第5話 明けない夜


 アリスはよく、「明けない夜はないわ」と言った。それでハルは「沈まぬ太陽もない」とよく返したものだった。



 朝が来る。太陽はまだ上がってきていなかった。ハルはかじかむ指でぎこちなくカンテラに明かりを灯した。指はまるで棒のようで、上手く感覚を伝えてくれず苛ついた。

 ミルク粥のように濃い霧の中でぼうっとした光が揺らめいた。ぼんやりとした光の中で、着替える。服を脱いで寒さの中に身を躍らせるのは随分と勇気がいることだった。しかし、それをしなくちゃ次に進めない。勇気というよりかは習慣と惰性でえいやっと脱ぐ。慌てて身に着けた服は冷え切っていて心臓が嫌な跳ね方をした。あとちょっと向きが違っていたらきっと止まっていたみたいな跳ね方だった。

 ぬぼーと薄く光る霧の中を泳いで、ザクロとスペンサーのご飯の準備をする。



 演習場の一番後ろの右端で、一人、準備運動をする。

 太陽は気配を感じさせ始めていたが、地表を温めるには未だ至っていなかった。けれど大気はもう洗い立ての朝の匂いだった。

 他の騎士達は手を擦りながら二人一組で準備運動をしている。ハルはその後ろ姿を眺めながらストレッチを開始した。あんまり口々に彼らが寒いと零しているから、ハルははっと短く息を吐き出した。もうとんと喋っていなかったから声は出てくる気配を見せなかった。ただ白く濁った息だけが出て来た。



 パトロールに出掛けようと座り込んでブーツの紐を結ぶ。ぬっと影が覆いかぶさってハルは顔を上げた。ラッセの灰青の瞳とぶつかった。ラッセはポケットに手を突っ込んでハルを見下ろしている。苛立ちがやってこなくてハルはちょっと吃驚した。

「お前、何で最近来ないんだ。」

 ラッセは眉間にしわを寄せ、ギリと歯ぎしりをした。

「あのタヌキ、最近妙な動きが多い。近い内に何かする気だ。」

ラッセがブーツのつま先でハルの背中を突いた。

 ハルはちょっと睫毛を伏せた。




 ただ君に会いたい。スペンサーやザクロに会ってやってほしかった。きっとハルよりも仲良くなれただろう。

 ハルは、母にとって自分は何が駄目だったんだろうと考えた。きっとそういうところも含めて全部だ。

 目を完全に閉じる。




 人はまず声を忘れるという。

 竜舎を出れば、ザクロが首を数度横に振ってむずかった。その首元に触れる。生きているから振動している。不安を訴えるように、ザクロがグルルと唸った。

 ハルは空を見やった。低気圧だからだろうか、雲が重く低く垂れこめている。そのせいで空が近い。まるで安っぽい虫かごの中のようだった。



 パトロール自体はいつも通りで失業者や酔っ払いが時々暴れているくらいだった。ただ、ザクロがむずかる頻度が次第しだいに多くなっていく。

 ハルはあぶみから降りて、はみを直接持った。もうそうしなければ抑えられなかった。一度、竜舎に戻ってザクロを置いてこようと思う。

 その時だった。バヒ、と大きく分厚い布、いや革がはためく音が遠く上空で聞こえた。ハルはつ、と見上げた。黒い点が灰色の空に染みのようにあった。はためく音はさっきよりも如実に大きくなった。黒い点はもう黒い影だった。急速に何かがこちらに近づいてきていた。

 ハルの革紐を握る掌に知らず汗が滲んでいた。

 それは黒いドラゴンだった。バヒ、と羽ばたく音が街に響き渡る。ドラゴンの姿はどんどん大きくなった。それほど大きくなる必要性がわからないというくらいに、ドラゴンの姿はさらに大きくなっていく。

 街に影がかかる。今、ハルの空はいっぱいのドラゴンの腹の鱗だけだった。羽ばたきの音がタタンの街を押しつぶす。実際、その音はあんまり轟音で全体像を掴めず、さらには古い建物にヒビを入れた。風はすさまじく、看板がベコォと剥がれて、宙へ消えた。ハルは飛ばされまいと身を低めた。それでも風に煽られてたたらを踏んだ。スペンサーが飛ばされたらいけないから、屈んでその腹に腕を差し入れて小脇に抱える。身を密着させたことで、体を震わせているほどに大きな彼の心臓の鼓動に気付く。

