第4話 神様



 時計塔は大昔、火事にあったきり誰にも直してもらえずそこに建っていた。確かに時計塔を直したって何の得にもならない。取り壊すのにもお金が掛かるから放っておかれてある。

 誰も手を入れていないから、中の階段もところどころ崩れていた。危ないわりに、見るべきものは何にもないから、近隣の住民は大抵、その存在を忘れていた。思い出したように数年単位で現れる各世代の悪戯小僧共だって、足を載せればボロと崩れる階段に恐れをなして登り切らない。

 ハルは少女に教えてもらった通り階段の右端を3段分だけ上って、それから1段飛ばして、左端に足を掛けた。そのまま壁にピッタリと身を寄せて左側を登る。腐りかけのはめ板を上げて、塔の最上階に上がる。火事で焼け落ちて半分屋根がないせいで、床の半分はいつも湿っていてカビが生えて腐っている。

 ハルは足で腐っていないだろう部分を確かめながら歩いた。窓際まで行けば、もう安心でそこにどっかり座る。埃が舞い散って鼻がムズムズした。窓枠に手を載せると枠が崩れるから、体を触れないようにする。

 窓の先、眼下には建物がギュウギュウと並んでいる。家々は息苦しそうだった。通りで牛が重たそうに荷車を引き、その牛を負けず劣らず重たそうな眼差しで人間が御している。商店から人を呼ぼうという声はしわがれたダミ声だ。牛も人も等しく肩が前に縮まっている。

 ハルはふい、と視線を窓の外から外した。真っ直ぐに壁を見つめる。焼けてレンガは黒いままだ。

 少女はあれきり姿を見せない。




 ある日、神は人類を滅すことに決められた。たぶんおそらく、きっとそうに違いなかった。隕石が落っこちてきて、大半の人類が死んだ。けれど、人間は滅びるには増えすぎていた。結局、各地で幾らか細々と生き残ってしまった。生活は続けられた。

 我々は神様の意志に反して生き続けている。隕石が衝突して、それ以来ずっと、人類の大半はその宗教を信じ、生きていることを懺悔している。

 騎士団の介入により図書館の暴動は拍子抜けに鎮圧された。けれど、それは怒りのはけ口が変更されただけで、誰もかれもが新たな出口を探していた。




 ラッセは舌打ちを一つして、眼前のハルを押し潰そうととびきり低い声を出した。ギリと歯を鳴らす。けれど、ハルはとうとう頷かず、重たそうに足を引きずって竜舎に帰った。文字通り、足が上がり切らないせいでハルの足跡にはズズと爪先を引きずった跡があった。

 ラッセは目を瞑った。仲間の一人に腕を小突かれた。誰かがおい、どうしたんだと声を投げる。といって結局のところ彼らはこの街を守るために必要な仲間であってそれ以上でもそれ以下でもない。彼らの疑問に答える義務はラッセにはなかった。

 目を開いて閉じて、また開いた。くるりと演習場に背を向ける。




 自分を甘やかすのは簡単なのに、自分を大切にするのは難しい。

 昇ってきた太陽に悪態をつきながら、目を開く。ずっと頭蓋骨が締め付けられている。脳みそがブチャと潰れないくらいの絶妙な力加減だ。視界が黒くなって、収まるのを待つ。開けた世界はしかし揺れてなかなか安定しない。三半規管が朝から過重労働っすよと文句を言う。口を手で押さえて、吐き気が過ぎ去るのを待つ。

 結局、吐き気は去らず、いるんだけど実際吐くほどじゃないくらいの主張を続けた。

 ザクロが顔をそっとハルに近づけた。ハルは顔を上げる。

「何だよ。」

 目が細まる。ザクロの匂いだ。炎を体内に宿しているのだろうか、いつも香ばしい。

 スペンサーが起き上がってハルを待っていた。藁から、ハルは立ち上がろうとした。


 

