第2話
商店街は約二百メートル連なっており、そこを抜けると車通りの多い街道に出てしまう。そうなると追い続けるのは困難だ。
逃走犯は商店街を抜け、右折、後と追う男はその時点で約二十メートル近くまで追いついていた。しかし、男が右折したところで問題が発生する。逃走犯は街道沿いのコンビニエンスストアに入っていったのだ。
「おいおい、正気かよ……」
男は思わず溜息混じりに声を漏らす。ひったくり犯が建物内、ましては狭くワンフロアしかない建物内に入ることは、逃走する上で、極めて非合理的な行動と言える。男の目つきが変わった。
建物の入り口付近で、男は立ち止まった。しゃがみ込んでガラス越しに店内を覗く。緑帽子の逃走犯は、右手にナイフを持ち、女性客の首元に押し当てていた。店内にいる他の客は、その様子を見ながら静止している。身動きを取らぬよう指示されているのだろうか。男は弾んだ息を整えながら、アタッシュケースから拳銃を取り出し、後ろのポケットに忍ばせた。アタッシュケースを左手に立ち上がり、自動ドアの前へ向かう。
「動くな!それ以上近づくな!」
自動ドアが開くと同時に逃走犯は大声を上げた。店内は息を呑むほどの静けさに包まれている。聞こえてくるのは店内に流れる能天気なBGMだけだ。それでも男はゆっくりと、右手を上げながらゆっくりと逃走犯に歩み寄る。
「おいお前、聞こえないのか!こいつの首を掻っ切るぞ!」
男は立ち止まり、逃走犯の右指先に目線を移す。女性客の首元に当てているナイフは小刻みに震えていた。
「なあ」
「だ、黙れ!動くな!喋るな!」
興奮気味の逃走犯を前に、男は手を下ろし溜息をつくが、なおも続ける。
「落ち着けよ、俺がコーヒーを買いに来た客に見えるか?」
逃走犯はその言葉に無言で答える。少しの間を作り、男はさらに続けた。
「商店街で鞄をひったくり。まあ窃盗犯の初犯なら執行猶予付きですぐ保釈可能だ。それくらいは何とかしてやってもいいけど、お前、この状況は……銃刀法違反に強盗殺人未遂ってところか。流石の俺も庇いきれないね。今すぐ、その女性を解放して投降するって言うなら……考えてやらないこともないけどな」
「お前に何の権限があるんだよ!黙れ!」
そう言われた男は、持っていたアタッシュケースを床に置き、胸元に手を忍ばせた。
「お、おい!動くんじゃねぇ!何するつもりだ!」
男は怯むことなくゆっくりと手を動かし、胸元からあるものを取り出した。
「悪い、名乗り忘れてたけど、俺は警視庁捜査一課の者だ。何が目的かは知らないけどな、絶対に後悔するから、本当にやめた方がいいぞ」
男が取り出した警察手帳を見た客たちが、安堵からか静けさを切るようにざわつき始めた。
「お前ら黙れ!全員黙れ!ふざけやがって……この女、殺してやる!」
逃走犯の右手に力が入る。捕えられた女性客は悲鳴を上げた。切られてはいないが、刃は首筋に触れている。店内は悲鳴と共に再び静けさが戻った。
「やめとけって。みんな怖がっているだろう」
「うるさい!今すぐ出ていけ!大人しく出て行かないなら、この女は死ぬからな!お前のせいで死ぬからな!本気だぞ!」
逃走犯の威圧的な声に男は顔色一つ変えず、腰に忍ばせていた拳銃を取り出した。
「どうやら聞く耳がないんだね、残念……忠告はしたよ」
男はゆっくりとした手つきで拳銃を構える。その光景を見た客たちは再びざわつき始めた。
「いいか、五秒カウントするから、その間にその女性から離れろ。離れなければ、躊躇なくお前を撃つ」
逃走犯の表情が歪んだ。手元の震えがさらに大きくなる。
「う、撃てるわけがない!ふざけるな!」
「ごー」
男は待ったなしにカウントを叫ぶ。逃走犯だけでなく人質の女性の顔も恐怖で歪んでいる。店内全体に緊張と恐怖が伝染して悲鳴が上がり始める。
「よーん」
「騙されないぞ!この距離で撃ったらこの女にも当たる!警察がそんなことできるか!お前は撃たない!」
「さーん」
躊躇なくカウントを進める男の目が冗談ではないことを物語っている。逃走犯は男が放つ恐怖を目の当たりにして、自然と女性に当てているナイフが首元から離れ始めたその瞬間だった。
「にーいち」
駆け足で放たれたカウントを掻き消すように鈍い音が店内に鳴り響いた。ただし、その音が銃声ではないことは誰の耳にも明らかだった。
「エアーガン……?」
客の一人がそう呟いた時、BB弾が顔面に直撃したはずみで逃走犯はナイフを床に落とし、両手で顔を覆っていた。それと同時に、人質の女性は逃走犯から離れることに成功していた。
それを確認した男は、間髪を入れずに床に置いていたアタッシュケースを持ち上げそのまま後ろに振りかぶり勢いをつけると、振り子の原理を最大限に利用し逃走犯に投げつけた。アタッシュケースは顔面を両手で覆っていた逃走犯の腹部を襲い、そのまま背後にある食品棚に倒れ込む。
「……痛い!痛い!」
大きな音とともに床に倒れ込んだ逃走犯は、暴れながら悲壮な声を上げていた。男は喚く逃走犯にはお構いなしに、またも間髪を入れず倒れた逃走犯へ駆け寄り、投げつけたアタッシュケースを自分の頭の高さまで拾い上げ、それを重力に任せ逃走犯の腹部に落とし込む。逃走犯は言葉にならない悲鳴とともに気を失った。
「ふう……だからやめとけって言ったのに」
気絶した逃走犯にそう呟き、男は立ち上がる。
「店員さん、商品汚して悪かったな。警察を呼んでくれ、後は任せたよ」
男は硬直し動けずにいたレジカウンターの店員にそう言い残すと、アタッシュケースを拾い、騒然とする店内から去っていった。一瞬に起きた出来事に店内の客たちは、状況を飲み込むまでに時間を要した。
そのあと暫くの間、立ち去った男へ向けた拍手は店内に鳴り続けた。
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