第32話 15時40分、16時11分

2049年12月21日 火曜日 15時40分 神奈川県川崎市多摩区 兼修大学 五十嵐教授第二研究室前


 階段を使用して暗い地下に辿り着くと、人の存在を感じ取る。すぐさま気配を消して、物陰に隠れた。


「里井、着いたわ。部屋の前に見張りはいないわね」

『……早いですね。迷わず着いたんですか。周辺の状況は』


 上村は小声で話す。周囲を見渡しながら、細い声で続ける。


「地下は、通路があって部屋は見る限り2つ。手前は封鎖されてるわね。そうなると奥がおそらく、第二研究室だと思うわ」

『状況から考えると、野矢優ひとりの警護で、2名以上人員を配置するとは思えません。そもそも、その場所は見つからない前提で選定しているでしょうから。美佐子さんも、その場所は今日行くまで、知らなかったそうです。そうなると中にいる見張りは、1人』

「当然、来客があるとは思わないわよね。気配を感じれば、警戒される」

『そうですね。ただ部屋の中にいる以上、存在を知られずに仕留めるのは不可能です……テレビ電話にできますか』


 上村は携帯電話を操作して、テレビ電話に切り替える。電話を片手に周囲が映るようにゆっくりと動かす。


『第二研究室の扉は引き戸ですね。部屋を過ぎた奥、隠れられそうじゃないですか?何か物を扉に投げて、警戒して出てきたところを仕留める、っていうのが良さそうですね』

「ずいぶん簡単に言うわね……。確かに奥まっていて、隠れることはできそう。ちょうど資材が色々転がってるから、投げるものはたくさんあるわ」


 そう言いながら上村は目の前に落ちていたガムテープのロールを拾う。


『詩恩さんなら、問題ないです。相手が一人なら、負けないですよ』

「……どうかしらね」

『そこ、暗いですよね。部屋の中も暗そうです。私なら、携帯のライトで目眩しして、その隙にローを攻めて膝つかせた後、顔面に一発入れるイメージですね』


 上村は、その言葉に返事はせず無言でイメージを組み立てる。そして物音を立てずに通路の奥まで進み、携帯電話のライトをONにした状態で床に伏せた。少し間を置いて、手に持っているガムテープを扉に思いっきり投げつける。

 大きな音が響き渡り、ガムテープが転がる音が止むと、人の足音が近づいてくる。


「来るわ」

『大丈夫です、冷静に』


 引き戸がゆっくりと開く。170cmくらいの恰幅のいい男が出てきたところで上村は携帯電話を手に持ち、ライトを男に向ける。


「うわっ、誰だおま……痛!」


 言い終わる前に素早く近づくとローキックを入れる。膝の後ろにヒットして反射的に相手が膝をついたところで、勢いのまま肘ごと振り抜いた。相手は吹き飛び壁にぶつかると、そのまま伸びてしまった。


「や、やったわ。中に入る」

『……まさかエルボー入れました?さすがです……』


 中に入ると、暗い中に人影が見える。手に持ってた携帯電話で照らす。


「優くん?」


 照らした先には、まだあどけない表情をした子供の姿があった。


「だ、だれですか……」


 上村は携帯電話のカメラをその子供に向ける。


『美佐子さんに見せました。優くんで間違いないです。とりあえず急ぎ、そのまま今いるこのマンションまで来てもらえますか?美佐子さんを拾って、二人は警視庁まで連れて行ってください』

「了解……優くん、私は上村詩恩。警察よ。あなたを助けに来たわ。詳しい話は後、とりあえずここを出るわよ」

『急いだ方がいいです、おそらく奴が戻ってきますから』

「奴って?」

『後で説明します、とにかく急いで』

「わかった」


 上村は電話を切ると、野矢優の手を縛っているロープを外し、手を繋いで部屋を後にした。

 階段を駆け上り建物を後にするところを、後方からある人物が見ていた。


「北里です。さっきの警察官の話ですけど、研究室棟に優くんがいたようです。今、警察官の人と去っていく様子をこの目で見てます……はい、いや、私は優くんがいたことすら知りませんでした。……え、研究室の場所ですか、それは仕方なく……別に問題ないですよね。警察が来たら教えろって言ってましたけど、何かあったんですか?優くんが居るのも変だし、警察官の方も必死でしたし、全然状況が分かりませんよ……森崎教授、何かしたんですか?……はい、わかりました」


 その人物は北里だった。上村と野矢優の後ろ姿を見ながら電話を切った。北里は、心配そうな目で、その姿を見つめるのだった。


2049年12月21日 火曜日 16時11分 東京都狛江市 某所


「だいたい、掴めました。ありがとうございます。優くんも無事が分かり、安心でしょう」

「はい……私はこれからどうなりますか」


 里井は野矢美佐子との会話を続けていた。これから上村が迎えに来たとして、警視庁に行くわけだが、当然に野矢美佐子は感動の再会から釈放、とはならないだろう。


「あなたはいくつかの法を犯してます。このまま、ただでは帰れないでしょう。なので、私から提案があります。ただこの提案、私が独断で決められるわけではないので、あまり期待はしないで欲しいですが、何とかするつもりです」