 タールのように真っ黒なドラゴンが街の中心部に着地した。



 ドラゴンはぐるりと首を回した。黒い鱗が反射して白いしじまが走る。それからドラゴンはパッカリと口を開いた。

「儂の宝は何処だ。」

 あんまり大きな声でドラゴンの近くのガラスはパンと割れた。ビリビリとするそれは音というよりかは雷や刺激といった方がしっくりときた。

 その時、崩れた家々の隙間から転がり出たという印象でもって市長が現れた。白地に紺色のラインの拡声器を持っている。市長はその真っ黒なドラゴンに比べるとまるでビー玉のようだった。

「ここだ。あぁ、ここだ。」

市長が跳ねる横で、荷車に載せられた金貨やその類のそれらは、確かに高く積まれていたが、しかしドラゴンがあまりに巨大すぎて、ちょこっと積もった埃のようだった。実際、ドラゴンがあんまり全てのものを壊したせいで土埃を被っていた。

 ドラゴンは眉間にしわを寄せた。

「約束と違う。」

拡声器でドラゴンと会話を試みる市長に、市民は初めて彼に畏怖の目を向けた。正気の沙汰じゃないぜ。

「これからだ。これから、私と組めば、約束の黄金が手に入る。それどころか……。」

 市長は言葉を最後まで言わせてもらえなかった。ドラゴンが吠えたからだった。ビリビリと大気は震え、辺りの土くれと化した建物の残骸や、辛うじて建っている中央部から離れた建物の壁を震わせた。

「違う。違うぞ、約束と違う。」

 何だ、お前、ママから約束を破っちゃいけないって教わらなかったのか。

 それからドラゴンは半円状に火を吐いて、辺りの半分を火の海にした。



 ハルとザクロとスペンサーはドラゴンが着地した風圧で吹き飛ばされていた。ハルはどうにかこうにか空中で犬を自分の腹に抱き込んで、身を丸めた。

 ザクロは瓦礫から顔を出し、頭を横に振った。それから鼻面で瓦礫を掻き分け、ハルとスペンサーが出てくるのを手伝ってやった。ハルは呆然として、ザクロの鼻に手を触れさせ、お礼を言うのも忘れた。

 真っ黒なドラゴンは尻尾を滅茶苦茶に振り回し、破壊活動に勤しんでいるところだった。

 ハルは犬を持つ手とは反対の手にきちんと槍があることを視線は向けないままに確認した。

「行かなくちゃ。」

 だって、そうだろ、オレは竜騎士なんだから。

 膝が震えているから立ち上がれませんよとストライキを果敢に試みている。手の感覚は、意識を持って確認しないとわからないほどに薄くて遠かった。浅い呼吸に気付いても、深く息を吸い込むことさえ恐ろしかった。

 辺りは酷い土埃だった。いがらっぽくて、呼吸をするだけで喉が痛んだ。けれど、誰もがそんなことに気付かないでいた。それよりももっと大きな痛みであったり恐怖であったりに飲み込まれていた。

 ザクロはハルの顔を覗き込んだ。こいつ、正気か。


 ハルは立ち上がった。その拍子に小石がパラパラと落ちた。犬を横に置いて、それから、ザクロとスペンサーを視界に収めた。

「避難してろよ。」

 こんな街、ハルは大嫌いだった。思い返してもいい思い出なんかない。或いはいい思い出を探そうという気にならない。ハルが好きなのは、スペンサーとザクロだった。今のハルの中身はそれだけ、それだけだった。

「ザクロ、お前、スペンサーを連れてってくれ。」

 ザクロは傍らのスペンサーに目を向けた。スペンサーはたったの一度もハルから視線を外しはしなかった。

 それから、というか、それで、ザクロは前足を地につけ、上半身を屈めて、ハルに乗るように示した。

 オレ達、ズッ友だろ。そうだろ。



 ドラゴネットのザクロはあのドラゴンと比べれば比べようがないほど小さかったが、それでも人類よりは大きい。それで、逃げ惑う人の群れとはおおよそ真逆の方向へ向かっているにも関わらず、ハルとザクロとスペンサーは淀むことなく進むことが出来た。

