第3話 誓い



 ハルはパチン、と瞬きをした。

 裾を引かれたような感覚があって、そっと後ろを振り返った。何もない。

「いかがされましたか、竜騎士殿。」

 図書館を案内してくれていた司書の男に尋ねられて、ハルは向き直ると首を横に振った。どうぞ、ご説明を続けて。

 勿論、ハルが図書館内を巡っているのは、図書館見学ツアーに申し込んだからじゃない。図書館は公共事業だ。それで市民の不満が向けられたのだ。言い分は、本じゃ腹は膨れないとのこと。

 市民側であるという意識が強い騎士団が着任を拒否したため、ハルが図書館の警備を行うことになった。



 図書館の前庭に生えた菩提樹の枝が二股に分かれた所に腰掛けて、ハルはレーションを齧った。枝に掛けたズックからリンゴを取り出して、ザクロの口に放る。ザクロは器用に割ると、欠片の幾つかをスペンサーのために吐き出した。じいさんが喉に詰まらせないか確認してから、ハルは視線を前へ戻した。

 図書館の前には武装した市民が十数人ほど、こちらを窺っている。つまり、だ。ドラゴネットの力は十分な牽制足り得た。

 ハルの責任はこの街を守ることだ。それは図書館の司書にもそこで武装されている市民達にも本にも適用される。

「ねぇ、竜騎士様。おーい。」

 近づいて来た足音には気が付いていた。けれど、それが自分に向けられたものだとハルは思い寄らせていなかった。それどころか言葉と意味を理解して尚、ハルはそれが自分に呼び掛けられたものだと結び付けることが咄嗟に出来なかった。

 振り返る。木の下で金髪にそばかすの散った少年がニッコリと歯を見せて笑った。

 ハルは後ろに体重を少しだけズラして、それからそんな自分にこっそりとほぞを噛んだ。




 タタンの街は王都ポルンに通じる街道の途中にある。しかし、数あるポルンへ至る道の一つに過ぎず、その上、周囲は荒野だった。故にこの道がわざわざ選ばれることは少なく、そのためタタンの街はそう繁栄したことはない。

 タタンの街にわざわざ技術を伝えようという人物はそう多くはなく、また技術を伝えてくれるような人物がいようと思う人もそういなかった。電車やリニアモーターカーが走ることなど微塵も想定されていない街並の道はデコボコでぐねぐねで狭かった。

 それとも、はるか昔、この街は要塞都市で、敵兵の勢いを削ぐためかもしれない。ハルは顔を上げた。風雨と寒さに耐えるため堅固で厚いレンガで出来た建物は実際の大きさよりも存在感がある。

 時計塔の先端から鐘の音が鳴り出す。それはハルが思っていたよりも低い音だった。




 脚に力を込め、ザクロの胴を締める。ザクロの筋肉がわななく。駆け出す。地面を蹴るダッダッという衝撃はそのまま鼓動のようだった。次第しだいにハルの動きとザクロの動きは一つの生物として混ざり合っていく。まるで、と思う。ハルの体はザクロの体に吸収されていく。

 図書館の西側の塀に辿り着く。寄ってたかって壁を苛めていた数人の市民がハルとザクロへ向いた。けれど壁は、(顔を半分無くしているので、そこから分かる範囲という意味で)口を真一文字に結んだままだった。

 無論のこと、壁は人間よりも強い。だから苛めるのにも道具がいる。ハンマーやノミ、或いはただの石の塊だ。市民の一人は、ザクロから滑り降りたハルに向かって大きく振りかぶった。

 その後ろで青空が広がっていた。舞台装置のペンキで塗りつぶしたあの空のようだった。図書館の庭に生えている木は枝を投げかけ、光は葉を通った。

「税金泥棒が。」

 お前なんか死ねばいいのに。石がハルの元へ向かってくる。

 ハルはそれをヒョイと避けた。だから、何だよ。鼻で笑ってやるよ。ハルはギリと奥歯を噛み締め、唇の端を横に広げた。



 「はい。」

クローバーがハルの手へ何かを置いた。それは市松模様のクッキーだった。ハルはそのクッキーからクローバーへ視線を移した。暫し見つめ合う。沈黙が続いて、クローバーは首をコテンと傾げた。それでハルはクッキーに目を落として、グローバーへ視線を戻す作業をもう一度行ってから、口を開いた。

「何。」

クローバーは眉を下げて笑った。

「あげる。それとも甘いものは苦手だった?」

ハルは首を横に振った。クッキーを視線に落とす。唇が震えた。

「……あ、ありがと……。」

顔を上げることは出来なかった。

「それ、おいしーんだよ。角のパン屋のおばちゃんが毎朝、焼いてんだ。おまけしてもらった。」

顔を上げずとも、クローバーの金髪が日の光に照らされ、反射して輝いているだろうことはわかった。


 クローバーは図書館で一番若い司書だ。ハルと同い年の14歳だ。でもハルよりデカい。大抵の人類は、ハルよりデカい。

 クローバーの背中をぼんやり見つめながら、ハルは彼についていく。

「あ。」

 クローバーが書見台に置かれたままの本に近寄った。そのままパタムと閉じてしまう。拍子に埃が散ったのが見えた。ハルはちら、とクローバーを見た。

「もう。本はさ、開きっぱなしだと傷んじゃうんだよ。」

クローバーはそのまま本を手に取り、シェルフへ寄ってしまう。

 ハルは視界の端で白いドレスの裾が見えたような気がして、何とはなしに顔をそちらへ向けた。この図書館で司書以外に人間を見かけたことがない。それもそうで、市民がいつ襲ってくるかわからない中で、本は落ち着いて読めるもんじゃない。せっかくのクライマックスで邪魔されたらたまったもんじゃないだろ。

 けれど、部屋は正真正銘、ハルとクローバーだけだった。

「それに、本は日の光や湿気、埃にも弱いんだ。一番長持ちさせるには冷凍しちゃうことだよ。」

クローバーがまだ喋っていたから、ハルは慌てて顔を元に戻した。何でこいつはオレに話しかけてくるんだと思う。



 鱗達は筋肉の動きに合わせて光を反射し泡立たせ、波打つようだった。

 知らず息を詰めていたことに気が付いて、ハルは意識して息を吐き出した。柔らかな布でその鱗を磨く。首を拭う為に、彼の体に跨っているから、その筋肉の動きを全身で感じ取ることが出来た。硬質な鱗の下から伝わる仄かな温みは生きていることを伝える。ハルは下唇を噛んで、俯いた。ただ手を動かす。

「立派なものだね。」

 ハルは勢いよく顔を上げて振り返った。白いシャツに灰のスラックスと上着。ぽっちゃりとしたお腹をたたえた一人の男が立っていた。白いシャツにアマ色の髪の毛は酷く似合っていた。

「君が我が街の竜騎士君か。就任の手続き以来だね。といって僕は君の活躍を追ってはいたんだが。」

小さな目が黒々と光る。ハルは誰か思い出せないで、前髪の影からじっと窺う。

 それは市長だった。


 市長はコテンと首を傾げた。

「それにしても竜騎士というのはみんな背が低いものなのかな。やっぱりジョッキーは背が低い人だとなれないというし、竜に乗るのもそうなんだろう。」

 何だ、コイツ。初対面の人の見た目に対してとやかく言っちゃいけないって今までの人生で学ばなかったのか。可哀想な人生だな。


「それにしても、君の髪の毛は凄いね。昔だったら赤毛はみっともないということでみんな染めたものだよ。それにその長さも。今時の若い子は短くしないんだね。君は髪を染めたり、短くしたり考えたことはないのかい。」

 ない。あの、だから何。


「それにしても、君の竜は何だか思っていたものよりも小さいんだね。牙も小さい。子供なのかい。どうせだったら、もっと立派な竜だったらよかったのにね。」

 お前、いつ口閉じんの。




 夜中に誰かのすすり泣く声で目が覚めた。

 ハルは凭れていた図書館の西の外壁から背を離した。ぼんやり、右を見る。真っ直ぐに伸びるレンガの壁はところどころ崩れかけ、蔦が這っている。

 アリスの泣く夢を見たのだと思った。けれど、現実に戻ったと思われるのに、確かにすすり泣く声はある。かすかな音だが、図書館の中からのようだった。

 ハルは傍らに置いておいた、ボタンと端切れが油で浸してある小皿を近づけた。ポケットからマッチを取り出し、擦る。灯った火を端切れの先端に移した。

 ボタンランプを手に取って立ち上がる。ランプの灯りは足元の闇をぼんやりと薄くさせた。

 ザクロが鎌首をもたげた。その頭にポンと手を置いた。

「寝てていいぜ。」

声の元へ歩き出す。ゆらゆらと小皿の灯が揺れて、薄くなった紺色に影は滲む。



 夜は虫や鳥の息遣い、葉擦れの音で決して静寂の中というわけではないのに、足音がやけに大きく響くようだった。それでいて、足音は廊下の蹲る闇の中に吸い込まれていくようでもあった。

 順に図書館の部屋を見ていく。歴史の書物が収められた部屋、辞典の並ぶ棚、整然と並ぶ書見台を照らす。紙と木と埃の匂いがわだかまっている。

 一番大きいホール、物語が収められた大会堂の書見台にそれはいた。書見台には大きな本が開かれて置かれ、その前に大体何となく白くて半透明な少女が座っていた。机に身を投げ出し、すすり泣いている。仄かに光る彼女の姿と影のように夜の空気に姿を滲ませている自分に、果たしてどちらが亡霊なのだろうとハルは思った。ふわふわの癖っ毛は悲しそうな様子に不釣り合いで彼女がしゃくりあげる度にひょこひょこと動いた。

 アリスも癖っ毛だ。ふわふわの髪の毛はあんまりなボリュームでバレッタで留めるのだって一苦労だった。だから大抵アリスはリボンで髪をまとめていた。

 少女がふいに上体を起こす。ハルはギクリ、と体を強張らせた。だって幽霊と遭遇した対処法なんて習ってないし。人類の叡智たる教科書様にも書いてなかった。こんなことって起こると想定しているもんか。

 少女がくるりと振り返る。振り返るな、と思った。髪のボリュームに隠れがちなリボンの端が揺れた。

 そうだろ。なぁ、もし、君が。


「お゛ぞい゛わ゛っ!」

 そう言われましても。

 少女の声はハルの全然知らないものだった。顔だって知らない。有体に言って、全くの他人だった。何の縁もゆかりもない幽霊だ。

 けれど少女は憮然とした表情でハルを睨み付けていた。頬に残った涙の軌跡が月明りに照らされてサッとほんの一瞬、輝いた。

「私の事、気付いてたくせに。袖を引いたの気付いたでしょ。私、あんなにあなたに近づいた。察しが悪すぎる。」

少女は腕を組んだ。

「幽霊なんだから、まっ昼間からそういうことするのも一苦労なのよ。」

ドッカリと少女が机の上に座る。

 謝るのも筋違いだろ。といって不躾にジロジロ見る訳にもいかなくて、ハルは視線をうろつかせた。

 ひんやりとしたけれど確かな感触がハルの手を握った。ハルは瞼を上げて、まじまじと己の手を見下ろした。少女は一向に気にすることもなくハルの手を引いて歩き出した。

 ドレスは確かに地面を擦ったのに、衣擦れの音はしなかった。




 「知識は彼らの生活を向上させる。それなのに彼らは彼ら自身の権利を放棄する。」

市長がにっこりと微笑んだ。

 その日のハルの立ち位置は図書館の正門の見張りだった。相も変わらず竜に怯える様子もなく、市長はやってきた。暇なのか。本当に疑問に思っているわけじゃない。皮肉だ。

「紅茶を飲もう。」

 市長は魔法瓶を自身の顔近くまで掲げて見せた。

 ハルはハンカチーフを広げて、市長の座りそうな位置へ敷いた。市長がその上にどっかりと何の躊躇いもなく座る。市長が魔法瓶のフタを捻った。ぽっかりと口を開いた魔法瓶は歯のないワームのようだった。もわもわと湯気が立つ。市長は目でハルのアルミのコップを差し出すように示した。ハルはそれが自分の勘違いでも大丈夫なよう、飲み物をちょっと口に運ぼうと思ったと言っても通用する程度にコップを差し出した。注がれた紅茶は酷く茶色だった。

「つまり、さ。彼らの生活が貧しいのは彼らのせいなんだよ。修学を怠った彼らの責任だ。それなのに、彼らは貧しい生活を政治のせいにする。民衆は自分の頑張りが足りないことを棚にあげる。」

 学が足りないと思わないかね、と市長はハルに顔を向けた。顔を向けられて初めて、ハルは市長の顔をその日、今の今まで見ていなかったことに気付く。垂れた贅肉で眼は黒目勝ちに見えた。

ハルは手の中の紅茶を飲む気になれなくて、どうするかなと思った。早く捨てに行きたい。

 とん、と背中に何かが当たったような気がした。そこから、柔らかに熱が広がる。




 「ハル。凄いね。市長に気に入られてるんだって。どんな魔法を使ったのさ。」

クローバーがハルの顔を覗き込む。

「市長ってどんな人?何をしたら喜ぶ?」

言葉を咀嚼している間に次の言葉を詰め込まれる。

「ねえ、友達なのに教えてくれないの?」




 ここの本は挿絵がないの。

 どう思うと言わんばかりに少女は首を傾げた。ハルは口を引き結んだ。こういう正解のないやりとりは嫌いだった。何の意味がある。みんなおしゃべりしなきゃ世界はもっと早く回るぜ。わかってる。早く世界が回ったって回らなくたって、そんなことはどうでもいいことだ。結局のところ、やるべきことをするだけだ。

 部屋を通り過ぎて中庭へ出る。大きな菩提樹は光を遮り、広げられた枝葉は大きなワタリ烏の羽根のようだった。

 中庭を突っ切って、廊下へ出る。階段を上がる。

「あなた喋んないのね。」

ハルは頷いた。その方が楽だ。口を開ける度に減る。

 階段を上がった先は小さなホールになっていた。床はモザイク細工で窓にはガラスがハマッておらず、月の光が直接入りこんできた。落ち葉が所々吹き込んで散らばっていた。

「じゃああなた、踊れる?」

ハルはもう一度頷いた。妹の練習に何度も付き合った。



 生きることをずっと誰かに許して欲しいと思って生きている。そんなだから駄目なんだ。だって、オレの生きることに意味はないんだから、許しなんか与えられるわけがない。だから自分で見つけなくちゃいけない。でも、そんなの最初からないんだから見つかる訳がない。

 クローバーから渡された通算10枚目のクッキーをハルは断るのに成功した。今のところ成功率は五分五分だった。

「遠慮なんかしなくていいんだよ。」

 ハルはその言葉の意味がわからなくて俯いた。服の裾のほつれた糸をしごく。しごけばしごくほど糸は広がって、繊維状に近づいた。クローバーの目を見ていない自分に気が付いて、けれど、目を合わせるにはあまりに疲れすぎていたから合わせない自分に良しを出す。

