8. いま降りけぶる春の霧雨
「ウェランくんとお姉さんは、ケンカばかりしてたんだねぇ」
やれやれとばかりにため息をつき、ユエが手鏡を覗いた。
(その姉がそなたなのだがな)
「あんな
(自分も褒められたかったのではないか?)
「おと、なげ、ない」
ユエの言う「あの子」の顔を、リールーは鏡越しに見ている。眉根を寄せて鼻息を吹いている。あの娘も気に入らないことがあると鼻息を吹いていた。最近のユエは髪が長いので、いっそう「あの子」に近い。
「なんか潰れた感じしない?」
(変わらぬように思うが)
「そうかなぁ……」
下唇が突き出る。
(腕や腹の縫い跡は気にせんのに、なぜ鼻は気にする?)
「んー、傷が増えるのは、どっちかって言ったら良い方だよ。でも顔はね。『ハトムギ畑の
ユエの口ずさむ東の唄。古い手鏡越しの会話。
これはアラモントの合金から削りだされた
今の持ち主たる
「一週間やそこらで治るはずなんかないんだから、おとなしくしていなさい」
とセレーラン医師は言っていたし、リールーも治りが早すぎやしないかと疑っていたが、ある日「字は読めるかい?」と医師が持ってきた「新聞」なるもの、及びそれに載っていた「写真」なるもので合点がいった。
※ ※ ※
〝シュダパヒの光と怪奇の影〟
▼屋根の上を駆け回ったお騒がせな影は奇妙な麦わら帽子をかぶり、頭も顔も真っ白な毛に覆われていたとは目撃した
行きつ戻りつ、リールーが文字を追い終えるとユエがセレーランに尋ねた。
「この『新聞』は、たくさんの人が読みますか?」
丸椅子で医者が「まあ、そうだね」とうなずく。ユエがうんうんと頷いて新聞に目を落とす。これは納得の頷きだとリールーにはわかる。なぜ傷の治りが早いのか納得したのだ。
ここシュダパヒでも、ユエがそういうモノとして成立した。法則は西の土地でも有効だった。人々の畏れが化け猫ユエを強くする。
化け猫娘が医者に告げた。
「これ、わたしです」
「ああ、やっぱり」
「はい。えっと、どうしてこの、これを持って来たんですか?」
「ん? 新聞を? やぁ、場所も日付も、これは君の事だろうと思ったんだよ。ユエちゃんユエちゃん、本当にここに書いてあるような事やったの? というかできたの?」
「はい。そういう魔法を持っています。高く跳ぶとか、速く走るとか、そういう魔法をいろいろ使います」
「あれ、魔法使いさんだった? なんだぁ、それじゃあ怪奇でもなんでもないなぁ。『怪奇と呼ばれる存在もお腹の中は人間と変わりませんでした』って話だったら学会に持ってけたんだけど」
「同じだったんですか?」
「うん。まぁ見た限りはね」
「じゃあ、このへんの、赤ちゃんできるところも?」
「それは、『子宮』っていう器官。そこはみてないよ。なに? 気になる事でもある? 月の物が重いとか?」
「つきの……月のそれは、もう何年か来ていないので、大丈夫です」
「あら、ほんとに……。君の年齢でそれはちょっと大丈夫じゃないなぁ。とはいえそっちのお薬代までは貰ってないから、よく食べてよく寝て、ぐらいしか言えないね」
そっちではない方、つまりこの怪我の治療費は泥酔したウェラン・エスタシオが払うと言ったらしい。
「大丈夫大丈夫
そしてセレーランは、ユエの完治に頭を抱えることになった。
※ ※ ※
「今日は、跳ねる日だ」
ユエが櫛を通しても通しても髪はまとまらない。適当なところで切り上げて首の後ろで縛る。
寝台を降り、赤い
「四十年前のあの子の髪型だとか、お化粧だとかってわかる?」
と訊いたらリールーを困らせてしまった。
(覚えは、こう、あるのだが……どう言ったものか)
「そっか。大丈夫」
すくなくとも
山羊革の靴を履き、毛織の胴衣を合わせて帯を締める。
行李を背負い、笠を取る。
「いつか、恩は返さないとね」
診療所のベッドは快適でしばらく寝ていたいが、そろそろ出ていく頃合いだ。
「たくさんの人に、すごいとか、こわいとか思われると、お化けのわたしは強くなります」
セレーランにはそう説明した。
わかってもらえたかどうかはあまり自信がないけれど「まぁ、まずは目の前の現実を信じますよ。オバケかどうかはともかくとしてね」と医者は言った。
「ところで、すごいお化粧だね。それもオバケと関係があるの?」
「はい。これが正式なお化粧です。強くなれます」
「そうね、強そうだ。君のその、信奉される事と、怪我の治りが早くなる事、この二つの関連が他の人にも適用できたらさ、そりゃもう画期的だと思わない? ……やっぱりユエちゃんここで検査に協力してくれないかなぁ。魔法協会さんのツテでそっち系の医術者さんにも来てもらってさ」
「ごめんなさい。やること、ある」
「あらそう? じゃ気が向いたら来てよ。悪いようにはしないから」
「はい。覚えてたら、来ます」
「いやだなぁ、忘れる予定でもあるの? じゃあ、私は往診があるからここで。もう大怪我しないようにね」
「はい。紹介の手紙の、紹介状。ありがとうございました。あめ降るから、気を付けてください」
「オバケだとそういう事もわかるのかい?」
「あめ降る日は髪ハネる。猫っ毛だから」
「っは!」
短く笑って手を振り、セレーランは裏口の戸を閉じた。
表には
煉瓦の塀に囲まれた裏庭に、鉄の門扉がふたつある。
一つは左手側、外へ出るためのものしっかりしたもの。
もう一つは正面、隣の邸宅につながる簡単なもの。
邸宅はウェランの生家だ。
診療所とウェランの家は、裏庭でつながっている。
事前にそう教えられていても、門扉越しに見る邸宅にユエは立ち尽くした。
気分が残っている。
まったく見覚えのない古い館のたたずまいが、胸を締め付けてくる。
(しかし、こんな近くにおって全く気づかなんだとはな)
リールーがいささか落ち込んだような声を出した。
「仕方ないよ、へ、部屋から、ほとんど出なくって……」
言葉が途切れる。喘ぐように息をつく。
暗い壁に明るく開いた格子の、その向こうから押し寄せる気分のかけらの奔流にユエは翻弄された。リールーでもない魔女でもない知らない誰かが、この身体で泣いている。感情がどれなのかわからない。ただ、ひたすらに気持ちがひとかたまりで。
やがて、静かに霧雨が降り始め、湿った空気は甘くなり、平笠を伝って雫が落ちる。
東方の娘は目を閉じて拳を握り、震える息を整える。
――こんな、こんなになるんだ。
魔女に思い出を喰われても、物や場所に残る「気分」がある。記憶によらぬ気持ちがある。いま降りけぶる春の霧雨にさえ、そんな気分が感じられる。
思い出は全くないのに、気分だけが濃く折り重なっている場所。
(戻ってきたのだ……)
四十年前に長女を失った家、エスタシオの家に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます