第2話 務め
貧乏から抜け出せる人間は一握りに過ぎない。頭が良いか運動が得意か、何か一つ秀でているか、そうして努力が出来る奴だ。怖くて何にも頑張れなくて、好きなものや得意なもののない大多数の人間であるバーナードは、己が一生貧乏であることを知っていた。貧乏人は一生貧乏のままだ。
バーナードは腕を伸ばしてようやく目覚ましを止めた。唸る。それから起きたくなかったけれど、迫ってくる時間に致し方なしと体を起こした。昨日はしんどくて風呂に入ってない。シャワーを浴びなくてはならなかった。仕事仲間は自分と同じくらいのおじさんしかいないし、結局働けばすぐに汗と泥で汚れて通行人に遠巻きにされるから意味がないと言えばない行為ではあった。
「ザクロ。」
ハルは名前を呼んだ。その首を軽く叩く。ザクロはもうすっかり鞍に馴染んでいた。後ろを振り返って、自分に装着されたそれを嗅ぐことさえない。
ハルはあぶみを掴んで、体をそこまで引き上げた。足を掛け、腕を伸ばして、鞍を掴む。もう一度体を引き上げて、跨る。反対の足もあぶみに掛ける。ブーツの土踏まずにきちんと引っ掛かったことを確認する。手綱をしかと握りしめる。前を向く。自然と胸が張った。
今日は、ハルとザクロの初めての出勤日だ。
ザマーミロ!!!
「ウルルル、ギャァアオ。」
ザクロが思いきり上体を横に逸らした。その胴に跨るハルも大きく体を揺さぶられる。脚に力を込めて、その胴体を締める。手綱を引く。けれどザクロの動きは止まらない。ザクロはそのナイフを持った男からとうとうくるりと身を翻す。その拍子に尾が振り回されて、立ち並んだ商店の壁を壊し、品物や棚を薙ぎ倒した。ガガ、と音が鳴る。あんまり大きなそれは音と気付くのに時間が掛かるくらいだった。ザクロの爪が地面を掴もうと力を込めたせいで、レンガ敷の道路は割れて、壊れてしまっていた。
結局、その強盗犯はハルと組んでいた騎士が一人で捕まえたのだった。
ハルとザクロを追い抜きざま、騎士の一人は吐き捨てた。
「ただ飯ぐらいが。」
ドラゴンは思考に敏感な生き物だ。イルカが超音波を感じるように、或いは犬が臭いを嗅ぎつけるように思考を感じ取る。それは同族のドラゴンのものだけじゃない。ありとあらゆる生物の思考をある程度感じ取れると言われていた。
つまり、だ。ザクロが逃げ出したのは、それだけ強い敵意を持っていた人間が悪いのだ。
ハルは竜舎の壁に背を凭れて、ズルズルと座り込んだ。
チカチカと電球がまたたく。明るくなって暗くなるを繰り返されて、頭が痛くなる。それから、暗くなって、電球はウンともスンとも言わなくなった。だから、竜舎は暗くなった。それきりだ。
バーナードは道路工事夫だ。
つくづくおかしいと思う。キツくて誰もがやりたがらない仕事が一番安い時給で、エアコンの効いたすずしーい部屋で、言ってしまえばなくたってどうにもなるような仕事をしてる奴が一番金をもらってる。死んじまえ。
ユンボで出来あがったばかりのレンガの道を叩き整える。日は容赦なくこんがりとバーナードを焼いた。ビルに掲げられたスクリーンで政府の役人が何か言っている。
感謝なんかいらない。オレはただ休みが欲しい。人の役になんか立ちたくない。金が欲しい。自分のためだけに生きたい。けれど、人の役に立たなきゃ生きていけない。金は貰えない。役に立たなきゃ生きることは許されない。
通行人が汗臭いとバーナード達に顔を顰め、通り過ぎて行った。
役に立っても生きることはそう許されるわけでもない。