「それとも、甘いの嫌いなの?オレが今までクッキーとかさ、渡したのが迷惑だったらはっきり言ってくれた方が助かるからさ。」

 そんな訳ない。

 結局のところ、ハルは母親を一度も笑わせたことがなかった。でも、旅回りの一座の猿は母親を笑わせてしまったのだ。

 渡されたクッキーは美味しかった、とハルは告げた。でも、今日はお腹いっぱいだからさ。

「そう?そんならいいんだけど。オレ達、友達だろ。遠慮とかそういうのはなしにしようぜ。もっと君のことが知りたい。」

ハルはそれに吃驚して思わず顔を上げた。他人のことなんか知ってどうするんだ?

「オレも。」

 ハルはどうにかこうにかそれだけようやく絞り出して頷いた。ところで、これはいつ終わるんだ?




 夜気がハルを包んだというのに、深く息をつけないでいる。自分の呼吸が浅いことに気付かないでいられるほど、それとも気付かないフリをしていられるほど子供じゃなかった。ただ、己の中に深く息を吸い込む権利が見つからないでいる。そうだろ。お前は己に深く息を吸い込むべき理由を見つけられるか。見つけられるなら大した奴だよ。

 ザクロと共にぽてぽてと図書館の周りを歩く。本を日差しから守るためだろうか、図書館には木がよく植わっていた。夜色に包まれてようやく葉は本物らしさを見せている。

 何度も胸を刺すように先ほどのクローバーとの会話が繰り返される。それだけじゃない。今まで自分が行った沢山の会話が繰り返される。自分の言動がだぞ。恥ずかしいに決まっている。ハルは口をむにむにと動かした。それから、クローバーが明日、非番で図書館に来なきゃいいと思った。そうすれば会話をせずに済む。

 正体がバレて、指を差される未来にしゃがみ込む。バレたくないと額を膝がしらに擦りつける。或いはどうして、こんな自分につきまとうのかという憤りかもしれなかった。いや、マジで今のところ一度も正解を叩きだしていないんだが。

 竜舎に帰りたいと思った。鎖帷子を脱いで、ゴワついたシャツも脱いで、紐で括りつけて置かないとしょっちゅうズリさがるズボンも捨てたい。そうしてザクロの鼓動を聞きながら、藁に包まれたらどんなにいいだろう。スペンサーのスベスベとした毛に鼻を突っ込んで眠れればいいのに。

 今日も図書館の警備だ。大抵、そんなものだ、そうだろ。




 市長は首を傾げた。市民彼らを抑えるのが君の役目だろう。彼らの不満を解消し、彼らの怒りを収めるのが優れた竜騎士というものだと聞いていた。

 市長は脚を組んだ。それは彼の短い脚と張り出した腹と相まって、滑稽だった。

「だけど、正直に言って君はそういう君の仕事をしているとは言えないんじゃないかな。」

 ハルははい、と返事をした。




「上流階級のイヌが。」

媚びを売るのだけは上手だな、とせせら笑われた。それから、お前みたいな奴、死んじまえと吐き捨てられる。生ごみが横からぶつけられる。

 臭気に吐き気がこみ上げて、喉元を抑える。堪えようとして、そのまま口元へ手を持っていく。胃が体の中でひっくり返る。不随意に背が跳ねる。堪え性のない口は結局開いて、けれど零れたのはネトネトした胃液きりだった。

 石が頭に当たった。すごく痛かった。



 それは夜になってもジンジンと傷んだ。

 ハルは藁を口に含んだ。胃がキュウキュウと鳴っている。レーションはそろそろ尽きそうだった。けれど、店に行く気も兵舎に向かう気もどこにもなかった。体が重い。脚が動かない。重力に逆らって立つのは難しい。

 冷静になって考えてみて欲しい。どう考えても、人間の構造はおかしい。こんな縦に長いんだぞ。そのくせ二本足だ。支点が二つってどういうことだよ。その上、重い頭が先端にある。重心は低い方が安定するだろうが。

 それで藁をもむもむと噛む。



 少女が手を引く。冷たい手はハルの温度を奪う。熱量保存の法則だ。熱エネルギーは熱のない場へ移り、温度を均等にしようとする。

 少女が立ち止まったのは、薄汚れて黒っぽくなったレンガの建物の前でだった。曇りガラスまで埃で灰色だった。大きな戸は個人の家でないことを示したが、かといってこれが何の建物なのかハルにはわからなかった。

 少女に促されるまま扉を押して建物の中に入る。通路の真ん中に人が一人入れるような囲いがあった。右手には無人のカウンターがあった埃のつもった紙の山がある。部屋は吹き抜けになっている。そして、部屋の奥には大きな観音開きの扉があった。少女は真っ直ぐに歩いた。ハルがその後に続けば、埃がカーペットから舞い上がった。驚いた虫だか小動物が部屋の隅からカサコソと音を立てた。

