第522話 最期の剛拳


『――ナ……にィ?』

「なにが……幸せな夢に、溺れろ…………だっ」

『――――っ!』


 振り返ったコルカノが目にしたのは、今にも卒倒しそうな……否、まるでいま現在も失神しているかの様な死に体同然の男が、上転した眼球を無理矢理に押し戻し、強烈に歯を喰い縛りながら、鼻から血液を吹き出して立ち上がって来る姿だった。


『ナゼだ……一人の精神ガ抱え込める容量ヲ、遥かに超えてイタ筈』

「何に対しても上から目線で、ムカツクんだよてめぇ……っ」

『もう戻レぬ領域にマデ、“無限”は侵食しテイる……!』


 噴き出す血液に顔面を血塗れにした人類は、まるで亡霊であるかの様に血眼を吊り上げ、痙攣したまま前へと歩み出してきた。


『ナゼ……戻ってキた、お前にトって幸福の未来ヲ体現した、あの“無限”カラ……っ!』


 そのおぞましき気迫は正に悪鬼――いや、正真正銘の“神”さえすくませる邪悪は、と形容しても差し支えが無い。

 ――しかし、やはり無理を強いている鴉紋の体は、ガクンと膝を折って沈み込んだ……


『肉の身に余力ガあろうト関係がナイ。いかに天魔とイえど、一つの魂ではトテモ抱え込めないダケの“無限”を流し込ンだ。モウ遅いのだ。今持ッて、ソノ結果が変わるコトは無い』


 俯き掛けた灼眼しゃくがんが、勢い良く持ち上がって再び歩み始める。


『気力とやらデ動いてイルのか』

「……――ッ!」

『シカシそれは、苦しみに飛ビ込むだけノ愚かな選択だ……お前の魂ハすぐに破裂する』

「がた……がた、ウルセェ……!!」



 コルカノが見抜いた通り、鴉紋の魂へと流し込まれた“無限”は、とうに致死量を超えている。

 だが、しかし――――


、アモン」


 ……そう、鴉紋の魂を引き留めた、があった。


「…………」


 ――…………


 崩壊するその精神内部に置いて、ルシルと鴉紋はひたすらに視線を突き合わせていた。

 ……やがて、赤く燃え盛る瞳の真意を悟り、鴉紋は何か言いたげに……されどその様な時間さえ、もう残されていないという事実に背を押されながら、その身の権限をルシルに奪い取られた。


「……あばよ…………」


 ――――――ルシル!


 そう言い残し、ルシルは鴉紋に背中を見せて、“神”へと対峙する――!


 灼熱の悪意を噴き上げたに、コルカノは強く狼狽ろうばいして後退った。


『――――二つの魂、二つの器……ッ!』

「神に恵まれるなんて御免だ……!」

『分配したノか、魂を破裂サセんとする“無限”を……シカシ、死は免れナい。超過した情報量は、必ずどちラカの魂を燃ヤし尽くす!』


 迫り来る悪神の邪悪にたじろいだコルカノは、目前の男の下した一つの決断に、その時気が付いた。


『マサ……か……か……っ?! “獄魔”がノ為に――ッ!』


 背に暗黒十二滾り、螺旋となりて怒涛と“無限”を消し飛ばす――

 その手には冥府、瞳には灼熱を灯らせて、持てる全力全開の渾身を、うなる魂で練り上げる――!!

 鬼の憤怒を顔面に刻み、ルシルはブチ切れる!!


「俺はしかイラネェッ、この手で掴んだ、真実しかッッ!!!」


 半身となり、深く腰を落としたルシルが、拳に闇を瞬かせる。その余力の一滴さえ残さぬ様に、爆裂した暗黒が“無限”の雑多に爆ぜていった――!!


『アリエん、ナゼだ、なぜその様な決断ヲする。私の見せル“無限”に溺れながラ、安らかに魂ヲ燃やし尽くす方ガ、お前にとってハ幸福だった筈ダ!』


 背の雷鳴一つに束ね、世界を切り裂く黒の波動が――

 悪魔の怒号と共に、“無限”を塗り潰す――!!!


