第168話 悪魔


 噴き出す血液。痺れ上がる内臓。ただそれよりも、肉を掴んで引っ掻き回す様な未知の痛みが脳に駆け上って来る。

 経験した事の無い感覚に放心を余儀無くされて、ダルフは天に向かって大口を開いていた。


 だが彼は、痛烈な痛みに悶えながらも思い出す。

 守るべき彼女を……そして全ての者達を。


「おの……れ!! ッアモォオオン――ッ!!」


 溢れ返った涙を振り払い、ダルフが真っ赤になった顔を挙げた――――


「――――シッ!」


 鴉紋の黒い右足が、短く息を吐く声と共にダルフの胸に迫り来ていた。


「アッ――――――ッッ!?!!」


 咄嗟にクレイモアで蹴りを受けたダルフであったが、その余りの膂力に何処までも突き飛ばされていく。


「カ――ッ…………!?」


 猛烈な威力で地に叩き付けられたダルフが、体を高く跳ね上げながら白目を剥いた。

 地に引き摺られた道筋を残し、ダルフの身はようやくと静止する。


「かはっ……ッが…………!?」


 胸を強打された事で呼吸がままならない。だがそれ以上に深刻な事態が起きている事に、ダルフの意識は遅れて気付き出す。


 ――確かに防いだ筈だ。このクレイモアの刀身で……なのに


 左腕があらぬ方向にひん曲がって、ピクリとも動かなくなっている。


「く…………そっ」


 だが未だ敗北を認めない金色の意思が、霞掛けた視界を上げる。


「――っ」


 ――遠くで黒き一筋が線を延ばし始めた事に気付く。


「――あ゛ッッ!!?」


 ――そう認識した瞬間にはもう、黒い拳に顎を突き上げられていた。


「ぶ――――ッッ!!!?」


 顎をかち割られ――いや違う。

 下顎毎吹き飛ばされながら、ダルフは宙で回っていた。


 抗う事の出来無い圧倒的たる暴力。その蹂躙に、彼は自らが乱暴に扱われる玩具になったかの様な錯覚すら覚える。

 そして彼は空を真っ逆さまに突き落ちながら、白んでいく景色で思う。


 ――こんなに遠いのか?


