーから魔法を受け取る。


「せーの」

 ぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶ。

「よし」


 水気を払い、気分を変え、天窓を開けて屋根裏へと侵入した。


(な? 開いただろう?)

「こんなのよく知ってたね」

(当時はまさに猫であったからな。猫たるもの、家は隅々まで治めなければならん。よって王族猫ケトリールたる往年の私がそのように定めたのだよ、私を前にしておのずと開く通り道としてな)

「すき」

 唇で二度、キスの音を立てる。

 つんつん、と振動が返ってくる。

 照れたんだな、とユエは笑う。


「物置?」

 古い家具や衣装箱が目立った。

(そうだ。使用人の部屋を通り道にしても良かったが、好みに合わなかった)

「そうなんだ。――気分のかけらも、ほとんどないみたい」

 つまり、この家で暮らしていた頃にはあまり立ち入らなかった場所なのだろう。古い木材の湿ったにおいがあるけれど、カビ臭くはない。床に拭き跡もみられるので、定期的に掃除は入っているらしい。

「立派なおうちに住んでたんだ」

 手近に積まれた衣装箱をなんとなしに開けてみた。

「わ、赤ちゃんの服。へぇ、見てよリールー、すっごいフリフリしてる。こんなの着てたんだ。こっちは――ちっちゃいドレス」

(赤いな)

「この頃から好きだったのかもね、赤」

 丁寧にたたんで戻す。特別に気持ちを揺さぶられる感覚はなかった。幼い頃に着ていたのは間違いないだろうから、この服のことは魔女を宿す前から覚えていなかったのだろう。そうユエは結論付けた。

 衣装箱の蓋を閉めればポンと鳴り、古びた香り袋サシェの匂いが鼻をくすぐる。ユエの胸を見知らぬ気持ちが通り過ぎる。

 この音と匂いが「あの子」にとって何だったのか、もう誰も知らない。何かだった、ということだけがユエの心をかすめて、それも音や匂いが消えれば去った。


 ほぅ。息をつく。


 こう平笠ひらかさを外し、手鏡を出した。

「おいでませ、遅々ラルゴ

 と鏡のモノに呼び掛けて魔法を発動し、鏡面を上にして置いておく。次いで塩袋や蟲袋を胴衣の懐に仕舞うと、最後に「鷹の目の呪符」を近くの壁に貼った。

 呪符には猛禽を思わせる両眼が描かれており、その目が見る場所は「もう見た」と他者を惑わせる。そうやって物や人を隠してくれる。はずなのだが

「ちゃんと効くかな。……貼っちゃったけど」

 西こちらに来てからまじないは効きが悪い。

(弱気だな。どうしたのかね?)

「む。効くよ。効く効く。まじない師歴四十年、化け猫ユエさんのおふだですよ」

 手鏡の鏡面が暗いことを確認して、懐に収めた。

「じゃ、あの地下室まで案内をお願いね」

(承知した。ここから地下までの道のりだが――)




 この屋根裏に来る前に、ユエは正面玄関を訪ねていた。

 古く分厚い扉を前にして落ち着かず、一度は眩暈めまいがして退いた。どうにか戸を叩くと、出てきたのは留守を預かる家政婦の一人だった。

 見た目も言葉もあやしいユエをあからさまに警戒していたが、セレーランの紹介状を見せると、ウェランは出かけていると教えてくれた。行き先は聞かされていないが、絵を持って、手伝いの娘も一緒だったので、画廊か印刷所だろうと。

 それぞれの場所への道筋を言われたが、土地勘がないので覚えきれなかった。

 仮にウェランに会えたとして、屋敷の中を自由に見て回れるとは限らない。それならと、いちど忍び込むことにしたのだ。




 今、ユエは屋根裏部屋の床を軽く手で払い、耳をつけて音を聴く。近くには誰もいないと判断し、ユエは音もなく屋根裏から二階へ降りる。リールーが視線と声で誘導してくれる。

 二階には独特のにおいが感じられた。ねっとりと胸に溜まるような、あまり好きにはなれない臭いだ。臭いと共に苛立ちやもどかしさが入り込んでくるが、これはのものではない、とユエはやり過ごす。


 二階は家族それぞれの寝室、とリールーから聞いていた。


 気分のかけらが何に染み付いていて、いつ、どのように流れ込んでくるのか予想できない。不意に立ちすくんで見つかってしまうと面倒なので、なるべくまっすぐ地下室を目指したい。

 しかし、案内役であるはずの右目リールーが、とある扉に釘付けになっていた。感情が入り込んで来る前に、ユエは右目を閉じる。

「あとでね」

(すまん。つい)

 リールーが気を取られたというなら、あの部屋には色濃くうず高く気分のかけらが積み重なっているだろう。おそらく「あの子」の部屋だ。後にしておきたい。

 左目は絨毯の柔らかそうな毛足を見ている。この毛足が肌を撫でる感触がわかる。柔らかく見えて、こすると意外と硬いのだ。

 記憶はないのに、感覚だけが残っている。


 ――思った以上に大変だな、これは。

 

 白い階段をするする降りて、耳をそばだてる。食器の鳴る音がわずかに聞こえる。あとは、かつ、こつ、かつ、ごぅん!

 ――なに!?

 

 いきなりの鐘。

 この鐘には「あの子」も驚いたことがあるらしく、その感覚も入り込んできてユエの心臓が早鐘を打つ。

 鐘はまだ鳴り続けている。外からも別の鐘の音が聞こえる。


(時計だ、落ち着けユエ。左を向いてくれるか? 地下へは食堂奥の階段を使うぞ)

 左へ顔を向けると、リールーの視線は廊下の向こう、ひとつの間口を指した。

(食堂の隣に小間があってな、手伝いの者たちはそこで食事をとるはずだ。食堂を突っ切るのなら今がよいだろうな)

「なんで今ってわかるの?」

(鐘が十二回鳴ったろう。昼飯時だ)

「だいすきリールー」

 目を伏せ、さっと廊下を移動する。食堂手前で壁に身を寄せて様子を窺うと、隣の部屋から話し声が漏れ聞こえていた。

 絵のモデルらしい。あんな若い子を。旦那様が見たら。すごいお化粧の。セレーラン先生が。そんな単語がもごもごと鳴る。

 確認できた声は三人分だ。


 ――四十年間かわらず、か。


 右目の誘導に従って食堂を奥へ進み、階段室の前まで来るとユエは扉を素早く開けて身体を滑り込ませた。


 静かに戸が閉まる。空っぽの食堂に、家政婦たちのお喋りだけが微かに漏れる。

 壁には夫妻の肖像画や、小さな風景画や湿版写真が飾られていた。

 

 ユエはそれらを見ていない。それらが何なのかは感づいていて、見ないようにして行き過ぎた。



 事実をユエは知っている。

 この家の玄関を叩いた時、つまりウェランの不在を知った時に、ユエは尋ねている。

 きっと会わせてはもらえないだろうと思いつつ、確認のために訊いている。

 家政婦は一段低い声で「ご存じなかったですか」と前置きした。


 ジュール・エスタシオと、その妻、ニュイ・アカーシャ=エスタシオは、三年前に事故で死んでいた。


 マートル丘の墓地に埋葬されたそうだが、それがどこなのか、ユエは知らない。

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