 次にハルが目を覚ました時、人間の足が二本あった。仰向けになれば、ラッセの灰青色の瞳がハルを見下ろしていた。手をズボンのポケットに突っ込んでいる。上半身は綿だか麻の生成り色のシャツに緑色のダボッとしたベストを着ていた。武具を一つも身に着けていない彼を見るのは初めてだった。

「お前は何やってんだ。」

 ラッセが口を開いた。それはハルの台詞だった。何故、彼がここに、とそこまで思考したところで、ここは何処だということに思い至る。いやここが何処だかはわかってる。ラッセの背景は見慣れた竜舎の梁と屋根板だ。でも、何で自分は竜舎にいるのだろうか。だって、ハルは出勤するために起きたはずだ。まぁ、そこから先の記憶はないんだけど。

 ハルは口を引き結んだ。

「胃液まみれの藁ン中でさ、お前、何やってたんだ。」

ラッセの言葉にハルはより口を引き結んだ。

 その割りにはベトついていなくてハルはそっと自分の体を見下ろした。というか、自分はこの寝巻を着ていたか。ハルは考え得る可能性の一つに至って、しかしそんな考えを浮かべた自分をいっそ恥ずかしく思いながら、それでもラッセをもう一度見上げた。

 ラッセはポケットから片手を出すと、身を屈めた。そうしてむんず、とハルの腕を掴んだ。

「オラ、立て。」


 ラッセの後について行けば、兵舎前には他に2人の騎士が全くの私服で立っていた。男達はラッセの背後のハルの姿を認めると目を細めて口をへの字に曲げた。その様相は、顔立ちはおろか、肌の色まで違うのにとてもよく似ている印象を抱かせた。

「結局、市長がこいつに罰則を課さなかったのは、お気に入りだからなんじゃねえの。」

 男の一人が口を開いた。ハルは話が見えてこなかったので仏頂面を作っておいた。ラッセが後ろを振り返ってハルを見下ろした。

「お前、市長のお気に入りだったか。」

 口ぶりは、このちんちくりんが誰かの気に入れられるようなことが出来るとは到底思えないがというものだった。事実であるからこそ、マジでうるせえ。ハルはギリギリとラッセを睨みつけながら首を横に振った。

「お貴族様の機嫌を損ねたくなかったとかそういう風にも考えられる。」

浅黒い肌の方の男が言った。ラッセはますますハルを見下した。控えめに言ってもその視線はこいつがと問いだげであったし、盛大に言えば、地球が逆立ちする方が信じられると伝えていた。お前、視線だけでもうるさいの、いっそ才能だよ。ハルは短く、それはないとだけ答えた。何故と最初に口を開いた男が尋ねた。無視した。

 つまるところ、子供を竜騎士にしようとする家なんて没落貴族だと相場が決まっていた。上手くすれば、上手くやれば、栄誉ある都勤務になって一発逆転、王家の側近だぜイェイだが、大抵は地方勤務でこき使われて死んで遺影で終わりだ。力のある貴族はよっぽど酔狂でもない限りそんなことしない。親の金で遊んで暮らせるなら、そうするだろ、それが万々歳だろうが。わざわざ肉体労働で栄光を掴む必要なんかない。そも、肉体労働って何かアレじゃん。

 彼らに自分の家が没落貴族の一つだと教えてやる義理はなかった。仲間になりたいだなんて頼んだ覚えはないどころか、そも、この集まりが何なのかハルは未だに説明を受けていない。

「あのタヌキが何を考えているのか探っておいた方がいい。オレはオレの知らないところでオレの街に関わる何かが進行してるのは許せない。」

ラッセは薄氷が割れるみたいに笑った。



 連れられたのはやたらめったらに音楽を掛けているホールだった。何の意味があるのかわからないが、照明がひっきりなしに色を変えている。頭蓋骨をすり抜けて、音楽(と最早言ってよいのか)が脳みそを殴る。ひっきりなしに視界の色が変わるせいで、さらに脳みそは揺さぶられることになった。

