第43話 空が落ちて来る


 長く蓄えた髭を撫でつけながら、都の方角を仰いだワルトが呟く。


「あの若造の出る幕も無かったな」


 夜の農園を涼しげに吹いていく疾風はやて。てらてら燃え盛る宿舎の炎。ワルトの号令にならって、騎士達が手元に魔法球を作り上げていく。


「……んだよ、その顔は…………」


 膝を着いたシクスが辺りを見回す。先程まで落ちていた絶望の表情は今や一つも無く、勝利を確信してキラキラと輝かせた70人の騎士の瞳がシクスを取り囲んでいた。


「ムカつくんだよ……ムカつく………………カつく……」


 茫然ぼうぜんとそれを見回すシクス。彼はそのまま血に濡れた顔を天に向けて、ぶつくさぶつくさと口元を動かしている。


「ワルト様、集中砲火の準備整いました!」

「……あぁ。放――――ッ!?」


 ワルトが号令を出すその瞬間。シクスの見上げていた天が赤く、闇を押し退け捻れて渦巻きながら、紅蓮の色に染まって絶叫を始めた。その何重にも呼応している耳を覆いたくなる強烈な声が、その場に居た全ての人間達の鼓膜に叩き付けられた。


「「「「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アッッッッ!!!!!!!」」」」


 シクスが首筋に血管を浮き上がらせ、全身を強く力ませながら顎が外れる程に奇声を発っしている。


 全ての者が顔をしかめて耳を塞いだが、ワルトは眉を寄せてシクスを睨み付け始めた。


「まだ何かする気か」


 ――空に共鳴したシクスと異形の声が、苛烈に怒り狂い、ネジの切れた様に喚き出した。


「「「ムカつくムカつくムカつく!! ムカつくんだよ、てめぇらのへらへらと笑った、気色のわりぃその顔がッッ!!」」」


 赤い天がぐるぐると撹拌かくはんされ、そこから巨大過ぎる丸い影のシルエットが現れた。ワルトの側に寄った副官が、騎士達を鼓舞するように声を上げる。


「何をしようと奴に残された手はない! 魔法球を放つのだ!」


「「「この俺様が目の前にいやがんのにッ!! なんだそのひよった面はあああ゛!!」」」


 微かに我に立ち返ったシクスは、が巻き添えを食わぬ様、この声が届いている筈の少女へと叫ぶ。


「「「嬢ちゃん、兄貴達を連れてこの農園から離れろっ! もうこれしかねぇ、頼む!」」」


 シクスの声がセイルに届いたかはわからない。そしてそんな余力があるのかも……だがシクスはそれにかけるしかなかった。

 そしてヨレヨレと立ち上がったシクスによる、おぞましいまでの詠唱が始まった――


「「「逆巻け奈落……血の空を渦巻けッ!! じゃえんも全部ごったくそにかき混ぜて!! 落ちろ絶望……見セロキサマらの愕然がくぜんの表情ヲッッ!!」」」


「……悪あがきをっ」


 逆巻き始めた不気味な天に向け、その右腕を掲げていったシクス。

 ワルトは何やら予感めいた怖気を感じ取り、そして同時に駆け始めた――

 空に浮かんだ巨大な影のシルエットが二つとなって、その形を空を覆う程に大きく広げていく。


「「「開け!! 『地獄門』ッッ!!」」」


 シクスが『幻』の能力で出現させていた全てを消し去って、自らに残った魔力の全てをそのに絞り込んだ。


「撃ちまくれ!」副官の声で70の騎士が魔法球を放った。


