黄鶯睍睆(うぐいすなく)・前

 よくよく考えれば指摘されるまでもなく、なにもない男女が同じ部屋を使っているのは、おかしいだろう。


 それでもアマネに言われた言葉が、チカの脳内でぐるぐると円を描いているようだった。


「そりゃ同じベッドも使うだろ。セックスしてるんだから」


 性的欲求はおおむねだれにでも備わっているものである。もちろん世の中には例外というものは存在するが、アマネがああ言ったからには他の五人にはそういった欲求があるのだろう。


 であるからして、当人同士の同意があるのであれば、その欲求に沿った行為に及ぶことはなにもおかしいことではない。


 嫌悪感も好奇心も湧きはしないが、当人のあずかり知らぬ場でそういったことを知ってしまった罪悪感めいた感情は湧く。


 しかしそれを知らぬ当人に謝罪するのもおかしい話であったので、結局チカはそ知らぬフリを決め込むことにする。


 平常心平常心、と己に言い聞かせつつ、チカは寝室に備えつけられているドレッサーへと向かった。


 ドレッサーに付随する鏡の中には、一〇代中ごろの黄色人種の少女が映っている。短い髪はかなり薄い茶色で、目はお世辞にも大きいとは言えない糸目。ぐっと鏡に近づくと、目の色が茶色いことがわかる。髪よりも暗い色だ。


 客観的な評価を下すのであれば、平凡な顔つきだ。間違ってもマシロのような愛らしさも、ササのような妖艶な美しさもない。「どこにでもいるごくごく普通の」という枕詞が似合う少女が、鏡の中にいる。


 チカはドレッサーの引き出しから毛先のやや硬いブラシを取り出すと、寝乱れた髪を梳かして行く。


 次に寝室から出て小さな洗面台へ向かうと、ざっと顔を洗った。洗面台のそばにはタオルが掛かっていたので、それを使う。勝手に使っていいのかはわからなかったが、顔が濡れたままそこらを歩くわけにもいかない。


 最後にウォークインクローゼットを開けて、中に入る。ハンガーラックには白い服がずらりとかけられた。そう、白い服しかない。“城”で着ていいのは白い服だけなのだそうだ。なぜかは知らない。そういう「決まり」であるらしい。


 服は男も女も上は裾の長いワンピースタイプのものを着る。男はそれに加えてズボンを穿く。女でもズボンを穿いていいらしいが、マシロとササはどうだっただろうか? 少なくとも、記憶を失ってベッドで起きたときのチカは穿いていなかった。


 悩んだ末にワンピースに袖を通す。寝間着との違いは生地くらいで、普段着のほうが布が分厚い。それは、今の季節を考慮してあるのだろう。寝間着は触り心地はいいが、布が薄いのでこの寒い“城”を闊歩するには向いていない。


 ワンピースの上から、白い毛糸でできた、厚手のカーディガンを羽織る。だいぶ暖かくなった。寝室にはストーブがあったが、ウォークインクローゼットには当然そんなものはないので、震えるくらい寒かったのだ。


 身支度を整えるとやることがなくなった。閉め切った鎧戸の隙間から差し込む光で、朝だということだけはわかるが、時計がどこにあるのか、そもそもこの部屋に存在しているのかすらわからない。


 夜中に“城”を徘徊していたあれも朝には出なくなると聞いていた。徘徊者が立てる音を思い出すだけで、背筋が寒くなったので、チカはあわててそんな回想を打ち切る。


 ――ちょっと“城”を探検するのもいいか。


 チカは未だに眠っているアマネを起こすことはやめて、部屋の外に出てみることにした。


 大きな木製の扉を開くとき、蝶番がかすかに悲鳴を上げる。廊下はやはり暗かった。外に面した窓の類いにはすべて木の板が打ちつけられており、そこそこ完璧にふさがっているのだ。


