東風解凍(はるかぜこおりをとく)・後
ベッドから降りるべく床に足を置くと、ひんやりとした冷気が巻きついてくるかのような朝。
キングサイズはあろうかという広いベッドの、チカから見て奥の側では、アマネが健やかな寝息を立てていた。
そう、チカは昨晩から今朝までアマネと同衾したのだ。
決していやらしいことはなかったと断言できるものの、寝て起きてみると釈然としない気持ちはある。
「今後一切おれの命令には逆らうな」
「妙なことしやがったら夜だろうと部屋から叩き出すからな」
そう脅しつけてまでして、アマネはチカとベッドを共にする道を選んだ。しかしこれは別に、おどろくべきことではないらしい。
なぜならば記憶を失う前のチカはアマネと同じベッドで寝ていたし、他の五人もそれぞれ同室者とベッドを共用しているらしいのだ。
チカはおどろき、釈然としない思いを抱いた。
他に寝室やベッドがないのかと問えばそういうことではないらしい。部屋は余っているくらいなのだとコーイチは言っていたが、それならばひとりひと部屋でいいだろう。チカがそう思うのは必然だった。しかし「そういうこと」ではないらしい。
「夜には出てくるからね。ひとりじゃ心細いって言うか……」
マシロはそう言い訳めいた言葉を口にする。なにが出てくるのかまでは明言しなかったが、マシロがそれを少しでも恐れていることは明らかだった。
マシロはそれを「幽霊的な」と曖昧な言葉で濁して伝えたし、他の五人も特に訂正したり突っ込んだりはしなかった。
ということはつまり、マシロを含めてだれもそれの正体を知らないか、そうでなければチカに揃って隠しているということになる。
「まー、夜になればわかる」
そう訳知り顔で言ったのはコーイチだ。そして実際、その晩に体験を経ることになったチカは、なるほど「幽霊的な」と言ったり、恐れられたりしている理由は理解できた。
ひとことで言い表すならば、それは「徘徊者」だ。チカは“城”の全貌を知らないどころか、その晩まで寝室からすら出られなかったが、古びた城の内部を徘徊する幽霊の姿をありありと想像することができた。
そう、姿は見ていない。ただ、鎖を引きずる音を立てて、廊下を過ぎ行く存在を感ずることはできた。
そして参ったことに、それはときおり狂おしく扉を叩く。まるでだれかを捜しているかのように木製の扉を叩いて、部屋にいる人間を呼ばわるのだ。
単純にうるさくてかなわないのもあるが、正体不明の存在が部屋の外にいるのだと思うとゾッとせざるを得ない。心臓がドクドクとイヤな感じに音を立てているのを聞きながら、チカはそれが過ぎ去るのを待つしかなかった。
「……あれが……あれ。言ってたやつ?」
巨大なベッドの中でアマネとは距離を取っていたチカも、さすがにそのときばかりは彼に声をかけてしまった。
部屋の外にまだそれがいるのだと思うと恐ろしく、自然と声をひそめてしまう。ストーブの火だけが部屋を照らす中、かたわらに寝そべるアマネの濡れた目玉が妙に艶めかしく見えた。
なんとなく人肌が恋しくなった。だれかとこの恐怖をわかち合いたかった。……だからみなベッドを共用しているのだろうかとチカはようやく腑に落ちる思いをする。
「本当に記憶喪失なんだな」
しかしアマネがぶっきらぼうに告げたのはそんな――チカからすれば――明白なことであった。なんとなくがっくりと肩を落としたくなる。今はベッドに寝そべっている形だが。
この年嵩の少年に優しさなどというものはハナから期待してはいなかったものの、もう少しなにか言葉の選び方ってものがあるだろうと思ってしまう。
そんなチカへ追い討ちをかけるようにアマネはひとつの真実を告げた。
「ベッドを共用してるのはな、『あれ』だけが原因じゃない」
「……と言うと?」
「……あいつら、デキてるからな」
「……え?」
「そりゃ同じベッドも使うだろ。セックスしてるんだから」
「え? え? ……え?」
チカは混乱の渦へと突き落とされた。ただでさえ正体不明の存在に心乱されていたところへ、アマネから告げられた衝撃の事実。しかしアマネからすればそれは明白な事実であり、特におどろくべきことではないのだ。恐らく、記憶があったころのチカからしても。
「いや、待って。マシロは?」
「あ?」
「コーイチとアオと、三人で同じ部屋使ってるって……え?」
「んなもん知るかよ。三人でヤってるんじゃないのか?」
「三人で? え? ホントに?」
二の句が告げなくなる思いとはこのことかとチカは思った。いや、世の中にはポリアモリーという愛の形もあるわけで、特別マシロたちの関係がただれているだとか、ふしだらだとか思ったわけではない。
ただマシロは見る限り六人の中ではもっとも背が低く小柄だったし、歳も一番下に見えた。オーバーサイズのワンピースを着ているから、正確なところはわからないものの、ちらりと見えた手首なんかはとても細かった。
そんな彼女が、ふたりの男の相手をしている可能性を告げられたので、チカは動揺してしまったのだ。
「あいつらってことはユースケとササも」
「そりゃそうだろ。ユースケのやつなんて、ずっとササの世話焼いて回ってるようなやつなんだから」
「いや、私記憶がないからわからないし」
そこまで言い及んだところで、チカはある可能性に気づいた。
「まさか」
「それはない」
「……まだなにも言ってない」
「……言いたいことくらいわかる。おれとお前がヤったことあるのか聞きたいんだろ?」
「……うん、まあ……そうですけど……」
デキてる組み合わせで同じ部屋を使っているのだ。となれば記憶を失う前のチカと、アマネがそういう関係だったのかもしれないと邪推をするのは、ある種自然な流れと言えるだろう。
けれどもアマネが言う限りではそういうことはなかったらしい。チカにはアマネの言っていることが嘘なのか本当なのか判ずることができない。己の肉体に性交渉の経験があるのかどうかなんて、少なくともチカには判断することができなかった。
「おれらはそういう関係じゃねえ」
「……でもベッドはいっしょに使ってるんだね」
「この部屋にはひとつしかないしな」
「別の部屋使ったり」
「……お前が怖いって言うから一緒に寝てやってたんだよ」
チカはたしかに外にいるらしいそれを怖いと思った。となれば記憶を失う前のチカもそう感じた可能性はある。
けれどもアマネはわざわざこちらに背を向けてそう言ったので、なんとなく嘘じゃないかなとチカは思った。
実はアマネも外にいるものを怖がっていたのか、単なる照れ隠しなのかまではわからなかったものの、今は彼の言葉を額面通りに受け取っておこう。チカの中からいつの間にやら恐怖や動揺は消えていた。
チカが笑ったのがなんとなくアマネにも伝わったのか、彼は変わらずぶっきらぼうな調子で言う。
「妙なことしたら叩き出すって言っただろ。ヘンなこと考えてないでもう寝ろ」
「うん……。あのさ、アマネ」
「あ?」
「ありがとう。一緒に寝てくれて」
チカのその言葉にアマネはなにも返してはくれなかったが、その耳がほんのりと赤くなっているように見えたのは、気のせいではないだろう。
「おやすみ」
そう言って穏やかに眠りにつきはしたものの、寝て起きてみるとなんだか釈然としない気持ちは残る。やっぱりひとつのベッドで寝なきゃならないのだろうかとか、そういう。
……けれどもまあ、いいかとチカは切り替える。アマネの別の一面が見られたという点において、夜の出来事は無駄ではなかった。そう思うことですっきりと晴れやかな一日を、チカは迎えることにしたのだった。
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