 それら全てを避ける事もせず、シクスは紅蓮に巻き上げる空にダガーを握った拳をかざす。

 シクスは火球や雷撃の突き抜ける激痛に歯を食い縛り、瞳を充血させながらも、天に向けて意識を集中する事をやめない。


「そんな大技が通用するとでも思ったか!」

「もっとだ! もっと奴に魔法球を!」

「ま……待ってください……あ、? 一体……」

「はぁ?」


 ――そんな事を呟き、手元に魔法球を練り上げるのを止めながら空を見上げる騎士が一人居た。


 皆は釣られる様にして、彼の視線の先をそろそろと見上げていった。


「馬鹿な」


 ワルトも同じようにその天を覆い始めた影を見上げ、冷徹な形のまま固定されていた瞳を思わず見開いていた。


「この……混血児風情が……」


 空に浮かぶ太陽の様に巨大な二つの丸いシルエットは、二つのであった。それが地を見下ろす。しかし彼等が一様に愕然とした表情を表し始めたのは、その巨大過ぎる眼球を認めたからでは無い。


 ミーシャ農園を覆う程に漠然とした

 ――その超大なが、

 その場の全てを呑み込む様に、開かれながら落ちて来ているのであった。

 腐乱した顔面から溶けた紫色の体液をしたたらせる、とても全貌が見えぬ程の巨大な生物に動転して、ワルトが声を荒げていた。


「こんな茫漠ぼうばくとした範囲の術が長く保てるものか! 見よ、奴は魔法球を避ける事も出来ずに全神経を集中している! ありったけの魔力を放てキサマらッ!」


 ワルトの言うとおり、シクスは魔力の全てを費やしながら天のそれに意識を集中させるしかなかった。シクスの『幻』は作り出すものの大きさに比例して魔力を消費する。故にその規格外のサイズの怪異から、ただの一時でも意識を途切れさせれば途端にその絶望は消え失せてしまうのだ。

 体内に残る全ての魔力を練り上げねばならぬ程巨大な化物を、シクスはその『地獄門』によって作り出していた。


 70の騎士と動きの捉えられぬワルト。その全てを一撃で葬り去る為のシクスの最後の賭け。どんな歩法を使おうと避けるとかいう次元を超越した大技。

 シクスの『げん』は術の制約として、自らはその影響を受けられない。それを利用した、自分以外の全ての生命を屠る一撃。


「ァァアア!! うてうてうてうてッ!!」

 

 数多の魔法球が捨て身のシクスの体に被弾していく。血のあぶくを噴き出しながらも、真っ赤に染まった瞳を天に掲げたままシクスは耐え続けた。


 絶望がその形を大きくしていき、ゆっくりと落ちて来る。

 その空を仰いだまま、シクスはピエロの様にケタケタと笑った――


「さぁてめぇら!! あの悪夢が落ちて来るのが先か、俺が倒れんのが先かッ! アッハハハハハハハハ!!!」


 70名より同時に放たれる雨あられの炎や雷の連弾を浴びながら、シクスは笑う。

 それを見上げて副官が叫び出した。


「奴は瀕死だ! 能力の性質上攻撃を阻む手だても無い! 野蛮人とてこの数の攻撃を耐えきれる筈がない!」


 慌てふためいた副官の言った様に、無機物である魔法や武具に対して、シクスの幻影では敵の攻撃を阻む手立てが無いのである。

 彼の打ち出した全てをひっくり返す様なこの作戦は、現実的に考えて余りに無謀であって策もない。余りにも苦肉!