 そして受け身も取れずに墜落した。

 地に伏せた男の下顎は吹き飛ばされて、掠れた息を立てる事しか出来無いでいる。


 ――俺が今までやって来た事は

 ――積み上げて来た事は……一体……


 呻きながら微かに上げる瞳。そこに――――


「げぁああっッぐぉォオオオオオ゛――ッッ!!」



 悪魔が佇んでいる。


 闇に強烈な眼光を滾らせて。



 ダルフの耳に、狼狽するリオンの声が届いた。


「駄目よ……駄目……ダルフ…………ダルフ――!!」


 守るべき女の声に、ダルフは這いずって、震えた手をクレイモアへと伸ばし始める。

 口元から夥しい血を垂らす惨めな男を、鴉紋はただ正面で見下ろした。

 そして目前にまで歩み寄りながら、ギラつかせた歯牙で吐き捨てる。


「力のねぇ奴の語る正義など、なんの意味も無い」


 それでもダルフの手はクレイモアを握っていた。そしてガタガタと痙攣する体を、決死の形相で起こしていく。

 鴉紋はそれを妨害するでも無く、顎を上げて挑発的に待ち受ける。


「そいつは喚くもんじゃねぇ。この拳で抉り取るもんだろうが」


 立ち上がる事すら奇跡と思える体で、ダルフの体は起き上がっていった。


 だが彼の心を視たリオンは絶句し、血の気を失った口元で叫んでいた。


「もういい、やめてダルフ!! もういいから! それ以上やれば、貴方の心が――!」


 地にクレイモアの切っ先を突き、今にも憤死しそうな面相でダルフは顔を挙げた。


「まだやるのか……」


 冷酷な瞳をした鴉紋に、ダルフはクレイモアを構

えた。柄を上にして切っ先を斜めに地に突き立て、口元を覆う。

 そして言語もままならない口で語り始める。


「ひが……う……義と、は……よわき者……を救ふ……」


 宿敵の足下に落ちる滝の様な血液と、蒼白となっていく顔を見下ろしながら、鴉紋は未だ雷火の滾る右腕を掲げ、肉を軋ませながら拳を形成する。


「だったら……この俺を殺し、裁かれる者を救ってみろ」


 鴉紋の口調は静かであった。

 だがその拳に茫漠とひしめき始めたエネルギーが、彼の燃え上がる心火を表している。

 得も言えぬ残虐なる迫力が、何処までも広がってダルフを包囲していた。


 そして鴉紋は誘う。

 深淵へと……


「さぁ……」


 金色の瞳が揺らぐ。散りばめられた星屑が翳る。

 ――今向けられる悪意の灼熱。


「あ…………あぁっ」


 もうどうしたって弱まる事が無い激情に呑まれ、跡形も無く焼き尽くされる様な魔炎に射竦められ――


 ――鴉紋の拳がただ真っ直ぐに放たれた。


「――ガはッ……か……!?」


 ダルフが腹に風穴を開けて悶える。

 更に地に伏せた体を闇の翼に掬い上げられ、無理矢理に引き起こされた肩に肘鉄が落ちる。


「――あ゛ぁッ!!」


 鈍重な音を立てて肩が砕かれていた。

 地に沈んだダルフは、次に金切り声を上げ始めた。


「ィイぎいいいッ!!」


 黒い拳の落ちた大腿が断裂し、肉も骨も潰れて陥没する。

 だがそこでダルフの瞳に光が蘇った――


「――ッかぁぁあ!!」


 ――気の狂いそうな痛みを振り払い、獣の様に激しい瞳が、クレイモアの一閃を横薙ぎに放っていた!


「そん……な…………」


 鋼を超える鴉紋の漆黒の体に、鈍色のクレイモアが止まっている。

 何かしたかと言わんばかりに、鴉紋は絶句しているダルフのひしゃげた腕を、無理矢理ねじ切ってみせた。


「――おがぁァァァアッッ!!?」


 ――届かない


 もう痛みに支配されるだけの世界で、ダルフは恐ろしい男に、確かな恐怖を刻む事しか出来無くなっていく。


 ――怖い


 馬乗りになって髪を掴まれたダルフの眼前で、牙を剥いた顔が覗く。


 ――こわいッ!


 そして何度も何度も後頭部を地に叩き付けられ始める。されるがままのダルフは震えた瞳で戦慄した。


 ――怖い! こわい! コワイ! コワイこわいコワイこわいこわいコワイ怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイ!!


 不屈の心にヒビを走らせながら、ダルフは引き起こされる。

 そして漆黒の渦を纏いながら、目前で拳を溜め始めた男を見つめて思った。


 ――違う。この傷が無ければとか、万全であったならばとか、そういう次元の話しじゃない――


 腰を低く沈め、深く長く唸る男の吐息がダルフの耳を掠めていた。


「……ぁぁぁぁぁぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛……」


 そして……


 ――暗黒を纏い上げた男は電流の拳を振り被り、その闇から勢い良く這い出して来た!


「――――――っ!」


 吼える悪魔に呆然としていると、恐れに支配されたダルフはあらぬイメージを見る。


 深淵から這い出して来る血走った眼、

 有り得ぬ程に吊り上がる眦、

 焔を思わせる縒れた輪郭に、

 裂けている様に上がった口角、

 肉を食い荒らすかの様な鋭い歯牙、

 真っ赤な口!


 激しい怨嗟、紛れも無い悪相、恐怖の象徴の様な!


 輝かしく瞬いていた宝石に、深刻な亀裂が走った。


 ――


 ただその本能に従って、ダルフの身も心もが、必然的に屈服を選択する。


 叩き付けられる悪意に怖じ気づき、ダルフは子どもの様に、ただ身を守る為にクレイモアの影に身を竦める。


 四枚の翼を止め度もなく噴出した鴉紋が、一回転して遠心力を加え、その拳を振り抜いた――――


「ぁ……」


 そう情けの無い声を漏らしたダルフを眺め、リオンは絶叫していた。


「イヤァァァァァ――ッ!」


 キラキラと煌めく物が宙に散っている。

 鈍色の破片が地に飛散していく。


 彼の信じた力が、正義が、熱き魂が、清廉なる心が――


 その心情を支え続けたクレイモアと共に、木っ端微塵に砕け散っていた。


「…………っ!」


 黒嵐こくらんの大渦に身を呑まれていくダルフの前に、悪鬼が悠然と踏み込んで来る。


「語れるのは最後に立ってる奴だけだ」


 力を示し、暴虐を尽くし、全てを足蹴にしながら飛び上がると、闇の閃光が空に高く噴射し、曇天を割る四本の柱になった。


 疾風を、雷電を、邪悪を纏った存在が、強烈に地に墜落して土砂を舞い上げた――

 

 ――地を揺るがした拳の先で、ダルフの体が四散した。



 その潰れた心と同じ様に――――……

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