 観音開きの戸の先は上映室だった。正面には中規模のスクリーンが張ってあって、シートがズラリと20列ほど並んでいる。

 上映はもう始まっていた。

 足元は暗くて目元を凝らさないとよく見えない。少女はすり抜けられるからいいが、ハルはあちこちに体をぶつけた。ようやく、座面に体を収める。座った瞬間に埃がまた舞い上がった。鼻を摘まんでくしゃみをやり過ごす。ハルは前を向いた。

 流れる映画は白黒でその上、無音だった。何だかドンチャン騒ぎが起こっているらしかったが、よくわからなくて一つも面白くなかった。他人が何かしている映像を見せられたって、はぁ、とか、そうなんですか、とかそういう感想しか湧かないぜ。試してみるといい。試してみろよ。ただ埃の匂いだけがあった。

 シートのクッションは申し訳程度でケツが痛い。




 スペンサーが立ち上がった。ハルは菩提樹に身を預けたまま、視線だけをスペンサーに向けた。

 レーションは食べ終えていて、クローバーは珍しく来なかった。だから休憩時間をまるまる使うことが出来た。妹からの手紙を読んでいた。結婚することになったから、仕送りの額を減らして構わないとあった。

 スペンサーはぐるぐるとその場を落ち着かなさげに回った。ハルは上体を起こした。ザクロが立ち上がって、南東に顔を向けた。ハルもそちらに鼻を向けた。

 煙の臭いだ。

 ハルは菩提樹からザクロの背へ飛び移った。その手綱を引き寄せる。

 ワン、とスペンサーが鳴いてハルは数瞬、逡巡した。ついてくれば確実に寿命をすり減らすことになるだろう。

「待ってろ。」

 命令して、ハルは口を引き結んだ。もし、火を止められなければ、待ち続けるだろうスペンサーの元に駆けよるのが遅れれば、その忠誠心に彼はきっと死ぬだろう。

 ハルはかぶりを振った。手綱を握り、ザクロを南東へ向けさせる。脚でザクロの胴を締める。

 ザクロの筋肉が動いて、収縮した。勢いよく土を蹴る。大きく踏み出し、それから跳躍した。


 司書の一人、細長い印象の男が、火だ、火だと狂ったように走り回っている。その先で火も走り回っていた。

「布だ。布を持ってこい。」

 ハルはザクロから降りて、辺りに視線を走らせた。カーテンがはためくのが目に入った。次は水を入れるたらいだ。

「バケツ持ってきました。」

女の声に振り返る。女の腕にぶら下げられたバケツから水滴が跳ねるのを確認する。

 ザクロの首に手を当てた。

「行け。図書館の周りをだく脚で走って、牽制してくれ。」

 この混乱に乗じて新たな騒ぎを起こさせるわけにはいかなかった。恐らく、ハルが休憩しており姿が見えないからの犯行だろう。市民はまだ、ドラゴネットに怯えている。

 ハルは口を開きかけている自分に気が付いて、口を閉じた。そうだ、彼らがザクロを襲う可能性はあるが、だからといってハルはザクロにその時には逃げてもいいよと告げることは許されない。そうだぜ、どの口が言うんだ。今更だ。今更だった。竜騎士はそういうものだ。竜がそのための生物じゃないことを知って、それでもそうするように仕向ける。

「行け。」

 その背中を叩いて、見送る。それから、カーテンを外そうと窓に近寄った。


 熱に体がしきりに向きを変えようとする。心臓は意味もなく大きく早く鼓動を打って、肋が痛んだ。

 ベルトを引き抜いて、拳に巻き付ける。窓ガラスをたたき割る。三度目でようやく割れた。折り畳みナイフを開いて、カーテンに裂けめを作る。引き裂く。

 ハルの思惑に気が付いた女がバケツを持って近寄っていた。ハルも駆け寄ると、バケツにカーテンだった布を浸した。汗がバケツにポタンと落ちた。女にもカーテンを一枚渡す。

 炎に向かって走る。火は気の狂った薄布のようだった。舞い散る火の粉ごと、揺らめく炎にバタバタと濡らした布を何度も叩きつける。それはあんまり小さな抵抗に思えた。それでも、他にすることなんかない。

 男が水を汲み直してくれていた。バケツの水に布を浸し、強烈にストライキを起こそうとする足に逆らって炎に向かう。

 全身の毛が逆立ち、毛穴という毛穴から汗が噴き出した。鼻や口を灰という粉が塞いでいく。黒い灰は目にも入った。痛くて涙が出た。開けられなくなって、薄目で炎の元へ走る。

