2. 安楽椅子は疾走す
「ご加護あれ」
通りすがりの誰かの言葉に、そういえばそんな風習もあったな、と右目は思い出した。
くしゃみには、ご加護あれ。ご加護あれには、ありがとう。
声をかけてきたのは何者かと追おうとしたが、目の動きだけでは限界がある。
首は、先ほどのくしゃみにも構わず
喉が
「前見せて、リールー」
ぎゅっと視界が流れ、まず刺激的な色彩を認識して、次いで像の形を知る。豊かに広がるスカートをたくし上げ踊る逞しい女を主題に、影を背負って細身の男が相対している。「
女の姿勢は見えない何かを蹴りつけているようにも見え、軸足の線も蹴り足の線も躍動感にあふれている。滲む光のような淡い円の配置に、右目はなぜか音楽が聞こえるような心持がした。
なるほど見ごたえのある絵であると認めつつ、右目は彼女に問う。その身を震わせ、眼窩から頭蓋を通し、耳へ声を届ける。
(何か思い出したことでもあるのか?)
首が左右に振られた。稲穂色の細い前髪が右目の視界を行き交う。そこらじゅうの
「そういうんじゃないよ。なんだかいいな、って思っただけ。太い線で、強くて、よく跳びそっ……じぶち!」
ご加護あれ、と先ほどとは別の声が通り過ぎる。
(風邪をひくぞ。暖かな上着か寝床を見つけねばならんな)
「綿入れも用意しとくんだった。あらかじめ教えといてよ、夜は冷えるぞって」
(私は暑い寒いの感覚から離れて長いのだ。すっかり失念していたよ)
「困ったね、『笠の神様』も調子が悪いし。街は合ってるんでしょ……っぶち!」
ご加護あれ。
「――さっきから『ご加護あれ』って、なんなの?」
右目の説明。
「そんなのあるんだ」
感心したような反応に右目は理解した。この風習の事も、娘はなくしているのだろう。
「それで、街は合ってるんだよね?」
(うむ。そのはずなのだが、どうにも私の記憶と今の様子が合わんのだよ。我々が東におった四十年で、新しく別の『シュダパヒ』でもできたのではないだろうな)
「そこのひとー?」
娘が手近な紳士に話しかけ、たどたどしく問う。
「無いって」
(聞こえておる)
娘は首を左右に振って辺りを見回しつつ、唄うようにつぶやく。
「住んでたおうちがみつからなーい、迷子の迷子の化け猫ちゃん」
右目も手がかりはないものかと注意を凝らすと、視界に茜色の影がよぎった。
見覚えのある色。不意打ちのような邂逅。
(あれを!)と視線で
二本離れた
「生きてたよ……」
娘が声を漏らした。
老婆を乗せた安楽椅子が宙に浮き、するり、新築の
「猫は」
と娘の声がして、右目は背中に――今はもう無い背中につながってきたと感じる。かつてこの街で、娘が魔法使いの子であり、右目が使い魔であった頃から、幾度となく繰り返されてきた魔法のやりとり。
「よく」
娘の身体を通って熱を帯びた魔力を受け取り、右目は「猫の魔法」を娘に渡す。
「跳ぶ!」
悲鳴ともどよめきともつかない紳士淑女の声を置き去りに、娘は屋根の上の老婆を目指して跳ね飛んだ。
「月明かりの魔女!」
と空中で娘が叫ぶ。魔女の椅子が逃げる。娘は張り出し窓の屋根を蹴る。住人が驚いて窓を開けてももう誰もいない。
「待って! 話をさせて!」
老婆の椅子は猛烈な速度で屋根を滑走し、娘は走って追いかける。
猫の右目からさらに魔法が引きだされ、娘が甲高い猫の咆哮を上げた。
にゃあああああああっ!!
魔法「
娘の首から上が白猫の頭にすげ変わった。
「あなたの子は、今でもわたしのお腹にいるよ!」
猫頭の娘が声をかけるが、聞こえないのか、聞く気がないのか、老婆の椅子は止まらない。煙突や配管を巧みに利用し、急な跳躍や方向転換を交えつつ、乗せている老婆が壊れるのではないかというほどの曲芸滑走を繰り広げる。
光の街シュダパヒにも屋根の上にはいくらかの闇があり、安楽椅子に乗った魔女と猫頭の娘が繰り広げる光景は徐々に、夜の眷属による追いかけっこの様相を呈していた。
「おばば、なんなの? 遊んでるの? だいたいなんであんな元気なの?」
娘が鼻を鳴らす。どこかはっきりした目的地があるようにも思えない、かといって、本気で振り切ろうとしているようにも思えない。宙を滑る安楽椅子なら、飛んで逃げればいいものを。
いつの間にか追いかけっこは始まりの地、
その
影はひとつ。左の方からこちらへ猛烈な勢いで近づいてきている。人の形に見える。
来い来い、来い来い、と青年は胸を高鳴らせる。
唇を湿らせ、はやる気持ちを押さえて愛機を持ち直す。
対象が来る、来る、跳ぶ、今!
シャッターを切る。内蔵の雷精管が連動して起電し、ガラス玉の中で
閃光。
「ぎゃっ!!」
悲鳴と共に、対象が目の前を勢いよく飛んでいき、
どよめき。
奇妙な
そこは
突然の大きな物音におびえる恋人をなだめつつ将校が短銃を手に窓を押し開けると、すぐ脇に誰かがぶら下がっていた。
その誰かは老婆の安楽椅子を追っていた娘であり、突然の閃光に目をやられてしかめっ面をしており、
何も知らぬ若い将校は驚き、発砲した。
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