結局、現場近くに着いたらザクロから降りて、ハルが向かうことで落ち着いた。ドラゴンを足がわりに使うのもどうかと思ったが、さりとてこれ以上の策は考えつかなかった。
大捕り物を終えて、ザクロを繋いだ街角へ急ぐ。人だかりが出来ていた。女性の悲鳴、次いでどよめき。ウルルと地を揺るがすような唸り声が轟いた。ザクロだ。ハルは駆け出した。犬もその後を追いかける。
ザクロが上半身を大きく揺らし、ガチガチと空を噛んでいた。尻尾が周囲の建物と地面にぶつかって壊していく。市民が石を投げた。見れば、ザクロの体には生卵もこびり付いている。
ガンッとハルは奥歯と奥歯をぶつけた。
「ザクロッ。」
息を吸いこめ。落ち着け。こんな奴らに怒りを覚えるのも馬鹿々々しい。そうだろ。怒る価値だってない。
片手でその手綱を掴んでぐっと引き寄せる。もう片方の腕は広げた。
唸り声をあげ、頭を低くしていた犬にも目をやる。
「スペンサー、おいで。」
犬の名前を呼ぶ。怒ったってしょうがない。どんなに怒ったって泣いたって、喚いてみせたって人は変わらない。クソな奴らはクソなままだ。自分達が正義だと信じて疑わないから、何にも変わらない。クソが。死ね。
ザクロはハルの思考に気付いて読み取ったらしかった。その鼻面が胸元に擦り寄せられる。その頭を抱え、その首を擦る。
ガツン、と衝撃が頭に加わる。それは突然で、ハルは最初、衝撃と気付かなかった。痛みと首筋のドロリとつたう感触に何か投げつけられて、頭にぶち当たったのだと知る。胸の中のザクロの鼻面がまた動き出す。それを上半身全部使って抑え込む。
大丈夫、大丈夫だ。そうだ、こんな正義なんかに屈するもんか。どんなに間違っていようと、オレはお前らに与しない。どんなに勝ち目がなかろうと屈するもんか。死ぬ最後まで呪ってやる。睨み付けてやる。
今日も今日とて牛丼を食う。食いたいからとか栄養価があるから食ってる訳じゃない。手軽かつ費用対効果が最大だからだ。この値段でこの安さ。自分で作るとなるとこーはいかない。買い物行って吟味して作って片づける。クソめんどい。旨い保証もない。じゃあっていって、他のものを買って、金を払ってまずかったらどうする。死にたくなるだろうが。
別に余った時間でしたいことがあるわけじゃない。したいことなんかあるもんか。趣味は金がかかる。世の中のものは大抵金がかかる。貧乏人は楽しんじゃいけない。何にもするなってことだろ。ただオレ達はお前達のために働いてればいいってことだろ。
いいよ、別に。もう何にもしたくねぇ。ずっと寝ていたい。眠るのだって心地よい訳じゃない。硬い枕で目を覚ませば、いつも頭は鈍痛を覚えている。
市民を怖がらせたとか、街を壊したとか、暴動だとかそんなような罪で、ハルとザクロはペナルティを課せられた。採掘場から川まで石を運ぶように通告された。
採掘場は街の外にある。そこまで行く間にスペンサーはバテていた。じいさんのくせにはしゃぐからだ。
辺りを見渡す。採掘場の大きな穴の近くにヒョロリと申し訳程度の木が1本生えていた。その根元にはナップザックが積み重なっている。石切り工夫達の荷物だろう。スペンサーにそこに居るように言いつける。ハルは荷物袋から皿と水筒を取り出して、水を注いだ。スペンサーの鼻の近くに置いておく。
「やめろ。そんなに積み込むな。」
ハルは声を張り上げた。どいつもこいつもデカくて嫌になるな。日に焼けすぎて赤い顔の男も上からハルを睨んだ。
「これなら、馬の方が運べるじゃないか。」
ハルも目を細めて相手を見る。