 体全体で炎に水でぐっしょりと重くなった布を叩きつけた。四方八方あらゆる角度で攻撃されているみたいだった。滅茶苦茶に炎を叩き続ける。

 往復する度、新鮮な酸素も得られないことも相まって、乳酸がたまり、腕も足も重くなった。背骨が軋んだ。頭の中はガンガンと傷んだ。呼吸しようと何度も喘ぐ。

 といって、他にすることもない。


 「一体、この不始末をどうするつもりなんだい。」

市長はハルへ歩を進めた。赤い絨毯のおかげで足音はない。

「君は竜騎士だろう。こんなことも防げないようで、街の一大事を防げるとは思えない。

 僕は竜騎士たる人物だと保証されて君を国より借り受けた。まぁこういう事を言うのはアレかもしれないが、あえて言おう。君達は結構お金がかかるんだよ。それなのに、君は役割を果たさない。ねぇ。」

君がここにいる意味は、だとよ。そんなの知らねぇよ。こっちが聞きたいくらいだった。なぁオレの生きる意味って何だよ。

 だなんて、そうやって責任転嫁している。ハルはただ、申し訳ありませんと頭を下げた。

 もしも、もう一人自分がいたら己の首を絞めるのに。そうやって、許して下さいって生きていることの許しを乞うのか。自分が憎々し気にハルの瞳を覗き込んだ。死んでもお前の首なんか絞めてやるものか。お前が楽をする道を選んだりしない。




 少女に連れられ、街を彷徨い歩く。シャッター街に押しつぶされそうな時計屋で、職人が機械仕掛けの玩具を直すのをショーウィンドウ越しに眺めた。父親は幼い少女を連れ、パブで夕食を取らせていた。ホストは裏口で液体だけを吐き出して、それから笑顔を作って店へ戻った。




 妹からの手紙は無くなっていた。おそらく燃えてしまったに違いなかった。それはまるで、最初から存在していなかったみたいにどこにもない。ハルが一度見たきりの記憶しかその存在を示すものはなかった。




 ザクロの隣を歩く。スペンサーがてってことついてくる。そうやって図書館の周りをパトロールしていると沢山声を掛けられた。それ以外のものも投げられた。

 男が問う。

「なぁ、その金でオレ達の家族がどれだけ暮らせると思う。」




 少女がハルの手を引く。空には星が瞬いている。あんまり離れすぎているから、星の周波は聞こえなくて、ただ自分の呼吸音だけを聞いている。けれど、星があんまり輝くから煩いくらいだった。




 己の咳き込む勢いでハルは目を覚ました。ガハガハと肺の中の黒煙を吐き出すことを試みる。何にも出なかった。喘鳴する。膝を立て、頭を預ける。俯いて地面に目を向ける。その実、ハルは何にも見えていなかった。

 頭にあるのは妹、つまりアリスのことで先ほどの夢のことだった。

 アリスはサンドイッチの名手だった。他の料理はそれほどでもなかったのに、サンドイッチだけは妙に旨かった。ぼそぼそとした苦味のある黒パンだろうと、まとまりのないパサつくライ麦パンだろうと、美味しく作った。

 夢の中で振り返った彼女の手にはまな板とその上に乗っかったサンドイッチがあった。日の光を背に、ハルが昔贈った赤と白のギンガムのドレスを翻していた。

「兄さん。」

夢の中で彼女は語り掛けた。




 「彼らは害悪だ。仲間であるところの他の市民の生活も脅かしている。それなのに、市民は僕が間違っていると言う。僕が彼らの生活を守っているのに。」

 市長がハルの手を掴んだ。

「彼らを征伐しなさい。これは命令だ。僕らはこの街を守らなければいけない。」

市長がにっこりと笑う。


 クローバーがハルの肩をぐっと掴む。

「なぁ、オレ達、友達だろ?教えてくれよ。」



 轟く音でハルは目を覚ました。腹の底がズシンズシンと揺さぶられる。

 ザクロが鼻面をハルに押し当てた。スペンサーが頭を押し付ける。それぞれの頭をかいてやりながら立ち上がる。

 音のする方角へ行けば、図書館の正面口に市民が武装し迫っていた。図書館の職員はハルとザクロの背後へ下がる。

 集まった人はあまりに多く、それぞれが蠢き、虫の群れのようだった。全てが黒ずんで見えた。

 ハルはこれ以上間合いを詰められるのを防ぐために、一歩分彼らに近づいた。スペンサーがハルの傍らに寄りそう。少し遅れてザクロもハルに近づいた。

「殺せ。」

 市長の声が落ちた。それはレンガ造りの道路に当たって砕けて破片を散らした。硬質なそれの破片は大きくて、鋭い。

 ハルは声のしたのはどちらだろうと顔を見上げた。図書館は木々の枝の合間から見えるきりだ。その周囲やあちこちに電線が走り回っている。街灯の頭もぽつぽつとある。それらとは別に円柱が立っていて、その先端にあるのは愛のチャイムを鳴らすスピーカーだ。

 スピーカーが震えた。けれど今は朝が始まったばかりだった。夕暮れなどでは断じてない。

「そいつらは市民ではない。テロリストだ。殺せ。」

 市民の群れがぶわっと体を大きくしたような気がした。虫の羽音のように低い市民一人ひとりの言葉は声を揃えているわけでないのに、一つになって大きくうねってのたうち回る。