「ウォオオオオオオギィアアァアあああああ゛あああああ゛ァァアアアァアァァアアアァア゛ァァアアアァアアアアアアア――――ッッッ!!!!」

『理解……ガ……ナゼ! 二度とは手に入ラぬ幸せガ、現実のモノとしてソコに再現されテいた筈だ。それハ筈だ。ソレなのに、お前ハ――!』


 大地を殴り付け、超低空を加速するルシル。ギョッとしたコルカノは、それを迎撃せんと“神聖”の一挙を掌より打ち出した――


“無限”へとアイン・ソフ――!!!』


 濃蜜された“世界”がルシルに覆い被さる。だがそこで、ルシルの背の暗黒が豪快に爆ぜて、二段回目の加速を遂げた――!!

 溜め込んだ右腕を後方に、世界を置き去りにして、全身で“無限”をかき分けていきながら、黒の閃光を走らせる――!!


「――テメェの世界にはぁ……んだ」

『――――……!!』


 強烈に叩き付けて来る概念を物ともせずに、ルシルは“世界”の深みへ、真っ向から拳を振り上げる――!!


「テメェの世界に委ねたら、オレがとやって来た事ガッ! アイツらの生きた痕跡ガ!! アイツらの存在ガ!! ――ッゼンブ嘘になっチマウじゃねェカッッ!!!」


 限界を迎えた魂を暴走させ、“無限”をえぐり、風穴を開けて直進して来るルシルへと、コルカノは叫び付けた――


『ソうして醒めた世界ガ、望まヌ形、誰も居ナイ悲惨なにナッたとしてもか――!!』


 打ち出すに亀裂が走り、邪悪の柱が立ち上った事にコルカノは驚愕した。

 そして“極魔”の声を聞く――!


「ソウダッッッ!!!」

『……っ!?』


 “無限”を押し退け強引に迫り来た男の、強烈に灯った赤目が“神”を射貫く!!


『ヒ――――ッ』


 全身に走るの感情に、コルカノは短い悲鳴を上げていた――


「俺はアイツらと!! この世界を生きた!! がむしゃらに――!」

「ァあ……ァあアあアあアあアあアあッ!!!!」

「――力と魂の精一杯に――ッッ!!!」


 恐怖に怯えたコルカノは、目前で漆黒の左手で切り裂かれる“無限”を目撃する――


『ハ――――――!!』


「その、結末がどうであろうと……」


 ――そして、神の視界を埋め尽くす。

 漆黒と暴虐の覇気!! 渦巻く暴力の螺旋!!

 世界が暴圧に屈し、力尽くの剛拳を見上げる――!!



だけは否定させネェッッ――――!!!!!」



『ァ………………』


 放心したコルカノの頬に、鉄拳がブチ込まれていた……


『ぁ………………』


 それは強く、神の想像を絶するだけの膂力りょりょくで、捻り、突き上げられていく……


『――――………………っ』


 ……そうして、冥府の邪悪を溜め込んだ拳は



 魔王の怒号に――――!!



「――『雷轟ライゴウ』ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!!」



『ガアッッ――ば?!! ――――アッっ!!!! ァバ、ばばばばッッ――??!』


 爆裂した邪悪は轟音と共に空にささくれ立ち、そこに漆黒の電光が、無数に突き抜けて結晶を残した。


『ゲぁ……ぅボ――ボボボッボギ――――ッ?!!』


 その身を四散させるしか無かったコルカノは空へと投げ出され、分断された身を、雷鳴轟く黒き電光の刃に滅多刺しにされた……


『そう……カ……理屈ジャ無いのか――』


 走り渡る冥府の暗黒と電影――その痛みと恐怖の途方も無さに……


『コイツはノカ』


 “神聖”の全身は、邪悪に呑まれて消え去っていった――


『我等には無イ……で……通りデ、わからぬ……筈…………ダ……』


 ――――終わる。“無限”の世界……


「…………――っ」


 ――そして燃え尽きる。……


 神の頬っ面に鉄拳ブチ込む。

 その野望をやはり叶えた魔王は、清々しい様な顔をして崩れ落ち、天を仰ぐ……

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