近くに水場がないから、ふうふうと湯気を立てるザクロの背に、むやみに水をかけてやる訳にはいかなかった。
休憩中らしい労働者達が木陰でハルとザクロを指して笑っている。いい気味だ。税金泥棒の貴族様が。暑いからだろう、彼らは上半身を裸にしていて、そのせいで顔だけじゃなく体も赤かった。石は熱を溜め込み、日差しよりも熱い。日に火傷してポロポロと皮膚がむけている箇所も多くあった。酷使された眼は決して許さないとハルとザクロを眺めていた。
ハルは隣でザクロと共に石の詰まれた橇を引っ張った。片手でザクロの手綱を持つ。時折、手綱を肩にかけて、ザクロの首を叩いた。鱗に触れると熱くて、ジュと音がするから、擦ってやることはできなかった。
ザクロは何度もハルの顔を覗き込んだ。どうして自分がこんなことをしなくてはならないのかと問うようだった。
家畜は人間の庇護に入る代わりに労働することを選んだ。ドラゴンは何故、人間の元にきたのだろうか。兵器として一番に危険な場へ向かわされる。
ハルはザクロの首を叩いた。それからびくともしない橇に繋がる紐を引っ張った。紐は肩に食い込んでキリキリと痛んだ。そのくせ、ハルが引いているというのにウンともスンとも言いやしない。
帰り道でグローサリーに寄る。暑くて食欲はない。氷を買い物カゴに入れて、レジに向かう。人が避けていく。嫌われ者でも得をすることもあるわけだ。
ハルはレジ台にカゴを置いた。丸い顔の老婆が顔を上げた。老婆は口をモニョモニョと動かした。それから、すぐに俯いた。ピ、とバーコードを読み取る音が響いた。電灯が点いているはずなのに、白いせいで薄暗く感じた。
「頼むから、もうウチの店には来ないでくれ。アンタが来ていると知られたら、角のベーカーリーのトムのように私もハブられちまう。」
老婆が言った。それは小さい声だったが店内が静かだったから、しっかりと聞えた。ハルは氷を手に取って、店を出た。
店の前で、身を縮めていたザクロが首を伸ばした。その首筋に氷の詰まった袋を押し付けてやる。一瞬、ビクと体を動かし、それからザクロは顔をハルに近づけた。
それは、一瞬のことだった。あっという間に通り過ぎて行った。恐るべきスピードだった。あの体躯で、あのスピード。
バーナードはいつまでもドラゴンが行った先を見つめた。赤い姿はもう点だった。
ゴクリ、と自分が唾を飲み込んだ音で、バーナードは我に返った。手が震えて、ペットボトルを取り落としそうになる。
「おいおい。」
自分を落ち着けるために独り言をしてみる。けれど腹の底から震えは治まらない。なぁ、何だアレ。
一瞬で、よく見えなかった。けど、そうだ、けど、でも、でも、すごくカッコイイのはわかった。わかるんだって、わかったんだって。
そうだ、オレだって小さい時は何かに憧れた。硬くてデカイもんが好きだった。
街を守る騎士団の他に竜騎士という存在があるのは知っていた。最近、この街に派遣されたのも知っている。でもそれだけだった、否、世論は竜騎士という存在に懐疑的でオレもそれを気取っていた。
騎士も竜騎士もどちらも公務員だ。違うのは親玉が何処ということだ。騎士団を仕切るのは地方役場だ。採用、訓練、給料、待遇、全て地方に一任されている。だから、地元のヤンチャ共が就くことも多い。自警団のような意味合いが強い。
一方で、竜騎士の親分は国だ。ドラゴンというもの自体が希少種だからだ。数少ないドラゴンを御することを許される人間。だから、竜騎士になれるのは貴族だけで、専用のアカデミーに卒業し試験に受かる必要がある。問題なのはそれからだ。国は警備のために地方に竜騎士を派遣する。それで、地方は竜騎士の処遇やら何やら面倒をみることになるんだが、竜騎士は国に所属しているから、給料も待遇も国の明示するものに従わなくてはならない。
