第95話 人の皮を脱いで、妖艶に笑う


 ******


 無数のロチアートを掛け合わせて出来上がった、おぞましいゼルの巨体が、奇怪な声を挙げて突進する。それをもろに食らった鴉紋が巨大な鉄柵に背中をぶつけて吐血した。


「キャッハハハ! 本当だ! 本当にロチアートには手を出さない!」

「本当だねヨフエ。あの悪魔のような人物が、例え危機に瀕してもロチアートには手を出せない様子だ」


 もう幾度繰り返しただろう。鴉紋はゼルに引き摺られ、投げ飛ばされ、殴られている。

 成す術もなく、ゼルの口から吐かれた桃色の霧を吸い込み酩酊しながら、鴉紋はただ虚ろな目をしていた。

 地下牢の高い天井に空いた風穴から、小さな双子の天使がそれを見下ろし、嬉しそうに微笑みあいながら翼をパタつかせた。


「ねぇ終夜鴉紋。君がロチアートに手を出せないのは、君の大切な人、五百森梨理いおもり りりもロチアートだったからなのかい?」


 発光する白い本を手元に開いたクラエが、鴉紋を注視する。桃色の霧に囲まれてふらつきながらも、鴉紋は上方からこちらを見下ろす存在を睨み付けた。


「何がロチアートだ!!」


 背の闇の翼が激しく噴き出して、クラエの元へと鴉紋が飛び上がった。


「……ッガ!」


 しかしゼルの巨大な掌がそれを叩き落とす。鴉紋は激しく地面に叩き付けられ、瓦礫に埋もれながら、憎々しくクラエを見上げていく。


「梨理は瞳が赤かっただけの……俺と同じ人間だ!」

「わーこわーい!」


 ヨフエが顔に手を当てて指の隙間から鴉紋を見下ろしている。しかしクラエは物怖じせず質問を続けながら、白く分厚い本に目を通す。


「そう、それを聞きたかったんだよ終夜鴉紋。君がしきりに口にしてきたその言葉が」

「ぁあ!?」

「それでは質問だよ? 君は人とロチアートが同じだと言いながら、どうして人をゴミの様に殺すんだい、同じなんだろう?」

「……っ!」


 答えに窮する鴉紋を、走り込んで来たゼルが殴り飛ばして壁に叩き付けた。そしてゼルは垂れた瞳を苛烈に吊り上げて、体に貼り付けたロチアート達の顔面が醜い遠吠えを挙げる。


