第511話 “無”に還すと少女は云う


 まずはじめに口を開いたのは鴉紋だった。忌々しそうに額に青筋を立て、肩を怒らせて口の端から煙を吐き出している。


わっぱ餓鬼がきだと好きに言ってくれるじゃねぇか! 大体テメェらはなんなんだ、俺に名乗りやがれ!!」

「焚き付ける様な言い方をしてどうする!」

「黙れ! 俺は今虫の居所が悪いンだよ!」


 乱暴な口振りをする“獄魔”を見下ろし、闇の少女の毛髪はわらわらと踊り出した。やがて“神聖”は語り始めるが、それは鴉紋の問いに答えるものでもなく、ただ一方的に、好き勝手自由に言葉を発するだけであった。

 ――否、好きも勝手も自由も全て――“主”によって決められる事ではあるが……


『ルシフェル。またお前か』

『アダムとイヴをそそのカし、人に原罪を背負ワせた堕天使が』

『三度目のエデンをも壊滅に追いやり』

『6のセフィラを破壊シた』

『循環の核となっていたミハイルを』


 怖気の立つかの様なそれらの声は、世界そのものが語っているかの様に尊大に感じられた。それが彼等が“神”である事の何よりの証明とも思えたが、激情した悪魔は問いを繰り返す。


「フザケてんじゃねぇぞ! この俺を虫ケラみてぇに無視しやがって!」

「アイツは何を言ってるんだ……核、セフィラ、循環?」

「おいテメェ!! 俺は貴様らに名を聞いた筈だ、大事なエデンを崩壊させた張本人を無視する事なんざ出来ねぇ筈だ、とっとと名乗れ!」


 頭上の明らかなる“神聖”に対して、何故だが妙にに執着する鴉紋に気付いたダルフは、彼の鼻先が動揺に震えている事に気が付いてしまった。

 “傲慢ごうまん”をつかさどる程の覇王が見せた狼狽ろうばい……未だ豪気を装ってはいるが、その視線は微かに揺らぎ、荒ぶり始めた鼻息は困惑の色をありありと示していた。


「神は一人の筈じゃねぇのか……っ」

「鴉紋……?」

「お前らはなのかって聞いてんだ!!」


 やすやすと口にしてはならぬ筈の……

 不遜ふそんにも、そうと疑わしき存在を前に豪語し放った冥府の罪人へと、“神”はようやく取り合い始めた。


『私達は主であって主でない』

『名なド、考えたコトも無い』

『それは人に認識されて初めて必要となるもの』

『概念でアり、唯一の存在に必要が無いモノ』

『しかし確かに、今お前達に認識されている』

『考えヨうか』

『名を考えよう』


 とは言ったものの、彼等は視線を合わす事も考え込む事もせずに、即座に自ら達の名を名乗り始めた。

 踊る闇の毛髪を自在に変化させる少女は言う。


『クロン』


 見ているだけで、ズギズキと脳の奥が痛む情報量を溢れ返らせた神聖は言う。


『コルカノ』


 鴉紋の問いに素直に答えた二人。しかしその名を反芻はんすうする様に呟いたダルフの背で、鴉紋は三度みたび怒号を上げた。


「それで終わりか、ふざけんな!」

「おい、まだ何かあるのか?」

!!」

「……やはりそうなのか」

「そいつがヤハウェだな……舐め腐ってくれるじゃねぇか、とっとと降りて来やがれ!」


 顎を上げて、天空に淀み始めた灰の液を睨み上げた鴉紋。彼はそこにもう一人の“神聖”が潜んでいる事を確信しているらしく、驚いたダルフもまた、頭を過ぎっていた疑念が確信へと変わった瞬間だった。

 チラリと視線だけで天上を仰いでいったクロンは、事も無げに滾り始めた天魔の二人を見下ろす。


『降りて来ん。こんな些末な事柄に』

『その為に我ラは分け与えらレタ』

『我等もまた至高の存在に変わりは無い』

『全知全能』

『隠されしセフィラ』

『崩壊のエデンに結末を』


 掛け合う様な二柱の声が終わると、クロンはその手を前へとかざして、何処までも伸縮して波状に広がっていく闇を空へと打ち上げた――


終焉しゅうえんを』


 ――すると次の瞬間に……


「ああっ?!」

「馬鹿げている、何が起きてるんだ!」


 世界を照らす光明の一切が消え失せ、空が漆黒へと、終わりのない深い深い海の底に変わっていくかの様に――闇に覆われ尽くした。

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