「殺せ。」

 スピーカーが言葉をまた落とした。

 パン、と市民の声が弾けた。声々が爆発する。彼らが足を踏み出す。

 ハルは膝が震えていることに気が付いた。心臓がハーレーダビッドソンも吃驚のテンポで打ち出す。人が一生に鼓動する回数は決まっているという話もあるが、そうであるならばハルはたぶん一週間後に死ぬ。ずっと吐き気が止まらない。喉の筋肉をありったけ使って吐き気を堪える。

 立ち続けること。進み方はわからないから、せめて後退はしない。

 涙がせせり上がる。膝の震えは伝播して、今はもう体中が震えている。倒れ込まないように、足の裏で地面を掴むことを意識する。二本の足でしっかりと立て。拳を握って堪える。前を向く。

 市民の群れの中には、少女と街を徘徊していた時に見かけた顔もあった。

 自分じゃ役不足なのはわかってる。きっとハルが辞めて他の人がやれば上手くいく?失敗ばかりで、何も為せない。

「どけよ。邪魔だ。お前みたいな貴族がいるから、オレ達は苦しい。」

 耳慣れた声にハルはそっと視線を向けた。市民の中に、クローバーはいた。

「殺せ。竜騎士を殺そう。殺せ。」

 クローバーが声を上げた。市民の声がそれに応えていく。

 ザクロが身震いした。スペンサーがずっと唸っている。

「殺せ。」

スピーカーが震える。それとも市民の声かもしれなかった。




 明日、世界が終わるのをずっと待っている。

 階段にばあやと腰掛けているアリスの姿を認めて、ハルは買ってもらったばかりの服を背中に隠した。

 アリスとばあやはドレスの取れかけたレースを繕っていた。日は暮れかけていて、斜めに橙色の光が部屋に差し込んでいた。青みがかった部屋の影はもうすぐで自分達の時間だと色と存在感を強めていた。

 ハルは見られないようにカニ歩きで二人の前を通る。汗がたらたらと背中をつたった。服を握る手は力を込めて痛いくらいで、けれど時々蛇口をどちらに捻ればいいかわからなくなるように力の弱め方がわからなくなった。

 アリスが走り寄ってあっさりと見つかる。心臓が肋に何度も身を打ち付ける。

「わぁ、素敵な服ね、兄さん。それってこの前、ばあやに読んでもらった王子様の服みたいに見えるわよきっと。とっても素敵なお話だったの。ヒロインがすごく苦労するんだけどね、美人でその上とびきり性格がいいの!ちゃんと性格まで書いてあるお話って好きよ。ね、だってその方がきっと結婚した後も上手くいくって思えるじゃない。ちゃんとハッピーエンドが続くってわかるでしょ。わたし、そういう話が好きなの。だって、物語のその先って書かれてないからわからないじゃない。このあともちゃんと幸せに暮らせたのかなって不安になるの。だから、ちゃんとこの後も幸せに暮らせたんだろうなーって少しでも思えた方がいいじゃない。そうだ、わたし、兄さんに花冠作ってあげる。大丈夫よ、心配しないで、先週、ギャリーに上手に作るコツを習ったんだから。それでもギャリーみたいに上手くは作れないんだけど、メリーよりは上手く作れると思うわ。あ、駄目ね、人と比較したらいけないんだった。だってそれって意地が悪いことよね。花冠があったら、きっとアクセサリーは無くてもきっと見栄えがするわ。わたしとびきりの花冠作るわ。大きくて見栄えがするお花を探すわ。ふふ、目に浮かぶわ。きっとあの物語の挿絵みたいに素敵になるわ。挿絵もね、本当に綺麗でね。ね、兄さんは世界で一番……。」

 竜騎士は母親の望みだった。正妻でもなくて、強力な後ろ盾があるわけでもなくて、若かりし頃にはあった愛嬌も失った母が社交界で名誉を得るにはそれしか方法がなかった、と母は思っていた。ハルの次に生まれて来た娘の顔を見て母はその確信を強めた。アリスの顔立ちは母似だった。

 あなたが、竜騎士になればいいのよと母は言った。或いは、というよりもきっと、意識的にか無意識的にか、母自身への言い聞かせだったんだろう。そうやって、行為を正当化することを望んだ。母はハルの教育へ金を注ぎ込み、アリスは質実な学舎へ通った。

 希望を抱くことが良いこととは到底思えない。希望は人を狂わせる。





「暴徒を殺せ。」

 スピーカーは震え続け、言葉は何度もレンガ造りの道路に落ちて当たって砕けた。破片がゴロゴロしている。ハルはそれを成す術もなく見つめた。

「むざむざと国に殺されてたまるかよ。」

「政治はオレ達に死を求める。ほら、これが真の姿だよ。」

「壊せ。」

 市民の声が一つの大きな唸りとなる。ブゥンと低い音を立てるそれはハルの体にどっと押し寄せる。呼吸をする度に入りこむから、小さくでしか息をつけない。

 苛立ちがハルに降り注ぐ。苦しいという訴えがハルの体を貫く。でも、そんなこと求められても困る。オレにどうにか出来ると思ってんの。なぁ、そんなにオレに求めないでくれよ。出来ないんだ。確かに、オレの今の立場、役割はそれをしなくちゃいけないんだろう。でも、出来ないよ。出来ない。出来ないんだ。