「そうだ鴉紋! 貴様はロチアートを、セイルちゃんを利用しているんだッ! その問いに答えられないのが何よりの証拠だッ!!」

「く……ッが!!」

「反逆の為の道具に利用しているんだろう、ロチアートを、セイルちゃんをッ!!」

「……っぐ」


 ゼルの蠢く腕が、鴉紋を引っ付かんで吊し上げる。眼前にゼルの顔を見ながらも、鴉紋はただ苦痛の表情を見せるだけだった。


「人間は醜い……人間は狡猾だ! 平気で嘘をつき、命を弄び、何だって利用する! お前もそうなんだろう鴉紋ッッ!!」

「……ゼル違う……俺は……っ」

「何が違うという!!? セイルちゃんの心を弄び、利用しているオマエガッ!!」


 ゼルが鴉紋を地に強烈に叩き付けた。その激しさに思わず目を丸くしたのはクラエだった。


「うわぁ、ゼルったら、今のってもしかして私達にも言ったのかな?」

「そうだろうね。彼はひどい人間嫌いの様だから。あの凄まじい怨恨は僕達にも向けられたものだろう」


 ゼルは吐血した鴉紋を更に蹴り飛ばして追い討ちする。鴉紋は地面を抉りながら吹っ飛び、壁に叩き付けられた。クラエが慌てて天井から降りてきて、翼で上空に留まる。


「おいおい。死んでしまう前に先程の問いの答えを聞かせてくれないかい、終夜鴉紋。どうして人を殺すのかをだよ」


 地に伏せたままの鴉紋は、クラエの問いにピクリと体を揺らして反応し、そしてそのまま小さく呟く。


「……分からない」

「分からない? 考えなしに人をあんなに殺してるのかい? そこは君の核心なんじゃないのか?」

「……知らねぇ。俺はただロチアートを守る為に、降りかかる火の粉を払っていただけだ」


 考え込んだクラエであったが、終いには大きな嘆息をして本を閉じてしまった。


「もういいや、君の行動原理はにだけ聞いても分からないや」


 鴉紋に向けて再び走り始めたゼルが、その全身で絶叫する。


「何がロチアートを守るだ! 利用した挙げ句、最後にはロチアートも裏切るんだ! それが人間だ!」


 よろめく鴉紋は、立ち上がり、おもむろに上空にその黒い腕を掲げた。その上腕を白い魔方陣囲む。


「『黒雷こくらい』」


 突如、宮殿に轟音が降り注ぎ、激しく揺れた。驚いたヨフエがクラエの元へとすり寄って、同じ様に天井付近に留まった。


「なに……? 何かが宮殿に降ってきたみたい!」

「大丈夫だよ。この地下にまで彼の雷が届く筈が無い」

「あ、本当、大丈夫みたい! キャハハ! 馬鹿ねぇ、空からの攻撃がここに届く筈無いのに!」


 しかしクラエは、緊張した面持ちをし直して鴉紋を見下ろしていた。その事にヨフエは気付いていない。


「……存外に頭が回るみたいだね。でもそんな事をしても無駄だよ。君の仲間は憲兵隊600名で包囲している」

「何の話しなのクラエ?」

「……いや」


 猛然と鴉紋に向けて駆けるゼル。その中間に突如として桃色の魔方陣が起こった。


「馬鹿な! クルーリー達は何をしているんだ」

「え、えどうしたのクラエ?」

「また計算外。僕にとって二度目の計算外だ」


 桃色の魔方陣に転移して来た存在が、その赤い髪を翻しながら、鴉紋を背にゼルの目前に現れた。その姿に刮目したクラエがいち早く声を挙げた。


「ああー! セイルちゃんだ! どうして?」

「ヨフエ。ゼルに命令するんだ。そのまま突進して、彼女を殺せと」

「えぇどうして、勿体無いよ!」

「いいから! 後で何でも好きな物を食べさせてやるから」

「えーいいの!? 苺のマカロン1000個でもいい!?」

「せ……!? あぁもういいよ。だから命令するんだ。ゼルが失速する前に」

「やったーー!! ゼル! セイルちゃんをそのまま殺して! じゃないと飛びっきり痛いお仕置きをしちゃうんだから!!」


 ヨフエの命令で、ゼルの全身に貼り付けられた顔面がまた酷い声で鳴き始めた。


「「ギョオオオィイゴギオぃいひオオオオ!!!」」


 そしてその全身がひとりでに蠢いて、ゼルの周囲の顔面達が顔を真っ赤にして怒り狂った。ゼルの意思すらも超越して躍動するその四肢は、まさに暴走している。


「セイル!」


 彼女の名を呼んだ鴉紋の方に、セイルは一度振り返って微笑んだ。


「もう大丈夫。私がやるから」

「……やめろ、セイル!」


 猛進するゼルの巨体。それがセイルの目前に迫る。

 彼女の存在に、ゼルは一時正気を取り戻した。


「セイルちゃん……っ!? 止まれ、止まってくれ……トマレェエエエエ!!」


 愛する者の為に絶叫するゼル。しかしその全身を形作る無数のロチアートの体は、痛みの記憶に突き動かされて止まることをしない。


「止まれ止まれ止まれ止まれ!! お願いだああああ!!!」


 ゼルは口元から桃色の吐息を自らの巨体に浴びせる。更に爪を突き立て、歯で胴体に噛み付き続けた。

 酩酊した自らの全身が、セイルの目前で転び、強引なまでに止まる。


「えーー、なんで止まっちゃったの!? ちょっとゼル!」

「ゼルの意思が、数百のロチアートの体を制御したっていうのかな?」

「セイルちゃんを殺して! じゃないどうなるか分かってるの!?」


 目前で立ち止まった巨体に貼り付いた無数の顔面が、ロチアートの赤い瞳が、敵意を剥き出しにしながらセイルを睨み付ける。ゼルはその頭上で全身を力ませていたが、ヨフエの声に反応する体が制御を失って右腕を振り上げてしまう。