逼迫した地方財政に関わらず、そして、望むと望まないとに関わらず、地方は竜騎士のバカ高い給料と破格のドラゴンの飼育費用を払わなくてはいけない。バカらしいよな。戦争が起きる予定も起こす予定もない。騎士団だけで自治は足りてきた。けれどお上の命令でオレ達は懐を痛めて、金食い虫を必要もないのに養わなくてはならない。
それがこの街の総意だった。戦う兵器に金をかけてどうする。それよりもオレ達の生活をどうにかしてくれよ。反対運動も起きたけどすげなく、スルーされた。そして、彼はやってきた。
そうオレだって思ってた筈だったんだ。
貧富の差はいつまでたっても縮まるどころか広がるばかりだ。その中でハルは貴族の家に生まれてきた。確かに、貧乏の家に生まれたかったなんて思わない。
でも、お前らだってオレにはなりたくないだろ。そのはずだ。結局、幸せな人間なんかいない。誰も幸せになれない。
ハルは手の甲で汗をぬぐった。横目で空を見る。太陽はまだうんざりするほど真上には程遠かった。夕暮れなど、何ソレおいしいのくらいの勢いだ。ザクロが細く長く溜息をついた。その背中を擦る。いつの間にか、掌は焼けて、皮膚は厚くなっていた。
「ワームだ。」
石切り工夫の一人が声を張り上げた。誰もが動きを止めて一様に、その工夫の指す一点を見た。赤らんでいたはずの顔々は白い紙のようになりだす。
ワームは肉食のドラゴンだ。しかし、人間と仲良くしようという知性がなかった。あるいは余計に賢いと言えるのかもしれない。顔に目も鼻もない。ただ口だけがある。丸い口は大きく、円形状にギザギザとした歯が並んでいる。顔も首も胴体も寸胴だ。思考を読み取り、生物を知覚すれば、それがどんな生物でも食べる。
工夫達は何もかもを置いて、石切り場の四角い穴から出るために縄梯子を登った。ただ、そこで先にオレが登るのだという争いのようなものはなかった。誰もが口を閉ざしていた。土を踏みしめるザ、ザという音が石に反響するだけだった。彼らを守るものは何にもないんだから、ここで先を争ってもどっこいどっこいだ。
ワームは取り立てて足が速いドラゴンではない。荷馬車に乗って逃げられるか、食われるかは五分五分といったところだった。そうだ、逃げるだけなら、食われる可能性が半分残る。
ハルは視線を走らせた。石を切り出すためのつるはしと槌を手に取る。
勝機は小回りにあった。といってこの平原に隠れられる場所は多くない。先ほどまで工夫達のいた石切り場だけだ。その天辺でハルはワームを見据えた。吹く風は埃っぽかった。
ワームは白いぶよぶよとした体の肉を懸命に揺らし、真っ直ぐにハルへと向かっていた。
ハルの膝が、きっと傍目にもわかるくらいに震えていた。トイレに行っておこうかとチラと考えた。
ワームは二階建てか三階建ての家くらいの高さだった。しかし肉厚な体躯のせいで、それよりももっと大きく感じた。足が震えて動かない。手汗でつるはしは滑り落ちそうだった。
ワームが勢いよく顔をハルへと振り降ろした。ハルの体は間一髪動いて横に飛び退った。けど体はぎこちなくしか動かなくて、着地に失敗する。地面へ倒れ伏す。再びワームが顔を振り降ろした。ごろごろと転がってどうにか避ける。
だけど、いつまでもこうしてはいられなかった。転がって避けるのには限界があるし、何より恐怖に精神が保ちそうになかった。