 立ち続けること。ハルはそれ以外に出来なかった。一体いつ終わるんだと思う。早く。早く誰か、俺を殺して、殺してくれよ。殺してくれ。殺してくれ。早く、誰か俺を殺してくれ。俺は自分で死ぬ勇気が持てない。




 「殺せ。何故、命令を聞かない。」

市長が喚いた。市民も一向に動かないハルに出鼻をくじかれていた。だってドラゴン、チョー怖いし。

 ハルは目を瞑って、胃をひっくり返した。

 だって、こんな大勢の前でスピーチだなんて聞いていない。ハルは演説家ではない。竜騎士だ。そう、竜騎士だ。ハルは竜騎士だ。もう嫌になっちゃったけど。

「殺せません。自分は竜騎士です。街を守る命を受けてここに赴任しました。」

 街の文化を守ること。市民を守ること。市の政治体形を守ること。ハルの仕事は人を殺すことじゃない。

「奴らは街の害悪だ。人じゃない。テロリストだ。病巣だ。」

 首を横に振りたいのに、体はコチコチで動かせなかった。立つこと。立ち続けることしか出来ない。

「お前のそれは、そんなのただの理想だ。殺すしかない。」

 そうだぜ。理想論だ。そんなのわかってる。でも何だ。何だよ。

「理想なんて、信じる以外にどうしろっていうんだよ。」

 頼むから、俺に多くを求めないでくれ。何にも出来ないんだ。出来ないんだよ。

 他に何が出来るって言うんだよ。

 頭が音で痛い。ただ、立つことだけしか出来ないんだ。だから、立つことだけでもする。立ち続けてみせろよ。





「皆、引き下がれ。」

 遠くから声がした。段々と馬の足音の群れが近づいてくる。騎士団だった。ラッセが拡声器を持って市民に呼び掛ける。こんなことをしても何にもならないとか、図書館の司書はオレ達の仲間だろとか。

 きっかけを求めていた市民の群れは次第しだいに散り散りになっていく。だってドラゴン、チョー怖いし。

 ハルはふらついて、足をよろけさせた。ハルの背中をザクロの鼻面が支えた。



 ラッセはふと振り返った。確かにそこにいたはずの少年がいない。といって、それどころではなく、また、そこまでしてやる義理はなかった。




 ハルは目を丸くさせて静かに少女の後についていく。少女は昼の薄黄色の光の中にいてもなお、真っ白で半透明だった。昼でも姿、現わせんじゃん。

 少女は図書館の正面門をくぐった。誰も彼女の姿は見えていないらしい。そしてハルの姿が誰にも見えていないのもいつものことだった。二人で人の群れを通り抜けていく。


 少女は図書館の中庭に出た。中庭は日差しと草と虫で一杯だった。マルハナバチがブンブンいい、ハエが野ばらにたかっている。カマキリは葉の裏で欠伸をした。アリはそっと仕事の愚痴を胸中で零した。

 少女がハルの手を取った。日差しの中に居るのに冷たくて、ハルの背筋を何かが走る。ハルは、それを、少女が寒そうで可哀想だと思ったからだということにすることにした。いや違う。ちゃんとそう思ってる。そうなんだ。

 少女に手を引かれ、ハルは中庭を進んだ。むっとする青臭さは暑さを想起させた。草がチクチクとズボンの服越しに刺さって痒い。


 少女が立ち止まる。鬱蒼とした茂みの前だ。ハルは此方を見ている少女に気が付いた。少女が何かを期待するようにハルを見ていることに気が付くのに数秒を要した。

「あなたって本当にコミュニケーション出来ないわね。」

 少女が草を掻き分ける仕草をした。けれど草は少女の腕をすり抜けた。ハルは草を掻き分けた。草の汁が袖に染みをつけた。

 掻き分けた先にあったのは石の台座だった。黒い御影石とかそういうかっこいい感じじゃないやつ。寂れた観光地の、日にあせた石像のような人工くさい薄い灰色の石の台座だった。真ん中にはさも伝説の剣ですよみたいな顔をして槍が一振り、刺さっている。そうだろ。所々崩れた石の台座に、蔦だか蔓だかが巻き付いた槍の柄があった。槍の柄は持つ所は緩くカーブし握りやすそうな形をしていた。それ以外の部分は長い龍が巻き付くようなシンプルな装飾が施されていた。

 ただ、いや、ちょっと。槍だからさ。柄が飛び出ている訳で、つまり飛び出ている部分が多すぎる。よく隠れてたな。

 ハルはそれを手に取った。確かに金属の感触と重さがある。引き抜く。案外スルリと抜けた。

 ずっと刺さっていた雰囲気なのに槍の穂はどこも錆びていなかった。反射し、こちらに光を投げる。ハルは思わず目を閉じた。

 再びハルが目を開けば、少女は何処にもいなかった。



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