 ラッセもその仲間もハルの視界から消え失せていた。ハルは首を横に振って、ズクンと針金を通したような頭痛に体を固くした。じわじわと痛みは続く。

 ホールには鼻の下を伸ばして目を瞑って自分自身を騙そうと無駄な努力を試みる人間達しかいなかった。彼らはここに踊るという同じ目的をもって集っているというのに、誰もかれもが一人だった。カップルでさえも、それともカップルの方が、結局、自分自身という殻を破ることが出来ないから一人と一人で、自分の脳みそを通して出来上がった世界しか見ていなかった。

 ハルは息をつこうと試みた。何にもない世界が恋しかった。

 それから、我慢できなくなって、くるりと踵を返しトイレを探した。



 トイレは紫色の照明で照らされていた。そのせいでトイレの入り口に立った男は悪趣味な玩具のように見えた。男は入口の壁に背を凭れさせ、トイレに通してもよいかどうか通行人を監査する役目を担っているみたいに片足を反対の壁へ伸ばしていた。腕組みをして、唸るように世界を睨んでいる。ハルはそっと男の関節を確認してそいつがマネキンでないことを確認した。

 ハルはそっと拳を準備しておくことにした。拳というものは、今はそうではないという顔をしているが結局、全てを解決する唯一無二のものだ。男へ近づく。男は床のハルの影を認めると、顔を上げた。その表情に寄せられたシワが無くて、ハルは面喰った。

「なぁ、あんた、パラダイスに興味はないかい。」

 ハルはパチンと瞬きをして考えた。興味、というにはあんまり遠かった。不必要というのは違和感だった。己に縁遠いと言うのは子供っぽい気がした。楽園はいつでも心の中にあると語れるほどに思い上がっている訳でもなかった。

「遠すぎてわからない。」

ハルはそれだけ言った。男は目を細めた。

「疑似的なものはそこらにいくらでもあるのにな。」

男は鷹揚に頷いた。それから男は足をどけた。

 トイレでは男が二人、テーブルを挟んで向かい合っていた。ハルはくるりと振り返った。パラダイスマンは再び同じ姿勢で床を睨んでいた。紛れもなくトイレであることを確認して、ハルはまた顔を正面へ戻した。

 二人の男の内、一人は白髪混じりの髪をしていて、よれた緑のチェックシャツを着ていた。もう一人は少し頭のてっぺんが寂しくなりはじめていて、ガガンボのような眼鏡をしていた。テーブルにはトランプがどうにか並んでいる。