振り降ろされた顔に、しかし立ち上がれず、やっぱり転がって避ける。仕方がなかった。ハルはそのまま、体勢を整えられず、力が入らないその姿勢でつるはしをワームにふるった。
「アアアアアギャアァァァアア」
耳、割れたわ絶対。大袈裟すぎだろコイツ。
ふるったハルでもわかるよろよろとした軌跡を描いたつるはしの一撃は絶対に浅い。ほら、ワームの首だか顎に突き刺さったが、すぐに抜けた。血が滴る。迸るってほどじゃない。タラ、としたくらい。
ワームに鱗はない。それに今までこのワームに向かうような奴はいなかったのだろう。いや、でも絶対そんな痛くないわ。たぶん、指を針で刺したくらいだぞ、あんなん。
ワームが怒って体と首を滅茶苦茶に強請る。地面が揺れて、立ち上がろうとしたハルは地面へと戻された。今のところ、地の利は全くいかせていない。
ワームの首が勢いよくこちらに振り回ってやってきた。咄嗟に転がるには遅すぎた。ハルは槌でその首を受けとめた。受け止められるわけないだろ、馬鹿か。ハルの体が勢いよく吹っ飛ばされる。石切り場の切り立った土の壁にぶち当たる。ワームの体が真っ直ぐこちらに伸びてくる。
「ンギャアアアアアァアアアッ。」
再びワームが鳴いた。ハルへと伸びていた動きから首を左右に振り回す動きへ転じる。
「ヴヴヴヴッ、ワン。」
ワームの後ろ足の元に口を赤くしたスペンサーを見た。ワームの後ろ足はちょうどスペンサーの口型分くらい肉がなかった。
ハルはつるはしを握り直した。同時に立ち上がる。地面を強く蹴る。飛び出す。二歩でワームの元に辿り着いた。三歩目で地面を上に向かって蹴る。四歩目はワームの胴体の上だ。五歩目でその首に辿り着く。腕を思いっきり後ろに引き、体全体に回転を掛ける。腰からスイングして、遠心力で己から逃げ出そうとするつるはしはまるでうなぎだ。それでも、離さず、己の前面へ。そして、ハルはそのつるはしをワームの体に突き立てた。
だって、そうだろ。ワームはきっとスペンサーを敵視しだした。ハルが何にもしなきゃ、老犬の彼が逃げられる見込みなんてどれくらいだ。
ワームが首を滅茶苦茶に振り回しだしたみたいだった。何処が上でどっちが左で右はいづこにあって、下がわからなくなる。三半規管が揺さぶられる。体の中身が全部、皮膚をぶち破って出てくる気がした。それでも、ハルはつるはしをそのぶよぶよとした肉体に食い込ませた。
ワームが一際大きく首を振った。ハルの手からつるはしの柄、それともうなぎだろうか、がすっぽ抜けた。ハルの体は美しい放物線を描いて空中へ投げだされた。
まるでペンキを塗りたくったような青空がハルの視界に広がって、通り過ぎていく。ずっと青空で退屈だな、とハルは思った。地面へ落ちたら痛いだろうな。骨が砕けるような痛みだろう。何せ骨が砕けるのだから。ウケる。ウケないわ。
正直な話、バーナードはドラゴネットに目がいっていて、その上に跨る小さな影など気付いていないに等しかった。あぁ、そういえば居たね、居た気がするわ。居たような。そんな感じ。
税金と物価は上がり続ける一方で、この前まで164円だった発泡酒は168円に値上がりしていた。給料は相も変わらず最低賃金を遵守している。
その日も酒場で酔っぱらいが暴れ出した。真ん中のテーブルは宙を描いてカウンターにぶつかった。それで、他の丸テーブルはそそくさと店の隅に寄せられた。男はシャツの前ボタンを二つ三つ止めた程度で、瓶を上下に振り、大声で喚いた。呂律が回っていないのかうるさいからか何を喋っているのかわからない。瓶がガシャンと割れた。男がダンダンと足を踏み鳴らした。それから、壁際にいた男の一人に掴みかかった。
