第166話 暴虐の渦

 ******


 切っ先を下に向けた鈍色のクレイモア。それを胸の前にまで引き上げたダルフが、足下で膝を着いた男の項垂れた頭へと狙いを定める。


「この剣を突き立てれば終わる……」


 痺れてジンジンと痛む掌。そこに確かにある感覚を確かめながら、太い柄を握り込む。


「全て……!」


 ここに至るまでに亡くして来た者や、殺して来た者の顔が、辛くて苦しくて堪らなかった心の葛藤が蘇って来る。

 蒼天の下で血みどろになった男に向けて、ダルフはカッと瞳を見開いた――


「正義だ何だとくだらねぇ」


 確かに耳に残った声。もう口元を動かす事すらも出来無い筈の男からぽつりと落ちた声に、ダルフは耳を疑う。


「そんなもの……物事をどちらから見たかというだけの事象に過ぎねぇんだよ」


 ――空耳じゃない。

 足下で項垂れた瀕死の男が、確かに言葉を紡ぎ始めている。

 突然に全身を氷漬けにされた様な怖気に襲われながら、ダルフは弾かれる様にクレイモアを振り下ろしていた――


「あ、アモン――――――ッ!!」


 ――――――瞬間。

 鴉紋の背から、爆発する様に猛烈な闇が噴き出す。


「が――――っ!!」


 凄まじいエネルギーを受けたダルフが弾き飛ばされる。そして今度はその目を疑いながら、立ち上がった傷だらけの男がおぞましい負のオーラを纏い上げ、その口を吊り上げていくのを見上げる。


「貴様が俺を悪と定義する様に。俺もまた貴様を悪と定義している!!」


 そして空に悪意の塊の様な絶叫が広がった。


「キアアァァアアアア゛――ッッ!!」


「鴉紋……お前まだ、生きて……っ!?」


 鴉紋の背から立ち上る二枚の漆黒。それが滾りながら何処までも空に広がっていく。


「…………ッ!!?」


 それだけでは無い。

 鴉紋の体に闇が立ち込めて、四肢を、胸を首から顔の半分に至るまで、吐き気がする位に嫌悪感を覚えるオーラが纏わり付いていく。

 そして完成した体を力み、空に哭いている様に吠えた。


「ガァァァあ゛ゥゥウ゛アアアァァァ゛アアァ゛――ッッ!!!」

「なん……だ、この……陰惨な……っ!」


 その闇に、その彼の風体ふうていに、表現しようの無い邪険な感情を――その波動を感じる。

 闇の暴発に気圧されるダルフは、地獄の底を覗かされている様な感覚に、ただ顔を引きつらせていった。


「く……鴉…………紋!」


 その形容し難い邪悪の極地は、黒のオーラとなって周囲の風を吹き荒らし、漆黒の渦となって世界をかき回し始めた。

 成す術も無く毒の波動にあてられるダルフが、その風圧に耐え忍びながら細く目を開ける。


「違う……お前……もう一人の――っ!」


 そう思い至りながら、先程垣間見えたもう一人の鴉紋が、本来の力のほんの一端しか見せていなかったという事実を肌に肝が冷えていく。

 未だ咆哮を続ける男の頭上に、低く雲が垂れ込めて来る。まるで天でも従えているかの様に、その哀しみに同調し、無数の細い落雷を突き落とし始めた。


「なん……なんだ……この力?」


 何処までも勇敢であった筈のダルフの足が竦み、動けなくなっていく。


「人間…………なのか……?」


 ダルフですら打ち勝てない途方も無い恐怖に、彼の手元の力が弱っていく。正義の為に確かに手に取った筈のクレイモアを、その地に落としてしまう位に。


 咆哮を終えた鴉紋は一度俯いてから、その相貌を上げて、荒っぽく髪をかき上げたまま語る。


「この俺を抑えつけ、くだらねぇプライドまで賭けたのにこのザマじゃあ、世話ねぇよなぁ……」


 男は恐怖に放心するダルフに語り掛けているので無い。彼の事は見てもいない。何処ともいえない中空に傲慢を思わせる視線を投げている。


「俺を拒絶してどうする…………」

 

 全身から噴き上げる血液に構わぬ様に、その男はダルフに向き直る。


「な――――ッ」


 ――その途端にダルフは襲われた。


 あらゆる負の感情を詰め込んだヘドロの水槽に、頭の先まで押し沈められる様な感覚に。

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