 ハルがザクロの上で呼吸の仕方を思い出していると、おい、と呼び止められた。大抵の呼びかけはハルに向けられたものでなく、そしてそれをハルもよく知っていたのに、ハルがその呼びかけを自分のものだと認識できたのは、ここ一か月、ずっとその声に同じように呼び止められていたからに違いなかった。

 つまり、ハルが視線を下に向けるとラッセがいた。相も変わらず真っ直ぐにハルを見つめてくる。ハルは口を引き結んで、眉間に力を寄せた。

「あのデカブツを片付けるにはどうすりゃいい。」

ラッセはちょっと厄介な酔っ払いの騒ぎが起こったみたいな口ぶりでハルに尋ねた。

 尋ねられたハルはたまったものじゃなかった。一瞬、自分の髪の毛が全部飛び上がったのではないかと思った。言われたことの理解はできたが確証が持てなくて、ハルはしばしラッセを見つめた。ラッセは普段のせっかちな彼らしく、腕を組んで右足で拍を取り出した。

「……、ま、街の人達を避難させてやってよ。この騒ぎだと死人が出るだろ。」

 しっちゃかめっちゃかに、市民はまるでプールでストロークするように自分と同じ人間に手を掛け掻き分けていた。

「倒せないだろうし、さっさと逃がした方がいい。」

ラッセは目を細めた。砂塵の風に頭を突っ込んでいるから、さしもの剛毛なハルの髪の毛もボサボサで不器用な鳥の巣のようだった。ラッセはハルの目がまろい、乳白色の混じった緑色であることに気が付いた。

 へへ、とハルは笑った。あんまり不器用で、最初、ラッセはそれが笑みだとわからなかった。痙攣か何かに見えた。

「時間稼ぎになるかもわかんないぜ。さっさと避難させてこいよ。」



 ドラゴンはあんまり大きすぎて、ハルの目には尻尾の一部しか見えなかった。例えそれが体の一部でも、ハルは顎を上げて、真っ直ぐにドラゴンを見た。だって、他にすることもない。

 それから、ハルは脚に力を込めて、ザクロの胴を締めた。



 ドラゴンは視線だけをハルとザクロにやると、尻尾を左右に振った。ハルがザクロに身を寄せたのとザクロが姿勢を低くしたのはほとんど同時だった。瓦礫の隙間を見つけ、ドラゴンの尻尾と地面の隙間に身を置きやり過ごす。

 ハルは唇を舐めて、ザクロの手綱を握りしめた。ザクロの脚の筋肉が収縮する。ぐっと爪が地面を掴む。それからザクロは飛び出した。何せ、ドラゴンの弱点は尻尾じゃなくて首にある。めぐるましく視界が移り変わる。右手に、炎のせいで赤く照らし出されている曇り空が走る。そうして左手を見れば、真っ黒なドラゴンと目が合った。

 ハルは喉元まで心臓が出たのを感じた。でも、だからってどうしようもない、どうしようもないぜ。立ち向かうしかない。逃げ出すことは許されない。遅かれ早かれの違いしかない。

 再び脚に力を込める。駆け出す。


 ドラゴンの尻尾が後ろから追い付いてきて、ハルとザクロを吹っ飛ばした。瓦礫の山々はハルとザクロがぶつかってきたせいで、大きな塊から中くらいの塊へと変貌した。

 頭を上げれば、脳みそがぐるんぐるんした。額につう、とした感触があった。前髪が掛かったのだと思って手で払いのけようとする。濡れて、血だと知る。知った瞬間にズキズキという痛みに気付いて、後悔する。胸と腹の間の所も痛い。全身のあちこちでてんでばらばらに痛みのリズムが脈打っていた。歩くジュークボックスのようだった。

 グーウウギャァオ、とザクロが鳴いた。生憎と教科書様に竜語が載っていなかったのでハルは竜語を喋れも理解も出来なかったが、それでもそれは情けない響きを持っていると知れた。