バーナードは店から出ようと壁際でにじりにじりと歩を進めた。なるべく人の後ろを行くようにする。誰かが「おい喧嘩を止めろ。」と叫んでいる。酔っ払いの相手なんてよくやろうと思えるな。
バーナードがようやく店の入り口まで来たとき、赤いほうき星が通り過ぎた。バーナードの体は固まった。ドラゴネットだ。バーナードは目を見開いた。
ドラゴネットは店のすぐ近くで止まった。それでバーナードは存分に見られることになった。ドラゴネットの黒光りする赤い鱗から何かが滑り降りた。
まだ、ガキじゃないか。バーナードの頭はそれだけを彼に判断を下した。
怒号に我に返る。酔っ払いは暴れまわっているらしく、ガシャンと何かが砕ける音が立て続けに、或いは断続的に聞こえて来た。早く帰ろう。
少年はバーナードに見向きもしないでその横を駆け抜けていった。それを目で追ってしまったのは、彼が小さくて、まだガキだからだった。
少年は真っ直ぐ騒ぎの中心に、何の躊躇いも見せずに突っ込んでいった。振り回される割れた瓶を、僅かに体をズラしただけで避ける。男が少年に襲い掛かった。少年はぐっと姿勢を低くして、男の腕から逃れるとそのまま男の間合いに入った。少年が掌底を男の顎に突き当てた。男の体がグラリと傾いで、そのまま後ろ向きに倒れ込もうとした。少年は気絶した男のシャツの胸元を掴んだ。
はぁ、へぇ、ふぅん。大の大人が取り押さえるのに苦労した相手、自分よりもデカいそいつを拳一つで鎮めるなんて、カッコイイじゃねえか。
おかしいだろ。消費税は金持ち貧乏所得に関係なく課税される。金持ちはそれを公平だと言う。だから、物価は店ごとに違いはあれど、客ごとに違うなんてことはなかったはずだ。
バーナードは目の前の赤毛の少年が、ただ黙って店員の示した馬鹿みたいな値段を払うのを見ていた。
それは、店員に言いがかりをつけて面倒な人間だと思われたくなかったからかもしれないし、そんな値段でも払える少年の垣間見える給料の良さに苛立ちを覚えたかもしれない。
それなのに、バーナードはその晩、酒を飲まなかった。心臓の底が細い糸で縛られたような感覚だった。
予想していたような痛みや衝撃はハルにやってこなかった。ただ首がグエッとなって、視界がグルンと一周した。ハルは後ろを振り返った。
ザクロがハルの服の襟をくわえていた。
ザクロはハルを己の背中に乗せた。ザクロが前を見る。ハルもその視線を追った。
スペンサーはワームの足元でどうにかペシャンコを免れていた。しかし、既に息は上がっており、肩がここからでも分かるくらいに大きく上下していた。
ザクロがハルを見ていた。ハルは肩を少し動かした。ザクロの真っ黒な目がハルを射抜く。ハルは頷いた。他にしようがないからでもある。それとも、当然のことだからでもある。
ハルは手綱を握り、一度だけピンと引いて命令を下した。ザクロが首をぐっと低くして飛び出す。空気抵抗を減らすためハルもザクロの体に合わせ、姿勢を低くした。真っ直ぐに、ワームの元へ駆ける。
竜は通常、鱗に覆われている。その鱗は固く、何ものも通さない。
それでも人間が竜の手の力を借りられるのは、彼らに弱点があり、それを知っているからだ。
逆鱗。唯一、逆向きに生えた鱗がある。その鱗の下を突けば、彼らは死んでしまう。