 だがその時――天啓てんけいの様にして隊の各地から悲鳴が上がった。


「ぃっギャアアア!」

「どうした!?」

「まも……魔物が各地から! こんな時に!」

「魔物が人に従う筈はない! 奴の能力だ、奴への攻撃を優勢しろ!」

「しかしあまりにも数が……ッ!」


 集団の中に複数の黒きもやが現れて、そこから赤い瞳の魔物が湧き出し始めたのである。

 ――しかしそれはシクスの能力ではなかった。天に向けて意識を集中しているシクスは、魔物が出でた事にも気付いてもいないのだ。


「ああぁあああ!! ワルト様魔物が!!」

「魔物、何故こんな所に現れる!?」


 彼等が知るよしは無いが、熊や猿や鷹の魔物が現れて騎士達に牙を剥いて襲い掛かっていた。すると必然的にシクスに向かって放たれる魔法球の数が減っていく。


「おのれならず者め――『炎の刺突バークスピア』!!」


 見兼ねたワルトが槍の切っ先に炎を起こし、シクスに向けて突き出していた。その一撃は炎をまとい、炎の斬撃が飛んでいく。


「死ねガッシュ!」

「ぐぅううう……ぉ、んのぉオオッ!!」


 シクスの膝が笑い、限界を伝えている。そこに放たれてきた一閃の刺突。シクスは震えるまぶたを起こしながら、自らに被弾するであろう火炎を見つめて覚悟を決める。


「ゥッぐおおおおおおアァっっ!!」


 まともに刺突を喰らったシクスはビキビキと嫌な音を立てて膝を着きかける。


「――カァァアアアアッ!!」


 豪炎に包まれた全身から血を噴き上げるが、燃える焔がそれを蒸発していく。

 ――しかしそれでも、シクスは凄まじい表情でその場に踏み留まり続けた。


「死ね! 貴様の様な人でなしに何かが叶えられるとでも思ったかぁっ!」


 遂に頭上に影を落とし始めた天の牙。いよいよ迫るそれに動転し、激情したワルトは、再び炎の刺突を繰り出した。

 しかし――――


「…………ッ!! なんだ……?」


 再びに被弾するかと思いきや、炎に焼かれた魔物がシクスの足元に倒れていった。


「ん……ぁ……なんだ、おめ……ぇ?」


 どういう訳なのか、魔物はシクスに迫るワルトの攻撃から彼をかばったのである。その理由はシクスにも不明だ。

 そしてその光景に、ワルトはいち早く気が付く事になった。


「なんだ……と、本物の魔物なのか!? 何故……!」


 シクスの『幻』はあくまで対象の“知覚のみ”を操る能力である。知能を持った生命以外には一切影響が出来ず、こちらの攻撃が盾も鎧もスリ抜けて対象の肉体だけを傷付ける様にして、あちらの攻撃もまた幻影ではスリ抜けてしまう筈なのだ。


 ――しかしそれが阻まれていたのだ。つまりそこに、実体を持つ何かが居たかの様に。

 そんなワルトの疑念に答える様に、騎士から放たれて来る魔法球を、シクスの前で魔物達が身をていして防いでいく。


「馬鹿な……魔物が身を捧げて……そんな事がっ!」


 シクスの回りに積み上げられていく赤目の死骸。凄惨なる殺戮の景色の中で、悠然とした佇まいで歩んで来た一匹の赤い瞳の雄鹿が、シクスに振り返って掠れる声で呟いた。


「オウ……、ノ……トモ…………ヨ」

「……ッ!?」


 シクスが驚いていたのも束の間、その雄鹿は頭を銀の槍で突き破られながら、紫色の血液を散らしていた――


「――倒れろガッシュ!!」


 風に乗るように唐突にして、ワルトが魔物を破りながらシクスの正面に現れていた。そのまま踏み込んで、槍の切っ先を猛然とシクスの心臓に迫らせていく。


「取った!! 心臓を穿うがてばキサマも――ッ」


 ワルトに先程までの余裕の表情は無くなっていた。頭上から迫っている隕石の様に避けがたいそれが、今にも仲間もろとも一瞬にして全てを灰燼かいじんと変えてしまう予感を感じ取っていたからだ。


「――――オッサン」

「――はァっっ!!」


 意表を突いた確信のあったワルトの槍が、シクスのダガーの刀身に阻まれていた。


「なっ!」


 衝撃に後退りながらダガーを手放したシクスは、ヨロヨロと生まれたての何かの様に弱りきった体で、勢いの殺されたワルトの槍の切っ先を、右の掌で力強く握り込んだ。


「……消しきれてなかったぜ。

「……っ! はなせっ! このっ……! うぉおおおお!!!」


 ワルトは決死の形相で槍をシクスの掌から引き抜こうとしたが、指が落ちてしまいそうな程強く握られたその刀身は動かない。銀の槍がシクスの血液で濡れていく。空に渦巻いた紅蓮と同じ色に。


