第9話 対立の射程
民主主義とは最終的には数の論理だ。より大きな合意を得るためには各論など語らない方が良いことは明白だろう。究極の目標である平和や自由や愛や平等という幻想を与えることで、より多くの共感を獲得し連帯を誇示する。改革や国家が キーワードになる場合もあるだろう。そして皮肉なことに、平和と自由のために、あるいは人道的見地から、空爆が繰り返される。近代の光と影にどう向き合う のか。その認識は差異に満ちている。差異はそのまま対立と置き換えても良い。認識の対立。価値観の対立。立場の対立。感情的な対立。世界とは対立に他なら ない。
愛という魔法の語彙にしても、その形は対立に溢れている。子供を谷底に突き落とす愛もある。愛の鞭という暴力の肯定もある。恋愛。家族愛。郷土愛。母校愛。愛社精神。祖国への愛。人類愛。愛という文字は共通しているものの、その性質は大きく異なる。ある人は国家への愛と人類愛は対立する愛であると語り、ある人は国家への愛が人類愛に通じると説く。私はと言えば人類愛にすら否定的だ。恋愛や家族愛は理解できる。その対象は自らが知っている者だ。しかし、同胞となるとどうだろうか。同じ人種、同じ民族、あるいは同じ人類というだけで、個の姿は想像であり虚像だからだ。一般的な愛(LOVE)は動物、生命全般、あるいは宇宙 にまで延長可能な性質を持つ。それは悪いことではないのかもしれないが。
さてしかし、人類愛を行動に移すとなると、傲慢と怠慢が溢れ出す。先進国の自由と民主主義そして資本主義を素晴らしいと考えるヒューマニストは、これを封建主義の途上国に普及することが善や正義だと錯覚する。そして、開発の美名のもとに貧困を生み、人道的見地から部隊を派遣する。それらは、愛という言葉で許されるのだろうか。これらは優位を自覚する者の驕りに過ぎないのではないのか。私は観念としての愛を否定する。そんな愛は、愛される側に言わせれば迷惑に違いない。
崇高な目標を共有していても、具体的な方策はなにひとつ一致しない。あるのは、双方の妥協という合意か、力関係による合意、あるいは決裂だけだ。とりあえずの連帯に何が期待できるだろうか。それよりも対立を明確にし、対立を前提として、その中から何かを見い出そうとするアプローチの方が遙かに知的であり有益なように思われる。完全なる一致は目標であるどころか全体主義的な、あるいは民主主義的な悪弊である。目指すべきは対立点を明確にし、それを認め合うことだ。大衆を一括りに認識することなど完全なる誤謬である。心理学用語ではこれを「過度の一般化」という。対立の哲学は、統一や連帯を求めたりはしない。対立を整理し、現実的な解答を得ること。対立を決してネガティブに捉えないこと。むしろ、それが明確になることに喜びを感じること。さらに、対立を感情的な対立に転化しないこと。これが対立の哲学の基本的な立ち位置だ。
対立の哲学がまず第一に要求することは、あらゆる他者に対する敬意である。先進国のヒューマニストに途上国の飢餓に苦しむ人々への敬意があ るだろうか。僭越な言い方かもしれないが、そこにあるのは憐れみと優越感ではないのか。敬意とは尊重であって援助ではない。ただ、現実の局面においては敬 意の原則が難しくなる場合もあるだろう。嫌悪や敵意は望ましくないと知りながらもやってくる。ただ、不思議なことに、敬意は嫌悪とも共存できる。相互が敬 意を持った時、はじめて対立が成立する。言い換えれば、敬意の無い対立は対立と呼ぶに値しないのであり、対立以前なのだ。そのような対立を「対立前対立」 とでも呼ぶことにしよう。
なぜ敬意なのか。それは、対立という知的な営みを行おうとする者にとって、必然的に備わる態度なのだと私は思う。すべての人は、生きていく 中で常に最善と思われる行動を選択してきたはずだ。それが犯罪であれ、不合理なことであったとしても、その選択は真実なのである。そのような「生」に対し て敬意を持てないという理性は未熟に過ぎる。
対立の哲学が目指すものは、対立との共生と言っても良い。対立から逃げないこと。対立を隠蔽しないこと。対立を受容すること。これが、対立の哲学の原点だ。
ここで提起される最初の問題は、対立の射程である。「相互に敬意を持たない対立」=「対立前対立」という状態を対立の哲学は射程に収められ るのか。それは、簡単に言えば野蛮な状態だ。この「野蛮な対立」を「知的な対立」という土俵に引きずり込めないのであれば、「対立の哲学」は生きた哲学と 言えない。当然ではあるが、対立の哲学は、この野蛮な状態を射程に入れて行われる。
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