 黒いドラゴンがフンと鼻で笑った。

「お前、気が違っていないのに、儂に立ち向かうのは何でだ。」

黒いドラゴンの眼は弧を描いていた。

 無論、こんな馬鹿でかいドラゴンに好きで立ち向かっているわきゃない。あったりまえだろ。

 ハルは立ち上がった。ザクロへちら、と視線を走らせた。それから、今度は己の体を走らせる。そりゃそうだ、足はまだ折れていなかったし、折れる前に走っておいた方がいいに決まってる。

 振り落とされる尻尾に、足を止めた。息を吸って、丹田に力を込め、槍の尻を地面に当てる。そうして槍が、真っ直ぐに振り落とされる尻尾にきちんと刺さるように、足を広げて待つ。その鉄塔よりも太く重たそうなそれが真っ直ぐ自分に向かってくるのを待った。

 当たり前のことだが、尻尾は進行方向を変えた。何せ、ドラゴンは思考を読み取る。ハルを薙ぎ払おうと、横へしなりだした尻尾に注意だけを払って、ハルはまた走り出した。

 人間の目はヤギのように横にはついていないので、あえなくハルの体は宙を舞った。桜の花びらだってこんなには舞わんだろ。地面に叩きつけられる。勢いに道を舗装するレンガが剥がれた。また、工事夫の人達に怒られてしまう。反対側の肋が熱を持った痛みになった。息苦しくなって、酸素を求め、気道に穴を開けようと口を開く。血を吐く。鉄臭さにハルは顔を顰めた。

 いいとこだけに目を向けよう。さっきよりドラゴンに近づいた。やったね!一歩前進。人類から見ても小さい一歩で、すぐに無駄になりそうな一歩だった。何せこのままグズグズしていれば、黒いドラゴンの尻尾に弾き飛ばされ、最初よりも後方へ飛ばされることは必須だった。

 しかし、昔からハルは乳母から支度を急かされるような子だったのである。詰んだ。



 バウ、だかワンだか空気を割るような鋭い響きを持った低い音が響いた。その鳴き声をハルもザクロもよく知っていた。知っていたというようなものではなかった。常日頃、恒常的に聞いていた。それは酔っ払いの制圧なんかに行くとよく聞こえた。

 スペンサーが真っ黒なドラゴンの足元に居て、果敢にもその硬い鱗に噛みついた。鱗はあんまり硬すぎた上、ドラゴンは大きすぎて、スペンサーの顎に収まらず、それは失敗に終わった。

 ハルは自分の顔の温度が失っていくのを感じた。体が跳ね起きた。そうだろ、だって、早く自分に注意を引きつけなけりゃ、スペンサーは殺されるだろう。

「うわぁあああああああ。」

 ハルは槍を振り上げて、走った。今日唯一、ついていたことにハルの足はまだ折れていなかった。

 それだけのツキがあれば十分としなくちゃいけないだろう。


 デジャビュかな。再び尻尾に体を吹き飛ばされる。全身が痛みの塊だった。ズックンズックンと脈打っている。

 地面への衝撃に備えたいと瞼が反射的に閉じる。けれど、痛みは訪れなかった。かわりに首がグエッとなった。

 後ろをどうにかこうにか振り向けば、ザクロがいつかの日のようにハルの首根っこを捕まえていた。

 まぁ、乗れよ。鷹揚にザクロが頷いた。


 シーシュポスの岩が転がるような音だった。黒いドラゴンの笑い声だった。

「あぁ、何だ、お前。」

ドラゴンが正面を向く。山がこちらを見ているようだった。ぞっとしない。ハルは身の毛が総スタンディングオベーションしたのを感じた。なるほど、これほど心動かされたことはない。恐怖でなくて喜びで動かしたかった。

