11. あの子のことなど彼女は知らない
猫がいつの間にかいなくなり、そしてどこにでも現れるのは、猫だけの通り道があるからだ。
水底のような暗い空間に、ガラス片のような「場所のかけら」が瞬いている。
遠くにも近くにも散らばるかけらの瞬きで、空間は星空にも似ていた。
ユエにもリールーにも、どのかけらがどこなのかはわからない。かけらに映る風景で判別するしかない。確実に言えることは、いまこの瞬間に見られていない場所である事と、これらの中からひとつ選ばねばならないという事だ。
息を止めていられる間に。
今回もしっかりと、縁深い平笠が近くのかけらに映っていた。そのかけらを選び取ろうとしてしかし、ユエもリールーも別の場所に目を奪われる。
とある
(
ユエの胸に入り込んできた気分は、夕暮れの水田に似ていた。誰もが仕事を終えて帰ってしまったあとの、青い穂がさわさわと揺れる水田の、何者でなくてもいい、そんな気分に。
吸い寄せられるように、ユエはその場所を選び取る。場所のかけらが広がる。そこに映る「あの子」の部屋へ道が開く。かけらが広がって、閉じられたカーテンや天蓋のある寝台や老婆が。
老婆が。
見ていた。
窪んだ瞳で。
枯れ木のような両腕が長くまっすぐ伸びてユエの首を掴んだ。
(馬鹿な!!!)
「――!!」
ユエの驚きは声にならない。抵抗するが老婆の手は外れない。魔法は「通り道」を開くので手いっぱいだ。「爪」も「すり抜ける」も発動できない。
二つの包みも手放してユエは文字通り足掻いた。しかしこの空間には、踏ん張るための足掛かりどころか、重さも上下もない。
老婆の腕になすすべもなく引きずり出され、別の宙空へ投げ出された。
あの子の部屋ではなかった。
ユエは激しく咳き込む。不正に中断された魔法に体力と塩分を奪われ、嫌な虚脱感がのしかかってくる。左目も右目も、明るい日差しをとらえ、樫の大樹を見下ろしていた。見覚えのある樹だ。小屋を抱き込んだ巨木など、そうそうあるものではない。
「おばばっ!」
じたばたと体を老婆に向けて、どうにか安定させる。
安楽椅子に腰掛け、黒山羊を従えた、茜色のひざ掛けの老婆。
ユエは苦い懐かしさを覚えた。ユエの記憶に最初からいる、三名のうちの一名。
月明かりの魔女、その人だった。
* * *
ウェランを乗せた馬車は記念公園で止まった。
午前中の霧雨も上がって、曇り空にはちらほらと切れ間が見える。
御者の手を借りてウェランは馬車を降り、連れの少女を支えるために手を差し伸べる。
少女は布にくるまれた画板を小脇に抱え、傘を手に、馬車を降りる。
「酔ってても優しいんですねぇ?」
と微笑みかけると、ウェランがうなずいて返した。少女と変わらぬ低い身長、極端に短い脚。遠目には子供に見えても、口髭の麦藁色に混ざる白や、目元に寄る皺で年齢が見て取れた。
胡桃色の瞳は眠たげで焦点が定まらず、呼吸は常に深い。
「今日も売れますかねぇ」
と少女が藍色の瞳を細める先では、人だかりに囲まれて二人組が歌っている。一人は
楽譜売りだ。
「あめが、やんで、よかったな」
ウェランのぼそぼそとした呟きに少女はくすくす笑う。
「ほんとですねぇ」
どの冊子が売られているのかは歌でわかった。ウェランが表紙を担当した一冊だ。わざわざ油彩を一枚おこし、それをもとに
家の祖母が突然に安楽椅子を駆って走り出した、という喜劇調の歌曲だが、誰も追いつけず、追いかけたものは誰一人戻ってこなかった、という不気味な落ちで終わる。
曲の軽快さや疾走感と落ちの意外さが受けて、よく
歩みを進めながら少女はほほ笑む。ほくそ笑む。
記念公園では満開のミモザがしっとりと濡れている。
「きらいだ。はるも、ミモザも、きいろも」
ウェランの呟きに浮かんでいるのは諦め。その目の前には、樫の大樹と、大樹に埋もれたような小屋があった。
「えー、春、いいじゃないですかぁ。うきうきしちゃうじゃないですかぁ」
ウェランの周りを跳ねるように少女は廻る。白いスカートが揺れて無防備なふくらはぎが見え隠れする。
ここは数十年前まで、人里と異なる領域であった。
今は拡大したシュダパヒに囲まれ、公園という都市機能になり、大樹の小屋は調査と補強改修を経て明日から一般公開される。
「じゃぁ、お願いしますねぇ」
と少女は油絵の包みをウェランに手渡し、小さな背を見守って待つ。
大樹の小屋には
ウェランもゆっくりと挨拶を返し、包みを開いて局員へと手渡した。
この小屋の公開にあたって依頼された一枚。
おお。これは。文化局の二人が声をもらす。
月明りの魔女。
魔女は自由な右手に黒山羊を従え、空を見上げる顔は月光に青白く照らされて微笑んでいる。
ウェランには魔法の素養がある。
ウェランが描くとき、意識の
外で待つ少女は、それを知っていた。
母親から聞いていた。ウェランが描くとき、空気に不思議な流れができると。
母にも魔力の流れが視えるのだろうと少女は思う。
母もかつて、ウェランの絵のモデルだった。
画家は踊り子や娼婦、道化や軽業師などを好んで題材にしていたらしい。
父はつまらない喧嘩で死んだ。
やがて母は心を病み、会えば憎しみと愛情が交互に現れる。
数年前、母にぶたれて家から閉め出され、泣きながら夜を明かしたこの公園で、魔法使いの偉い人が優しくしてくれた。少女に眠る魔法の素養を見つけてくれた。知恵を授けてくれた。
現代にも、心を治す魔法は無いのだと言う。母親の心をきれいにしたりはできないのだと。
だけど、と少女は思う。
魔女はこの世の
魔女をよみがえらせることができれば、その力を、知恵を利用できれば、母を戻せるのではないか。少なくとも、母に煩わされない生活が始まるのではないか。
たとえば安楽椅子の老婆は、最近になって発生したというではないか。
ならば魔女だって、再び発生させられるはずだ。
街の娼婦の間には様々な薬が出回っている。たとえば、月の巡りを止める薬が。
知識をかき集め、薬を飲み、少女は大人になるのを止めた。
魔女の魂を引き継げるのは、月の巡らぬ女児の間だけだ。
少女は名をエーラという。
安楽椅子の老婆の
街角で見かけた画家は「
今、出版という形で、怪奇譚という形で、歌という形で、魔女の
何もかもが思い通りに進んでいる。
ウェランがひょこひょこと小屋から出て来た。手ぶらだ。絵の原本も、実際に魔女の生きた場所に納められた。
エーラは口にする。祈りのように繰り返す。
「おいでませ、おいでませ、月明りの魔女。おいでませ、月明かりの魔女」
四十年前この街にいた、あの子のことなど彼女は知らない。
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