第壱部 エピローグ

 まぶたがパチッと急に開く。

 まだ暗い。急に目が覚めてしまった。もう一度眠りにつこうと目を閉じるが、次第に喉の渇きが気になってきた。

 起きたばかりの鈍い体で台所に向かい、水を汲んで飲み干す。はぁ…っとため息が出た。

「マスター?」

 まだ馴染みきっていない夜目で床に敷いた布団の方を振り返った。

 カーテンの隙間から差し込んだ外の光がピンク色の髪を照らしている。

「ごめん。起こしちゃった?」

「いえ、本来私達は睡眠はそこまで必要では無いですから。お気になさらず」

「そっか。ありがとね」

 もう一度水を汲んでのどに流し込む。静寂に俺のため息が響く。

「……………マスター」

「ん?」

「マスターはこれでよかったんですか?」

「…」

 緩んだ口元を軽く引き締める。

「お昼、マスターは私達をここにおいてくださると言ってくださいました。けど、本当はどうなんですか?」

「……」

 即答で答えは出せた。けど、少し魔が差したような気分になって思い付きを言ってみる。

「ちょっと外行ってみよっか」

「……え?」


 ◇


 夜風で少し冷える。けど、それがどこか気持ちいい。

「寒くない?」

「大丈夫です」

 夜とはいえ明るい。空は真っ暗なくせして地面から照らしてるから変な感じがする。

「この辺も昔は街灯一、二本だったらしいよ」

「そうだったんですね」

「でも、俺が引っ越してきたころにはもうこんな感じ。これ以上明るくしようとしてもしょうがないのに夜景はもっと綺麗になってくんだよね」

「そうですか…」

「でも唯一変わらないのはジャンク街。…あ、話したっけ?モモイとカンナは俺がジャンク街で見つけたってこと」

「初耳ですし、驚きです」

「だよね~。でも、そういう突然の出会いって言うのもジャンク街だし、それは今も変わってないと思うと、なんか心にグッとくるね」

「…」

 困惑するモモイを連れ出して歩いて五分くらい。もしくはもうちょっと経ってるかもしれない。けど、まだ家からは近い。

 モモイが本題に入る。

「マスター」

 歩みは止めない。

「ん?」

「本当に良かったんですか?」

「俺の家にいてってやつ?」

「はい」

 むしろ、それ以外何もないんだけど。

「あの時は自分の気持ちでいっぱいになってしまいましたけど、現実を見るべきです。私もマスターもカンナ達も…」

「…」

「しつこいかもしれませんが、マスターは人、私達は機械、オートマタです。優先すべきは人であるマスターなんです」

「……」

「ストックホルム症候群って知ってますか?良くないものと一緒に過ごしていく内に行為を抱いてしまう事です。マスターは数列に好意を抱いて良いんですか?」

「………」

「〝心〟を持ってるのは機能の一つでしかないんです。全部プログラムなんです。人間の感情とは違うんです」

「…………」

「そんな私達と一緒にいて良いんですか?」

「…………モモイって古風な考え方をするんだな。昔の人はよく言ってたらしいよ。たかが数列に振り回されるなって」

「からかわないでください…」

 あぁ、まぁそういうこと言う雰囲気では無かったな。ごめん。

「でも、そういうことです。マスターが望むなら違う道だって行けたはずで―」

「行かないよ」

 俺は歩みを止めた。

「戻れないとこまで来たんだ。今更、モモイ達を置いて戻らないよ」

 風が吹いてモモイの前髪が揺れる。

「それに、モモイ、あの時泣いてたでしょ。あの時、どう思ったの?」

「…嬉しかったです」

「なんで?」

「………マスターが私達のことを大切な存在だって言ってくださって…それで」

「うん。それでいいよ。そう思ってくれてるだけで。その思いに数列なんて関係ない―」


 俺にとってはモモイ達は人とか機械とか関係ない。それ以上に大切なものなんだよ


「わ、わたし…」

 唇が震えていた。涙こそ出そうな顔では無かったが、あとちょっとなのに言葉が出ないようなそんな表情だった。

「ゆっくりでいいよ」

「…………背中、さすってもらってもいいですか?」

「うん」

 そう言ってモモイに近づこうとした瞬間、モモイが抱き着いてきた。

 当然でびっくりした。けど、そのまま何も言わずに腕を背中に回してさする。

「背中、暖かいね」

「マスターも……温かいです」

「………どうする?」

「もうしばらくこのままでお願いします……」

 夜の街に二人男女が抱き合っているのは異様な光景だろう。明らかに変な奴認定されてもおかしくない。けど、俺はそれでもいいと思った。目の前で俺を必要としてくれてるんだから。それに俺は付き合うと言ったんだから。

 ふと、少し上を見上げると群青色の空に雨上がりの景色が広がっていて、まだ所々に残る雲と雲の間に青白く月が光っていた。



 ◇



 寝息こそ立てていないが、目を閉じてすやすやと寝ている。

 結局、あの震えた口で何を言いたかったのかは分からなかった。けど、こうして寝顔を見るのはいつぶりだろう。

 子供っぽいんだけど表情とかは俺より大人っぽいんだよな。


 —童顏ながらも大人びていて、まだ眠っている表情しか見れていないがかわいすぎる


 頭の後ろをポリポリと掻く。

 そうだった。あの日以来か。

 もうあの日から何日、いやもう何日とかじゃないか。

 すっごい懐かしいというか…すっごい昔のことを思い出した様な気分。


 もう一度水を喉に流し込んでからベッドに戻ったら差し込む光に温かみが戻り始めた頃だった。


 これが一種のストックホルム症候群だとしたら俺はとんでもない間違いを犯したかもしれない。

 だけど、目の前の大切な存在を盲目だからそれしか見えていない。俺には他にすべき決断がある。と言って見捨てるにはあまりに残酷で俺の心を蝕むだけだ。

 紅葉はああ言ってたまだ戻ることもできるけど、俺はストックホルムだろうとそうでなかろうと、あるいはその他であろうと既にもう戻れないところまで来てしまっていた。

 いや、戻れないとこまで来たんだ。最後まで、やれるだけやってやる。

 ばいばい日常。

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