 顎を上げて、ドラゴンの目を真っ直ぐに見る。何せ、大抵のものはハルよりデカいから見上げなきゃいけない。

 ウルル、とザクロが喉を鳴らした。その振動がハルにも伝わる。ザクロが後ろ足の筋肉を収縮させた。次いで、地から飛び出す。


 黒いドラゴンは決して素早い動きではなかったが、それはスピードを出す必要がないからだ。体が大きい故、攻撃範囲が広く、避けられない。その上、一撃が重い。ハルは槍で攻撃の衝撃を多少なりとも地面に流し、ザクロは体を吹っ飛ばされる際に、その方向へ体を跳躍させることで受けるダメージを軽減させていたが、限界がある。そして、限界は思っているよりも早く来た。お呼びでない。

 自分達に向かって振り落とされる尻尾も予想よりも早くやってきていた。

「おい、デカブツ。」

 ドラゴンの動きが一瞬止まったのでザクロとハルはこれ幸いと、ドラゴンの尻尾の影から地面に沿って飛び出した。視線を声のした方に向ける。

 ラッセといつか自分を庇ってくれた道路工事夫がいた。コンクリートの塊とそこらの板で即席の投石器のようなものを作り出したらしかった。その傍らでいつものようにラッセは真っ直ぐと立ち、それを信じられないものを見るような目で道路工事夫のおじさんが眺めている。そうだろうな。わかる。道路工事夫のおじさんの足は漫画みたいにバッタンバッタンと震えていた。無論、ギャグ漫画の方だ。

「助けか?可哀想な奴らだな。」

 黒いドラゴンが鼻で笑った。

 ハルとザクロは、道路工事夫のおじさんはともかくラッセは違うんだろうなと思った。

「そうだ。」

 ラッセはいとも簡単に頷いた。

「こいつ一人だけなんて可笑しいだろう。」

ここはオレの街だ、とラッセは静かに言った。

 ドラゴンはまた笑った。

「こいつらは、儂を死に場所に決めただけさ。そうだろ、こんな死に場所、またとない。」

ドラゴンはにんまりと唇で弧を描いた。お前らに生きる意味がないことぐらいすぐに読み取れた。


 ハルは、それもそうだなと思えた。ザクロが、次はどう動くんだと此方を見ているのにも気付かなかった。けれど、髪を僅かに揺らす風には気が付いた。ドラゴンを見る。真っ黒な巨体は周囲の炎に照らされて、黒光りしていた。

 そのはずなのに、ハルにはその考えが一度も自分からは出てこなかったのだ。ハルにとって、そうしてひょっとしてザクロにとってもスペンサーにとってもその方がいいのに、そんなこと考えもしなかったどころか、及びもしなかった。その発想はなかった。

 どうしてだろうと考えて、すぐにハルは理由に思い当たった。ハルは典型的な山羊座のA型だった。世の山羊座のA型が一概にこうだとは言えないが、何せ、典型的な山羊座のA型は少ない。けれど、ハルは典型的な山羊座のA型で、つまり、こだわりが強くて融通が利かなくて、頑固だ。投げ出すのは嫌いで、逃げるのは性に合わなかった。


 ハルが槍を持ち直した。ザクロはドラゴンに対し、正面を向くよう指示される。真向からぶつかる気だろうか。正気じゃないとザクロは思った。といって、周囲は火の海で今更逃げ出す先も、隠れて相手を窺う先もないから、そこまで狂気のアイデアとは言えないのかもしれなかった。

 真っ直ぐ、地面に二本の自慢の足で立つ。足の裏で地球を掴む。

 だって、他にすることもない。ザクロがこの人間から学んだことだった。



 真っ黒なドラゴンはぐっと首を伸ばして、より自分が大きく見えるようにした。先ほどから自分に向かって、真っ直ぐに向かってくる人間が怯んだのがわかる。けれど、この十数回ものやりとりで、怯むということが、彼らがこちらに挑むのを止める理由にならないこともわかっていた。鬱陶しい。梅雨時の大気かな。

「いい加減に理解しろ。何で立ち向かうのを止めないんだ。」

 それが人間の厄介なところだとよく知っている。

 少年が顔を上げる。顔は血と泥と煤で判然としない。風が強く吹き始めていた。少年は風で目が痛いのだろうか、目を細めた。

「オレが諦めないって決めたからだ。」



 ハルが胴を脚で締めた。ザクロは地面を強く蹴って、飛び出した。

 黒いドラゴンの尻尾が持ち上がって、地を影ですっぽりと覆う。

 ハルはザクロの体にぐっと身を寄せた。ハルにザクロの筋肉の動きと血の流れる音が伝わる。きっとハルの音もザクロに伝わっているだろう。鱗の下、皮膚よりもその奥の生きた細胞の動きを感じる。

