第505話 神話は人の為にある
「…………ぅ……」
天を突く高き尖塔が崩れ去って出来た瓦礫の山へと、ミハイルは豪快な土煙を上げて突っ込んでいった。
その衝撃に雪崩が起き、流れ落ちる岩壁の欠片が天使へと降り積もる。
「今のお前もまた……美しいのかも知れないね」
誰にとも無く囁き落とされた甘美な声音は、見るも無惨に顔を押し潰された天性より奏でられていた。
「あらゆる手を尽くしても、私には未来が変えられなかった……」
もう死にゆくだけのミハイルは、微かに開かれた瞳に破滅の未来を視る……
「希望の光も見つからない……世界は獄魔の手に落ちた」
流れ落ちた岩壁が天使を押し流し、もみくちゃにしながらその身を押し潰していった。
「混沌が…………見え……る」
顔を横に背けたミハイルは、閉じた瞳に世界の行く末を眺め続けた。
「…………は…………」
ただ緩やかに息を引き取ろうとしていた彼は、そんな声を上げてまつ毛をピクつかせた。
「これは……この…………未来は?」
輪郭を溶かし、形を変え始めた終焉の光景に、ミハイルはもう一度黄色の瞳を押し開いた。
「なんて、事だ……」
こんな奇跡があって良いのか、まるで世界が神がそうさせたのか……予期せぬ未来に
「信じられない……、本当に」
埋もれた瓦礫が流され、いまミハイルの目と鼻の先には深く陰った金色の瞳があった。ただ前方の虚空を眺め続ける茫然とした正義は、一体何を見つめるか……
「思えば、私の予想を超えたのは終夜鴉紋だけでは無かった」
『不死』故に、そこに取り残された肉と魂……絶大なる力を行使し続けた代償は、
「人に逆巻く心火……その極地が未来を変え得るのだとしたら……」
元々人であったこの残骸は、年の頃で言えば幾つになろうか……200? 300? 前例も無くまるで想像がつかない。
「その情炎を滾らせていたのは……お前もだった」
ただ言える事は、老化を続けて肉も脳も極限まで萎縮させた存在は……とっくの昔にその精神を摩耗し、擦り切れて消滅しているであろうという事実だけ。
であるのにミハイルは……
「まだ、そこに居るのかい?
……そう、枯れ枝の様な亡骸に問い掛けた。
ミハイルが覗くは、深く幾重ものシワが刻み込まれたまぶたの向こう――乾燥しきったその眼球に、ユラリとくすぶる
「いや……そんな奇跡、ありはしないのか」
だが首を振った天使は血を吐いた。
彼でさえもが見落とし掛けたその僅かな心火は、熱を下げて消え去っていった。
……それもそうだ、二度とは戻らぬ“刻”という不可逆。そこに置き去りにされたダルフに、永遠と続く深淵を何時までも眺めていろなどという事が、どれ程に残酷であるか。
死にたくても死ねない。話したくても話せない、逃げ出したくても逃れられない。考えたくても考えられない……
その身に残る苦痛だけが、今後の彼の一生を支配し続ける。
「園は…………潰えたか」
ダルフに残された唯一の選択……
それは全てを投げ出す事。考える事も意識を繋ぎ止める事もせず、ただ繰り返される“死”を見つめ続ける事……
――降り積もる瓦礫が流れ、一つの大きな岩盤がダルフを押し潰した。
「…………っ」
黒くどろどろとした死んだ血液が、潰した肉塊より滴り漏れる……
「え――――」
――しかしその時、ミハイルは目撃する……
「ハ……ハハッ……!」
その瓦礫の下で、光凝縮し即座に再生したダルフの姿を――
『不死』の再生速度は、主の思考と決断によって決定される。
摂理を歪めた死からの蘇生……その再生速度を早めれば早める程に、術者に流れる
……ダルフにとってのこの深淵を長引かせ、より過酷とするだけの結論が今
「数奇なものだな……お前と終夜鴉紋の宿命というのは」
――
青褪め、光に消えていく死の間際で、天使は堪らなくなって笑い出した。