 どうやって生活しているのだろうと思いつつ、壁伝いに移動するかどうかチカは悩む。


 そんなところへぼんやりとした黄色っぽい光がこちらへと向かってくることに気づく。


 光に照らされて浮かび上がった顔は、白い。白人的な白さよりもさらに色素の抜けた白い顔。――マシロだ。


「おはよー。なにしてるの?」


 光の灯ったランタンを持つマシロが、明るい声をかけてくれる。それだけで昨晩感じた恐怖が雲散霧消するようだった。チカはホッと息を吐いて肩から力を抜く。


 マシロは履いている白いブーツのかかとから軽快な音を出し、こちらへと近づく。


「おはよう。いや、やることがなくなったから部屋の外にでも出ようかなって思ったんだけど」

「ランタンもなしに? ……あ、部屋に置いてあるはずだよ、ランタン!」

「……探してくる」

「ついでにアマネも起こしたら? もう朝ごはんできあがるし」

「朝食の時間とか決まってるんだ」

「そうだね。けっこう規則正しい生活を送ってるよ」


 再び蝶番の小さな悲鳴を聞きながら部屋へと戻る。今度は「おじゃましまーす」とマシロがいっしょに入ってきた。


「たぶん寝室に置いてあるんじゃないかな。ここで暮らすのには必需品だから」

「暗いもんね」

「そう。日が出ているうちは真っ暗ってほどじゃないけど、日が落ちると本当に見えないから。特に今の季節は太陽の出ている時間も短いし」


 寝室の扉を開ければ、ストーブのお陰で暖かくなっていた空気がチカの顔にかかる。


 広いベッドの、チカから見て奥の側にはアマネがまだ目を閉じて寝息を立てていた。


「あ、ほら、あった」


 マシロがランタンの光をナイトテーブルに向けた。テーブルの下段にランタンがふたつ、収まっているのが見えた。


 チカはランタンを手に取る。「そこをひねれば点くよ」とマシロのレクチャーを受けて、つまみをひねった。途端、まぶしい光が漏れ出す。


「どういう仕組みなの?」

「さあ?」


 マシロが首をかしげて答える。可愛らしいしぐさであったが、答えになっていない。


「ストーブも……においしないし」

「さあ? ここは不思議な場所だからさ。みんな不思議に思ってるけど使えるものは使うって感じだよ」

「そう……」

「お風呂もベル鳴らすと勝手に沸くしね」

「勝手に?」

「便利でしょ?」

「まあ、うん」


 どうも深く思い悩んだり、考え込むのは無駄なようだ。チカはそう判じてごちゃごちゃとした思考を打ち切る。


「使えるものは使う」――そうしなければよくわからない“城”では暮らして行けないのだろう。輪をかけてその「使えるもの」もわけがわからないのだが。深く考えると頭がおかしくなってしまいそうだった。


「アマネー起っきろー!」


 マシロはランタンをナイトテーブルの上に置くや、ベッドに突撃してアマネの肩を容赦なく揺さぶった。そのさまがあまりに遠慮がなかったので、チカは少々面食らう。


 アマネが唸り声をあげる。恐ろしい犬のようだ。それでもマシロはアマネを揺さぶるのをやめなかった。


「起きろー! 朝ごはんだぞ!」

「……おきる」

「寝てるじゃん!」

「おきる……だからゆさぶんな……」

「チカも起こして!」

「ええ……」


 アマネはベッドに寝そべり、分厚い掛け布団を握りしめたまま、何度も「おきる」と繰り返している。しかし頭が起きていないのはだれの目にも明らかだった。


 チカはマシロに倣ってナイトテーブルにランタンを置き、ベッドを回り込んで寝そべるアマネに近づく。


「アマネ、起きよう」


 耳元でそう囁いた途端、ガバッとアマネが上半身を起こしたので、チカは半端じゃなくおどろいて体をのけぞらせた。


 それを見たマシロは「ほらね」とばかりに意味深な笑みをチカに向ける。チカはそんなマシロの表情のわけがわからず、呆気に取られて目を開けたアマネを見るばかりだ。


 アマネはなぜかバツが悪そうに視線をそらすと、


「……準備するから先行っとけ」


 とぶっきらぼうな言い方でチカとマシロを部屋から追い出したのだった。

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