第10話 事例ー1 いじめ
「とくに理由なんて無いですよ。何となく気にいらないってとこかな。」いじめをしたA君は教師にそう言った。 理由はない。もちろん、理由を分析することはできる。想像することもできる。いじめを受けたB君は、A君に何もしていない。 B君は言った。「A君に対する感情は、恐怖と不安、それだけです。A君がいるような学校には行きません。」
教師はA君に言った。「いじめは悪いことです。もう、いじめてはいけませんよ。」
理由は無かった。それは嘘である。A君は理由を理解していないし、それを理解しようとしていないだけのことだ。B君は帰国子女でクラスの中 でも異質な存在だった。臆することなく反対意見を述べる子供だった。A君はそういうB君を自分とは異なる種類の存在として、ある種の脅威と不快を感じてい たのだ。A君は、その不快感が何であるのかを言葉に出来なかった。しかし、何らかの手段でそれを表現したいとする情動はあった。その情動は、極めて強いも のだった。そして、その表現の形式が「いじめ」となったのだ。
それにしても、この教師の対応は稚拙に過ぎる。いじめは いけない。暴力はいけない。その程度の認識はA君にもあったはずだ。問題は、それがなぜいけないのか、という点でもない。そうではなく、A君が情動を、そ の情動の理由を、理性=言語で理解できなかった、しようとしなかったという点にこそある。教師の役割は、そのような理性の発達を促すことなのであり、何が 禁止されていて、何が禁止されていないかという知識を教えるだけでは不十分なのだ。
また、教師はA君の情動と心理を理解する必要がある。異質なものに対して寛容な態度がとれるようになるには、どうすれば良いのか。それを教えられなかった教師にも責任があるかもしれない。
しかし、一方ではそのような理性よりも情動を優先させようという議論もある。むしろ、いじめら れる側に問題があるのであり、協調性を育むべきだと主張するのだ。もちろん、これは暴論である。近代文明は、コギト(考える私)を前提にしているのであっ て、コギトなきエゴ(自我)という存在は想定していない。これは、真理とか絶対性の問題ではなく、広汎な合意であり、約束事なのだ。この約束事を否定する ということは、文明の放棄であり、議論の対象とすべき事柄ではない。そのような議論をする人は、反文明主義者であり、文明の敵と言っても言い過ぎではな い。余談だが、最近の日本の書店には、この文明の敵と呼べる本が山積みになっている。実に嘆かわしい現象だ。
どこにでもあるような事例だが、ここから引き出される論点は極めて多い。教師の役割とは何なのか。異文化をどこまで許容すべきなのか。クラスのアイデンティティをどこに求めるのか、あるいは求めない方が良いのか。どこからがいじめで、どこまでがいじめではないのかなど、それだけで一冊の本にできるくらいだ。
また、いじめは通常、多数で徒党を組んで一人ないし少数の者に対して行われる。では、いじめと、1対1の喧嘩の間に、どのような質的な差異があるのだろうか。いじめは良くないが、喧嘩なら良いと言えるのだろうか。
しかし、この事例の場合、A君とB君の間に喧嘩はなかった。あったのは、いじめだ けである。喧嘩は、双方にその意思が存在してはじめて成立するものだが、B君には喧嘩をする意思などなかったのだ。一方的な暴力。このような非対称な対 立。いや非対称というよりも完全に一方的な対立というものも、この世界には存在する。では、B君はどうすれば良いのだろう。
この場合は、学校を変わることで障害を回避できるかもしれない。あるいは、現実の環境(クラスの同質性)に適応するべく協調的な態度や行動を演じることも出来るだろう。もしかすると、いじめの問題についてクラスで徹底的に議論することが望ましいのかもしれない。
情動による一方的な対立。これはなにも、未熟な子供の世界に留まらない。未熟な大人の社会にも存在する。しかし、それを未熟だと非難し、軽 蔑するだけでは対立の構造は変わらない。優位に立つには、対立の構造を変化させなければならない。対立の構造を変化させるとは、どういうことなのか。これ については、いくつかの事例を検討した後で整理することにしよう。
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