「アハ……アハハ! アハ! 人間は何処まで愚直なんだろう……イヤになるよ、アハ、アハハ!」
黒ずんだシワだらけの肉塊……触れるだけで骨肉砕ける弱き存在は、その視線を動かす筋さえも無く、ただ前を見据え続けている。
そして何かに呼応する様に、主を失った筈のフランベルジュが、カタカタと揺れながら魔力の残滓を放散し始めた。
「――――!」
ごうごうと呻る劫火が巻き上がり、絡み付いた雷電がバリバリと音を立てる――
「
巻き起こった雷火が二重らせんとなり、右回転する様は、そこに新たなる遺伝子が拍動を始めたかの様にも思えた。
全てを知る天使でさえもが、結論付ける事が出来ぬ不可思議――
瓦礫押しやる魔力は輪を広げ、砂塵を巻き上げる。
――しかし、そんな奇跡の息吹も踏み潰すかの如く……
「そこに居るんだろミハイル……」
やり場の無い憤怒、加虐の欲情を満たしに来る者がある。
「まだお前の息の根を止めていない」
雑多吹き飛ばし踏み込んで来る鴉紋……
しかしその様はなんと哀しげに見える事であろう。
炎逆巻く
空虚に満ちた悲壮の覇王は、底知れぬ闇を見つめているかの様だ……
「そんな事をしなくたって……私はもう居なくなるのに」
空に閉じた天界へのゲート。黒き世界から垂れ落ちる赤黒い妖気が世界を満たしていく。その下にあるは、漆黒に沈む悪魔の激情――
「“原初の石”へと立ち返る事も許さねぇ、お前はここで終わらせる」
空に鳴る黒の雷鳴は、悲惨な未来を予言しているかの様だ。
いや、それは予言では無い。確定的に訪れる人類破滅の予兆である。
「お前に断罪されずとも、私は居なくなるよ」
「……は?」
「ルシルの居ない世界に、もう未練なんて僅かにも無いのだから」
斜めにされた潰れた天使の相貌に、赤い陽光が紅のようにさした。死の淵に置いても何処までも妖艶であり続ける不敵な“天性”を尻目に、鴉紋はその時になってようやく、彼の手元に残った矮小なる虫ケラに気が付いた。
「そんなボロ雑巾を手にしてどうするつもりだ」
「賭けるんだよ……お前の言った
「ますます理解が出来ねぇな」
微細な魔力が瞬いたフランベルジュと、刻に置き去りにされた哀れな肉塊を手にしたミハイル。
光に照らされたその場には、折れた大翼からの羽が散乱している。胸に風穴を開けた天使は見るに堪えない惨状となりながら、最期の力を振り絞って絶え絶えに言葉を紡ぎ出した。
「もう何をしても無駄だ。過ぎ去った刻は戻らない。神の天剣も砕けた……もうお前に出来る事は無い」
美しき絵画の様な光景を怒り眼で見下ろしていった鴉紋は、くつくつと口の端より息を漏らし始めた天使に気付く。
「何がおかしい……」
「ふ……フッ…………」
「イカれたか、この世界みてぇに」
爆散し渦巻いた暗黒は、光を呑み込み鴉紋の拳へと集約されていった。
「終わりだクソ野郎……」
空にはためく十二の暗黒。蠢く冥界からの陽射し、鳴り止まぬ漆黒の雷轟――
黒き嵐吹き上げながら、いざと鴉紋が拳を振り被った――!!
しかしその瞬間!
「……言った筈だ」
「あ――――?!」
血の
「天剣は砕けない。別の形の威光と成りて、世に
人類の亡骸を大事そうに抱え込んだミハイルを眼下に――
「オマエ……っ」
――――鴉紋は気付く!!
「まさかオマエ――――ッッ!!!」
――その瞬間に!
とても考えられぬ、一つの極地の思考!!
常軌を逸した一つの可能性へと――ッ!!
そして天使はこう残した……
早く早くと猛り咆哮され、迫り来る暗黒の拳を前に、最期の遺言にしては、
「私の全“天性”を、この人間へと譲渡する」
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