「おっさんが来る前な。ネルとかいうロチアートのガキと話してたんだ」


 青タンでボコボコになり、焼け焦げた顔面で――シクスは何処か穏やかにも見える静かなオッドアイをワルトに向けていた。

 そうしている間にも空から落ちてくる巨大な牙。醜悪に、何重にも重なった牙の細部が見えてきて、ワルトが肩を震わせ始める。


「黙れロチアート!」

「そのガキがよぉ。夢を語るんだ。どうせお前らに喰われて死んじまうのに、将来はこの世界を旅するとかなんとかって、歯の抜けた顔で笑ってよ」


 もう目前にまで差し迫った巨大な絶望に、辺りの騎士達は膝を戦慄かせて立ち尽くす。膝を追って祈りを捧げる者や、剣を落として涙を流す者もいる。


「死んじまうんじゃねぇかって思った時に、そのガキの屈託くったくのねぇバカ面が浮かんじまったんだ、こんな人でなしの俺に……どういう訳だか、そんな幻影がよ」

「こんのぉおオオッ! 離さんかぁぁあ!!」


 顔を真っ赤に染め上げながら槍を引くワルトの長いヒゲが、空から飛来するモノの風を受けてはためき始める。兜も突風に外れ、その長髪が流れ出す。

 ――シクスは槍の刀身を深く掴んだまま、緩やかに俯いていった。


「笑えるだろ」


 シクスはそのまま続ける。


「人でもロチアートでも無い俺にも、ささやかな夢が出来ちまった。極悪非道の俺に似合わねぇ、透き通ったビー玉みてぇに綺麗な夢が」


「ガアアアアッッシュ!!!」


 目尻を吊り上げて憤慨ふんがいするワルトは、噛み付く様に彼の名を叫んだ。頭上に落ちて来るモノの衝撃で、最早大嵐が吹き荒れる様に彼の毛髪はかき混ざり、顔に絡み付く。


 対するシクスはその影響を受けず、風が凪いだ世界でゆっくりと顔をあげた。

 空の赤が背景になり、夕暮れに朗らかに佇んでいる様に。


「なぁ…………」


 シクスは額の傷痕をあらわに、両の口角を頬まで吊り上げながら、瞳を弓なりにした笑顔をワルトに向けた。



「嗤えよ」


 

 瞳孔の開いた様に巨大な暗黒が、ぽっかりとワルトの眉の下に落ちてわなわなと揺れていた。今しがた地獄から這い出てきた様な不気味な表情を見上げながら、彼はあんぐりと口を開き、槍から手を離して――全てを諦め、ダラリと腕を下げた。

 そして震える声で呟く。


「おかしいな……夢が」


 渦巻いた長髪の隙間から、真ん丸に剥かれたワルトの瞳が天を見上げる。

 真っ赤な天上から、視界の全てを覆い尽くす化け物の口が迫っている。


「夢が覚めないんだ…………。お母ちゃん――」



 ――――瞬間。ワルトの甲冑越しの体がひしゃげて、絶望を貼り付けた顔面から目玉が噴き出した。



 空から来た地獄が全てを呑み込んだ。



 絶望が落ちた雑多な闇の中で、シクスの前に写し出されたのはやはり、歯の抜けたまぬけな少女の顔だった。

 誰一人声を上げる事もなく、赤い空が晴れ、何時の間にやら昇っていた朝日が覗く。

 甲冑やチェインメイルを新品さながらに残したまま、肉片と黒い血溜まりの光景で何処までも満たされている。


 フラフラとよろめきながら、一人残った彼は呟く。


「馬鹿が……俺の名はだ……」


 魔力の全てを絞り出し、滅多撃ちにされて、とうに限界の越えた体が白目を剥いてうつ伏せに倒れ込んだ。


「……言っても…………誰も聞いちゃいねぇ…………か、死んじまったら、何にも聞こえねぇもんな」

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