「走り抜けるぞ。」

 無茶な、とザクロは思った。といって、攻撃範囲が大きすぎて、何をしても当たるだろう。だから、ザクロは先ほどよりも前傾姿勢になった。前足もその地面を掴む。



 時間は平均すると大体平等に与えられている。そう感じないのは時間を自分達の外側で流れているものだと捉えているからだ。時間は、個々のセルの経年劣化に過ぎない。つまり、小さきものは大きいものよりも地球に滞在する期間が短いが、与えられた時間は大体平等なので、大きいものと同じくらいの時間の長さを味わっている。

 それ故、大抵の生物はドラゴンよりも素早い。黒いドラゴンは内心で口を引き結んだ。人間の与える攻撃は大したことないのをよく知っている。硬い鱗は原子爆弾さえ通さない。ただ、一点を除いてはの話しであり、そしてこの少年はその一点を知っているのだ。首の上の、逆さ向きに生えた鱗、その下さえなければドラゴンは最強の生物だった。



 「跳ぼう。」

ハルの言葉に従って、こちらを押しつぶそうとする尻尾の進行方向とは斜め右前に飛ぶ。案の定、安定した足場じゃないから、着地に失敗してバランスを崩し、つんのめる。四本の足で地面を掴み、踏ん張れば、長い槍を地に突き刺してハルも加勢した。

「倒そう。なぁ、オレ達はコイツより強い、そうだろ。」

 ザクロが再び走り出せば、真っ黒なドラゴンは口をパッカリと開けた。その喉奥から炎は渦を巻き、すぐに視界は炎で染まった。その中を走り抜ける。ドラゴネットのザクロの鱗は燃えない。ハルはちょっとよくわかんないけど、たぶん最速で駆け抜けたら大丈夫だろ。


 走り抜けた先は黒光りする鱗だった。あんまり真っ黒で、背景が明るく燃える炎のせいで、鱗にハルとザクロの姿が映って見えた。背中のハルはところどころ焦げているが生きている。問題はないな。問題なのは、現在進行形で迫りくる尻尾である。

「と、飛び越えるぞ。」

 出来るかできないかはこの時点で問題ではなかった。何せ、マジで眼前だから考えている時間がねぇ。



 バーナードは隣の男をしげしげと眺めるのを止められないでいた。ラッセはバーナードに見つめられているのに気が付いていたが、彼が仕事をきちんとやっている分にはそのことについて口出さないと決めたようだった。二人が目指しているのはドラゴンの目である。鱗は硬すぎて注意を引くことさえままならなかった。それで目くらましにシフトチェンジしたのだ。

 バーナードが一番信じられないのは、自分だった。自分はこんな勇敢な人物ではない。これは、ひどく不自然なことだった。違和感で、背筋のムズムズが止まらない。

「あんた、そろそろ逃げた方がいい。これ以上留まると逃げられなくなる。」

 最後のタイムリミットだとラッセがバーナードを見下ろした。

「アンタ達を置いてか。」

 考えてもいないことが口から勝手にそしてさっさと飛び出た。それはあんまり早くて、その言葉が口から出た瞬間に、口を閉ざして言葉が口から飛び出ないようにしようという思考が追い付いたほどだった。

「みんな、そうしてる。」

 ラッセは酷く真面目な顔で言った。それもそうなので、バーナードはこれ以上自分が考えないで済むように話題を変えることにした。

「アンタは、どうして逃げないんだ。」

出来ることもないのに、彼からは逃げ出そうという発想からないように見えた。ラッセはちょっと笑った。

「オレの街だからな。」

今度はバーナードが返す番だった。

「オレ達の街でもある。でも、みんな逃げてる。」

ラッセは何の躊躇いもなく口を開く。

「愛している。」

 確かにろくでもない街だが、完璧なものを愛してどうする?