「ガァウアア!!」


 獣のような声でゼルはその右腕に噛み付き、攻撃は中断されたが、彼の頭はすぐにその右腕に振り払われる。


「ゼル……」

「逃げてくれセイルちゃん! もう制御が効かなくなる! だけど、君だけは……絶対に君だけは!!」


 セイルは逃げる所か、穏やかな瞳でゼルを見上げてその醜い体に手を触れた。

 とてもやさしい手つきで、慈しむ様に。それはまるで彼の発した愛に応えているかのようにも見えた。


「セイルちゃん……俺は君を愛している。心の底から。……だけどこの体じゃもう君を抱き締める事も出来ない。だから、恋獄れんごくに捕らえられた君を、せめて解き放つ。鴉紋を殺して。だから退いてくれ」

「ありがとうゼル。本当に貴方の言った通りになった」

「は……?」


 セイルの手元に、黒い炎が灯る。そうしてそれはゆっくりとゼルの体に押し当てられ、肉を溶かし、焼き焦がす。


「アッッぎいああああッつつ!!」

「忘れてしまったが、貴方のおかげで呼び覚まされた」


 灼熱に身を溶かされたゼルは、思わず後方に飛び退いていた。セイルは穏やかな表情のまま、ゼルに向ける。


「私ね。どうだって良いの本当は。どうだって良かったんだ」

「あがィイギキイイあぁ熱い熱ィイ!! どうして!! セイルぢゃん! 俺は君の為に゛!! 利用される君を守るだめ……にッ!!」


 セイルの差し出した両の掌の前に、灼熱の炎が起こり、彼女の身長を越える程の大弓となった。それを横に構え、ギリギリと弦を引く。


「鴉紋以外の事全部。どうだって良かった。人間だってロチアートだって、誰が死のうが痛めつけられようが、鴉紋と私さえそこに居るならば、どうだって良かった」

「なにぃいををぉ!! 何をズルンダ!!」


 燃え広がるゼルの巨体がセイルに向かって飛び上がった。もう二度とゼルによる制御は効かず、次こそはセイルの小さな体を叩き潰すだろう。


「鴉紋の愛した梨理さんになれる様に、私は私をいた。必死に人を、ロチアートを思い、ただと振る舞っていた。この自分自身すらも欺いて」

「アァア熱ィィイぎイイ!!!」


 セイルの引いた弦に、灼熱と共に漆黒の炎の矢じりが現れて、標準を絞る。


「偽りの自分で、大好きな人を振り向かせる事なんて出来ない。貴方が教えてくれたのよゼル」

「いぃぎいああぁ熱イ!! ぅううっ!!」


「やめろセイル!!」


 鴉紋の制止する声は、熱波にかき消された。愛しの彼を炎の向こうに眺め、セイルは回想する。


 ――いつか、怒り狂うあなたを見て、あなたが自分と人間では無くなってしまうと思った。


 けれどそれは、人の化けの皮を被ってすっかり人間のつもりになったの言葉だった。


 人間でないのは私だった。


 あぁ、だったらば同じだ。私もあなたも、同じだ。


 ――――脱いでしまおう。こんな醜いズタ袋など。


 セイルの赤い瞳に、自らの灼熱が反射する。頬に当てながら引き絞った漆黒の矢じりと、赤々と燃える大弓が!