「提案?どんな提案ですか?」


 里井は野矢美佐子のまっすぐな目に見つめられる。彼女は、自身のしたことを反省していた。里井はそれを考慮して提案を持ちかけるわけではないが、何の約束もできないため、この時点で話すことを躊躇っていた。


「……それはもう一つ、お聞きしてから話すことにしましょう。優くんは、特別な能力を持っていると聞いてます。具体的に教えていただけますか」

「はい……優は、元々、軽度の自閉症でした。そのせいもあってか、人とのコミニュケーションが苦手なのですが、人の名前とか、地名とか、何でも覚えることが得意で。それを知っていたので、超記憶研究のモニター募集記事を見て、応募したんです。研究は途中で終わりましたが、その時に参加した治験の中で出来上がった未完成の薬を投与されました。その結果、記憶力がさらに上昇し、それに加えて認識力というのでしょうか、新聞なんかを一瞬見ただけでどこに何が書いてあったか分かるし、ジグソーパズルなんか、一瞬で作り上げてしまいます。少し怖いくらいの能力です……本人の体調などに変化はなかったので良かったですが……優の能力が開花し始めていたので研究を推し進めようとする森崎教授とは裏腹に、五十嵐教授は優を見て、危険と感じたみたいです。まだこれ以上は進める段階ではない、と」


 里井はそれを聞いて確証を得た。ゆっくりと立ち上がりながら、野矢に言葉を放つ。


「だいたい想像どおりです。少し上を行ってますがね。私の提案というのは、優くんを、この事件の捜査に協力させること、これを了承してください」

「この事件?つまり警察に協力をしろと?」

「そうですね、半分正解で、半分不正解。深く考えず、言葉通りですよ、この事件の解決に向けて協力してもらいたい、ということ。具体的に言えば、私に協力して欲しいんです」

「里井さんに、ですか」

「はい。なので、許可が下りるかは未知数です。協力させる気があるなら、優くんと話をさせていただけますか」


 野矢は言葉を失う。当然危険が伴うだろう。即答できるものではない。強ばる表情の野矢から目線を窓にずらす。ちょうど、上村の車が到着したようだ。


「ここで答えろとは言いません。私は私で、協力と引き換えに情状酌量の条件を持ってくる必要がありますからね。今、迎えがきましたから、優くんと一緒に警視庁へ向かってもらいます。そこで、事情聴取を受けるでしょう。この取引、Noなら私からの提案を全て警察に話してください。話せば、この話は無かったことになる。Yesなら、事情聴取の場でこの話は一切触れないでください。その結果は、すぐに分かりますから、それを解答期限としましょう」

「Noなら話せ、Yesなら話すな?まるで隠密に行動するような話ね。事情があるんでしょうし、貴方は命の恩人、信用してる。話は理解したわ。少し考えさせてもらうわね」

「ええ、そうしてください。この件は、誰にも話してはダメですよ」


 里井がそう返事すると同時に、扉が開く。


「詩恩さん、お疲れ様です」

「里井!大変だったわね、色々と」

「詩恩さんこそ、ナイスエルボーでした。勝てると思ってましたけどね」

「何でエルボーってわかるのよ……」

「音……ですかね。あのゴツッとした痛い音……」


 そう言う里井の後ろから野矢美佐子が顔を出す。


「あなたが、優を救ってくださった……」

「上村です。警視庁まで、お送りします」


 すると上村の後ろからは野矢優が姿を現した。


「おかあさん!」

「優!」


 二人は強く抱き合う。お互いの無事を、ようやく現実として感じ取ることができたのだ。野矢美佐子は抱きしめながら、流れる涙が止まらない。


「おかあさん、お姉さんが助けてくれたよ!そう言えば、さっき電話で”もう会えない”とか言っていたけど、あれは何だったの?」

「いいの!忘れて!……この方が助けてくれたのよ、命の恩人!」


 野矢優はまじまじと里井の顔を見つめる。


「おかあさんを……助けてくれてありがとう、お兄さん」

「いいんだよ、仕事だからね、優くん。君が無事で良かった。俺は里井孝太郎。宜しくね」


 里井は普段見せないような柔らかい表情でそれに応えた。そして表情を戻すと、上村に目線を移す。


「詩恩さん、二人を頼みます」

「あんたはどうするのよ」

「少しやることが」


 そういった瞬間、携帯電話が鳴る。バイブレーションの回数から、チャットだろう。里井と上村は同じに携帯電話を開く。行田からだった。


”猿田が死亡、狛江のレンタルスペースになっている倉庫で死体発見。現在所轄が現場検証中。可能なら様子を見てきてください”


「……その前に行くところができましたね」

「野矢さんには?」


 小声で言う上村に、里井は無言で人差し指を口元に持っていく。


「後は、よろしくお願いします」


 そう言って里井は玄関に向い、扉に手を掛ける。扉を開きながら振り向くと野矢美佐子と目が合った。特に何も言うことなく、そのまま部屋を後にした。


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