 ラッセとバーナードはドラゴンの目玉へ投石器の照準を定めた。


 尻尾を上げた先にあの小童達はいなかった。また、ちょこまか逃げられたと思い、視線を左右に振るがどこにもなかった。とうとう潰して、尻尾の裏にでも張り付いたのかと思い至る。黒のドラゴンにとってよくあることだ。尻尾を己に近づけて、裏に張り付いたのではないと知る。彼らは尻尾の上にいた。


 黒のドラゴンの鱗と鱗の隙間に爪を引っ掛け、ザクロは走り出した。鱗は鋭利で痛いが、つるつるしているから四本足でもすぐに滑りそうになって、そうするよりほかにしようがなかった。

 オレの人生、こんなのばっかだ、とザクロは鼻の穴を広げた。


 ザクロの手足がドラゴンの鋭い鱗で傷ついている。まぁ、手足だけじゃなかったが。ハルの腕も、攻撃を受け流し続けていたせいで痺れている。槍を取り落としそうだ。フラグではありません。血はそこかしこからダラダラと流れていて、きっと吸血鬼がいたら勿体ないと嘆いていただろう。そのせいで、しかも低気圧もあって、脳みそはガンガンとヘドバンし、視界が霞んでいる。うわぁ、朧だ、風流だね。

 こんな時、アリスなら、と思う。高い山を前にすれば彼女はワクワクすると言った。アリスなら、きっとザクロの心を開くのも早かっただろう。街の人と馴染んで溶け込んだに違いなかった。図書館の外壁は燃やされなかったかもしれない。

 けれど、ウルトラスーパー残念なことに、ハルはアリスではないのだった。この街にとっては今世紀最大の悲劇かもしれなかった。

 ハルはただ、自分の手札でやるしかなかった。

 ドラゴンの手がこちらに向かって振り落とされる。ザクロに進行方向を指示しながら向かってくるドラゴンの爪を槍でいなそうと試みる。



 「何でだよ。」

真っ黒なドラゴンの声は銅鑼のようで、ハルの鼓膜にダメージを与えた。

「誰も、お前を歓迎しちゃいない。誰もお前の存在を許しちゃくれなかったんだろう。」

 ハルはコイツ、小難しい大人みたいに理由を聞いてくるなと思った。理由なんて後付けに過ぎない。ただ、黒光りする鱗も、それに包まれたドラゴンの体躯も美しくて、話してみたいと思えた。

「うん、まぁ、そうだな。」

「お前なんかいなきゃいいとみんなから思われてた。」

ハルは、しみじみ、他者から改めて言葉にされると心にくるな、と感じた。

「そうだぜ。」

事実しかない。

「隕石が落ちてきて潰されちまえって思ってたくせに。」

 ラッセはハルを睨み付けた。

 ハルは内心で首を横に振った。現在進行形で思っている。過去形じゃない。

「じゃあ、何でだよ。」

 ハルは顎を上げた。どいうつもこいつも無駄にデカいせいで、そうしないと顔が見えない。風に雨の匂いが混じり始めていた。ドラゴンの声が馬鹿デカいせいで、鼓膜が麻痺して周囲の音がよく聞こえなくなっていた。静かだ。ただ、己の鼓動の音だけが聞こえる。

「オレが竜騎士で、ここがオレの街だからだ。」

 ここが、ハルの街だった。一帯は振り回された尻尾と吹き飛ばされたハルとザクロのせいで、立っている建物が無くなっていた。塊と化し、その全ての上に炎が狂ったような踊りを披露していた。イエァ!ヨッホホーイ。

 空気を取り込もうとハルは大きく口を開けた。空気の全てが埃と煤で粉っぽかった。

 走れ。


 ハルとザクロを掴もうとやってきたドラゴンの手を飛び越えて、鱗と鱗の隙間に爪と槍を突き立て、踏ん張る。それから、また走り出す。他にどうするつもりだ。しようがない。


 ドラゴンが背中のハルとザクロを落とそうと体を起こし、足踏みし回り始めたせいで、建物の残骸の塊は大分細かくなった。


 走れ。



 振り落とされてくれるなよと思った。



 走る。走れ。






 走れ。










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