「スペードの3。」

 ガガンボがカードを机に出す。チェックが舌打ちした。

「ハートの5と6と7だ。」

 男達はトランプから離すと死んでしまうらしかった。

 ハルは男達を避けて、人類に残された最後の安楽の地と名高い、つまりはトイレの個室へ向かった。

「なぁ、次はダイヤの10かクラブ6、どっちを出すべきだと思う。」

チェックがトランプから目を離さずに眉毛だけを上げた。ひとしきり落ちた沈黙の後に、ハルはそれが自分に向けられた質問であることを悟った。

「ルールもわからないのに答えられない。」

二人の男がせせら笑った。

 ガガンボはトランプから目を離さずにハルへ向かって口をしばった袋を差し出した。

「ホラよ。そういう薄のろにはクラブの5って決まってんだ。」

 ハルが受け取ろうとすれば背中に衝撃が乗っかった。被さる影は見慣れたものだ。

「お前、何、売人にとっ捕まってんだよ。教授達も見境なくクスリを売るのは止めときな。」

 ラッセはハルがクスリ漬けの廃人になってれば良かったとでも言うように舌打ちをしてハルの腕を掴んだ。

 ハルは未練がましく、人類のパラダイスに目を向けた。


 市長の家へ食材を運ぶ運搬の男曰く、市長は毎日ステーキを食べているらしい。情報に男達は嬉しさを押し隠し、渋面を作って、次々に唾やら何やらを吐いた。

「ハッ、毎日豪勢なこって。」

 ハルは、毎日ステーキは飽きそうだなと思った。肉は咀嚼するのが大変だから、ハルは椎茸の方が好きだった。噛むのって顎が疲れんじゃん。




 竜舎に帰ったら、生ごみがぶちまけられてあって、壁には落書きがしてあった。片付けに時間が掛かった上、臭いは一晩経っても落ちなかった。



 素敵ね、と金髪にピンクのエプロンを身に着けた女が手を頬に当てた。その視線の先にはガキンチョによじ登られながら、別の保母さんに話しを訊いているラッセがある。

 ハルはこいつ正気かと傍らの女を振り返った。ラッセのいいところなんて、背がデカいとこくらいしか見つからない。アリスが女はダメンズに心惹かれるものなのと言っていたがこういうことか。なるほど、全然わからん。



 兵舎のポストを覗く。ハル宛のものはなかった。



 馬毛のブラシでブーツの埃を払う。隙間と隙間に砂利がついていた。次にムースを布に取って、磨いていく。

 スペンサーがふうと溜息をついてハルの太ももに顎をのせた。ザクロが鼻面をふんふんと近づけて、ハルが何をしているか探ろうとする。

 固く絞った布で拭き取っていく。拭き終われば、戸口に置いて乾くのを待つ。



 あー、不幸でいるのは楽だなと思う。

 麻薬の売人を除いて、誰もハルに物を売ってくれないから、兵舎の食堂で食事を受け取る。食事は食堂で摂る決まりだった。席はないから床で食べる。誰もがハルを見下ろして通り過ぎて行った。

 ザクロのご飯は支給されるから、そこからスペンサーのご飯も用意する。ザクロとスペンサーはよく隣り合って丸まって眠った。



 竜舎の中は荒らされていた。けれど、疲れすぎていて片づける気になれなかった。それで皆で、外で寝た。仰向けになれば、星が見える。



「あいつは何を企んでいやがるんだ。」

ラッセがパブで頬杖をついた。その場の誰もラッセの問いに憶測だった投げることは出来なかったが、ラッセはそもそも返事を期待していないようだった。周囲の無能には慣れ切っているとただ、一人で思考の海に沈んでいた。




 「お待ちかねの手紙だろ。」

本日の郵便係がハルに手紙を渡した。ハルは眉を寄せた。先ほどポストを確認したがアリスからの手紙はなかったはずだ。

 渡された手紙の封筒は白い上質紙だ。見慣れない封蝋がしてある。後ろをひっくり返す。見慣れない筆跡で心当たりのない貴族の名が書かれてあった。しばらく眺めて、それからハルはようやくそれがアリスの嫁ぎ先の家の名前であることに思い当たった。

 ナイフを封筒に差し込んで開く。便せんは1枚きりだった。薄い紙だ。しかし、文字は滲みも引っ掛かりもしていない。吸い取り紙をわざわざ使ってあるのかとハルはぼんやり思った。便せんの筆跡は封筒の文字と同じものだった。

 中には、母がアリスを巻き込んで無理心中したとあった。









 生活は続く。

 ハルは夜空の下に出た。月は真っ白に輝いて、皿のようだった。千切れた雲が空を駆ける。光が白く弱いから、照らされる地上のものに色はない。伸びる影は何かを待ち構えている。特に木々の影は風に煽られる枝が捨てられた老婆じみていた。葉がぶつかり合ってザワザワと音を立てる。

 風はハルの髪の毛も掻き混ぜていく。服を通り抜けて風はハルの体をすっぽりと包んだ。

 脚にもったりとした温もりが触れた。ハルは視線を落とした。そうして初めて、己に視覚があることを思い出す。足元にはスペンサーがいてハルに凭れ、丸まっていた。熱い息吹が肩口にかかる。顔を上げる。ザクロがハルの顔を覗き込んでいた。

 暗いから瞳孔は光をよく取り込もうとまん丸だった。濃い新緑の瞳の真ん中で真っ黒な球がハルを映している。そのせいで、ザクロの心は見えない。

 大きな穴が開いているんだ。



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