第二十三章 ドグラマ

第125話 煮え滾る激憤

   第二十三章 ドグラマ


 リオンは宮殿内に小さな部屋を貰った。そこは古びた机と白いベッドがあるだけの質素なものであったが、別段文句がある訳でも無かった。天使の子に逆らい、多くの騎士を傷付け、民に恐怖を刻みつけたその直ぐ正午であるにも関わらず、ラルの気まぐれによって、今こうして静かに、開け放った窓からの夜気に身を委ねていられるのだから。


「何やってるのよ。本当、信じられない」


 窓枠に半身になって腰を掛けながら、過ぎ去っていく冷たい風と、月夜に薄く照らされた流れ雲を見上げる。しかし目の無い彼女に感じられるのは、風の音と、その大気の様子だけだ。

 漆黒の長髪が緩やかに靡く。ただそこに一人で居る事が浮き彫りになる。

 リオンは窓枠を離れ、窓を締める。そうして白いベッドに横たわる死体へと歩み寄ると、その枕元にしゃがみ込む。

 そこにあるのはダルフの死体。ただ眠った様にして長い睫毛を揺らしている。

 冷たい体温。硬くなった筋肉。聞こえない呼吸。動かない体。

 そこに生命の躍動は無い。最愛の彼は今、ただの人形でしか無くなっているのだ。

 リオンの細い指先が、ダルフの首元から胸にまで下りていく。

 胸部から腹部にかけて深く陥没し、原型の無い程に潰された肉体。最早流血は無いが、彼の有り様は想像していた以上に悲惨なものであった。


「今回は大分かかるかもね」


 ランプが一つあるだけの暗い室内で、ベッドに腰掛けたリオンがダルフの頬を撫でる。

 完全に損失した心臓の再生には、彼女の治癒魔法で助力しても、それなりの時間が必要である事をリオンは分かっていた。


「ミハイルの言っていた3ヶ月まで、もう幾許いくばくも無いわよ? ナイトメアの襲撃時もこのままだったら本末転倒じゃない……本当、馬鹿ねあなたは」


 ――それにしても、何故ミハイルはダルフの『不死』をラル・デフォイットに伝えなかったのか……。

 既に自分もミハイルの手の上で踊っている様な感覚にとらわれて、リオンは短い溜息をつく。


 窓の向こう、都の隅のマーガレットの生い茂った白い花畑の丘の上空から、半月の月光が射し込んでいる。その薄白い光が、ダルフの美しい寝顔を照らしているが、彼女にはそれを見下ろす事も叶わない。


 彼女には眼球が無い。故に何も視えない。

 愛する者の相貌でさえ、何も。


 ******


 ラルのふんぞり返った玉座の前で、冷や汗を垂らしながら、顔を赤く染めて苛烈に訴える女騎士が居る。

 夜分遅く、言い訳めいたものを聞かされる事を予想してか、ラルの機嫌は良くない。


「ラル様! 私は見たのです……私は確かに奴の正体を!」


 跪きながら語るは、ラルの『我が手に癒やされるエロヒム』によって完全に治癒されたニータ・アルム。焼け溶けて崩壊した顔面も元の通りに再生している。

 ラルとニータ、二人だけの大広間に、騒々しい女の声が反響する。


「無様に敗北した貴様の言い分はそれか。実に聞き苦しいな」


 耳に指を突っ込みながら目を細めるラルに、ニータは必死な顔を上げる。


「ラル様、お聞き下さい! あの女は……」

「聞かん。弱い女には興味が無い。弱い騎士にもな」


 身を貫いていくような辛辣な言葉に、ニータは涙目で懇願する。


「どうかお聞き下さい、これはとても重大な……」


 ラルは手元のステッキを肘掛けに叩き付けてニータの言葉を遮る。


「奴の正体を俺様は知っている。奴はだ。まだ何か力を隠している、得体の知れないな……」


 赤い絨毯から立ち上がり、ラルの座った玉座へとソロソロと近付き始めるニータ。


「そうですラル様! 私はあの時、奇怪な術でもって体を操られました! 私はあの時、魔女のに捕らわれたのです!」

「瞳だと?」


 見るからに不愉快そうに鼻筋に皺を寄せたラルは続ける。


「奴に眼球は無い。そこにあるのは空洞の眼窩だけだ。俺様が見間違う訳がない。……貴様よもや、俺様を謀ろうとはしてないな?」

「敬愛なるラル様を謀るなどっ! とんでも御座いません! この命に変えてもそんな事はっ!」


 益々と鋭い瞳になっていくラルが、ニータを見下ろす。


「そんな事は有り得ん! 俺様には一目で傷の状態を把握する力がある。偉大なる天使の子のこの力を、貴様は疑い、愚弄しているのだ!」


 ラルの目前でまた跪いたニータが、落涙しながら続ける。


「しかし私は見たのです、確かに奴の正体を! あのを!」


 その一言に激情したラルは、ステッキで眼下の頭を殴り付けた。


「貴様……言うに事欠いてそれか! 俺様がロチアートに夢中になっているとでも言いたいのかッ!」


 殴打されながらも、ニータは自分の見た真実を語る。


「しかし、私は見たのです! っあ! 傀儡かいらいとなった私は、その瞳からっゥ! 目が離せな……ッ」

「魔女をロチアートにでっち上げ、自らの地位を保とうとしたのか! なんと姑息な女だ!」


 ラルはニータの腰にあるバラ鞭を抜いて、彼女の背に打ち付け始める。


「ァぅッ……ですが……あっ……ラル様、私は本当にアッ!」


 滅多打ちにされ、女の声を出し始めたニータに侮蔑の眼を向けたラルは、鞭をその辺りに放り投げてしまった。


「つまらん……貴様の様な弱く、卑怯な女を追従させようと、この俺様には何の快楽も得られん」

「そ……そんな、ラル様ッ」


 息を荒げてヨダレを垂らすニータが、ラルの足元に縋りついたが、一蹴りで拒絶の意を示される。

 愛情も無く、乱暴に蹴り付けられた頬に手を当てるニータの瞳からは涙が溢れ、呆然とした様へと変わっていく。


「……私はただ、貴方だけの為に……私は、貴方だけに」


 鼻を鳴らしたラルは、悲観に暮れる女にも心を動かさず、足を組んで退室を促す。


「さっさと出ていけ」


 立ち上がり、虚ろな目で踵を返したニータの背に、尚も心無い一言がぶつけられる。


「貴様の栄華はもう終わったんだ。ニータ・アルム。弱い女に興味は無い」


 蹴り飛ばされた頬に手を当てながら、ニータは闇を携えた瞳を俯かせ、一人ぶつくさと怨嗟を吐く。


「絶対に殺す……糞魔女。私からラル様を奪った糞魔女……殺す、いたぶりぬいて、奴の大切なものを引き裂いて……殺す……殺す…………」

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