「だって炎は、ありのままが美しいでしょう?」


 セイルは引き絞った弦を解放する。その瞬間、風を切って熱風が辺りに満ちた。


「『業火の大弓インフェルノ』」

「…………ンッッぐ…………ぁ……セイル…………ち……ゃ」


 ゼルの巨体に風穴が空き、メラメラと黒い炎がその全身を包んでいく。貫かれた矢じりは天井を撃ち抜いて天に消えた。

 凄まじい振動と共にゼルが地に落ちた。そのまま茫然とセイルに向かって顔を引き起こす。するとそこに、すぐ目前で、初めて愛した女性が緩く微笑んでいる。


「セイルちゃ……ん……俺は……君を愛して……いた」


 漆黒の炎に包まれて、醜く継ぎ接ぎにされた体が溶け、ゼルの体が胴体に沈んでいく。同時に灼熱に喘ぐ無数の絶叫が地下に反響する。


「うん、ありがとう」

「君が奴と行くと……言うのなら、もう……それを止める事は出来ない。僕は今ここで、君の炎に焼かれて……死ぬんだから」

「……」

「最後に一つ。僕の……願いを聞いてくれ……ないか?」

「なに?」

「キスしてくれ。醜い体になった僕だが……死の間際にこうして、しがらみから……解き放たれた」


 ゼルの胴体は巨体から切り離され、僅かな時間だが、元のただ一人の青年になっている。垂れた瞳が、涙を流しながら優しく微笑む。


「これは君と僕の間で起きた奇跡だ……この偽りの恋に翻弄された生涯。せめて……初めて愛せた君との口づけで、幕を……」

「……」

「さぁ、もう時間が……」

「嫌よ」


 ゼルは瞳を見開いてその言葉に驚愕する。そして、全身をブルブルと震えるほどに力ませながら、愛した女性の美しい顔を眺める。


「……そう、だよね……じゃあ」


 無理をして微笑んだゼルは、垂れた目尻に深いシワが刻み込みながら、震える右手をセイルに差し出した。


「せめてこの手を握っていてくれないか? 僕が、力尽きる……あと僅かな間だけでいいから。それだけで、僕の生命は報われる」


 差し出されたゼルの右手を見下ろしながら、セイルは淡泊にこう答える。

 

「嫌」


 顔を蒼白くさせたゼルの笑みは途切れ、激情を貼り付けた瞳がセイルを見上げる。


「どうして……もう死ぬんだぞ」

「嫌よ」

「なんで、どうして……簡単な事じゃないか……それが、情ってもんじゃないのか? それ位の事」

「嫌」


 ゼルが鬼の様な形相で憤激して歯を剥き出した。それは彼の生涯の最後の灯火である事は明白であった。


「何故だ! 死ぬんだぞ……僕はこのまま死ぬんだぞ!?」

「……」

「良いじゃないか! 嘘でも、偽りでも!! ただそうしてくれさえすれば! 僕はただ安らかに死ぬ事が出来たのに!! ナゼだ!! 何故!! ナゼ!!? なんでそんな事を言ウ必要がアルンダッ!!」

「愛していると言われたのは嬉しかったよ」

「……じゃあッ!」

「まるで自分が一人の人間として扱われている様で、嬉しかった」

「それなら最後位っ!!」

「でも、ただそれだけ……私は貴方に

「……ッッ!?」


 顔を真っ赤にしたゼルは、カッと瞳を見開いて口を戦慄かせた。セイルはただ真っ直ぐ、未だ緩く微笑みながらそんな彼に対する。


「最後の、最後だって言うのに……イカれている……僕に、こんな風に死ねっていうのか。君の命も救った、この僕に」

「……」

「一番まともだと思った君が、ぅ……一番イカれているじゃないか。一番壊れているじゃないか!」


 逆巻く大炎をバックに、セイルはただ一度「アハッ」と笑った。赤い髪が弧を描き焔に踊る。


 最後の間際に怨嗟を吐いたゼルは、炎に焼かれながらその全身を家族達の胴体へと溶かし、沈めていった。


「やっぱり人間は醜い」


 そうして彼の全身がロチアート達の巨体に溶け込んでいくと、最後にくぐもった声が聞こえた。


「あぁ…………ここに居たんだね、母さん」

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