風がピウピウと吹きつける音で何も聞えない。暑いはずなのに温度だって感じていなかった。ただ、全身に触れる、ザクロの筋肉の拍動を鱗と服を通して感じている。大地を蹴るリズムが心臓の打ち出すタイミングと重なっていく。髪の毛の先まで逆立つように興奮しているのに、手に握った槌の柄の木の感触をまざまざと実感しているくらいには頭の芯は冷えていた。
ワームは鱗が退化した竜だ。しかし、逆鱗がないだけで、その鱗の下の弱点はある。鱗がないから、どこにあるか目印はない。
でも何だ。教科書にはちゃーんと、逆鱗は大体これこれこういう場所にありますと書いてあった。
生きて戻ってこれたあかつきには、知識の集大成を崇め奉ろうではないか。
もう、すぐそこにワームがいた。ザクロの上に跨ってなお、見上げなければならなかった。
ワームがこちらを向く。こちらに顔を突き出そうと首を竦めた。
ハルは右側の手綱を引いた。足で胴体を締め、スピードを上げるよう指示する。
ワームが顔を突き出す。それを右側に避けた。手綱を引いてザクロを振り返らせる。すぐにワームがまた顔を突き出した。また手綱を引いて何処へ逃げるのか指示する。
大体の竜は首の上に逆鱗を持つ。だから、体が大きい竜が有利で強い、というのが定説だ。
そんでもって定説は覆すためにある。
スペンサーが逃げたのを確認して、ハルはワームを改めて見据えた。
ザクロはワームより小型だ。それに朝から石切り場から荷物を運んでいたせいで、すでに体温が上昇している。ワームの動きは予備動作が大きいゆえに避けていられているが、体力尽きて噛まれればそれで終わりだ。食いちぎられて殺される。
息を吸い込め。肺を満たせ、体中に酸素を運べ。右の手綱を先ほどより深く引いて一度、大きく下がらせる。
ワームが次の攻撃を出そうと首を竦めた。
脚に力を込め、胴を強く締めた。ザクロが弾丸のように飛び出す。
飛べ。
手綱を上に引いた。ザクロの体の筋肉が収縮し、次いで一気に伸びて跳ね上がる。振り落とされないようにザクロの体に沿い、ザクロの筋肉の動きに呼吸を合わせる。
そうして、ワームの伸ばされた首の上に到達する。
ハルは手綱を離した。あぶみを蹴って、ザクロの胴から宙へと身を躍らせる。空中で、槌を両手で握る。
ワームの体はぬるぬると滑った。それでもハルは確かにその首に跨った。ワームが怒って首を振り出す前に槌をその肉へ打ち込む。
「ンギャアアアアアアアッ。」
パンと耳の奥で何かが弾けた。何もかもが遠くなる。ただ、手に温かい血と肉を感じている。ぬるぬるしている。ヌチョヌチョしている。それなのに硬い。
風圧がハルを横ざまに殴った。それはとてつもなく大きな手でグーパンで体全体を殴られたようだった。肉に突き刺した槌と、跨る脚の力を頼りにしがみつく。それでも滑りそうになって、ハルは口を開けた。その肉に噛みついた。ムッとした臭いに胃の物が喉を通り越して咥内に達する。それでも、その口を外さなかったのは単に、外したら最後死ぬからだ。
逆鱗はここではなかったらしい。
ハルは鼻から息を吸って、その臭いにそうしたことを後悔した。後悔したが、やらなきゃいけない。ゲロごとその肉をより深く噛む。そうして槌を引き抜いた。
衝撃が張り手を食らわしてきて、ハルの体を吹き飛ばそうとする。
あまのじゃくだから、そうされると余計に力が湧いた。鼻水が止まらない。胃液もせり上がる。
だってそうだろ。駄目だったらやり直すしかない。他にどうしようもない。仕方がない。失敗したら、ミスしたら、それで死ななかったら、そしたら、次の行動は決まっている。やり直すしかない。何てクソったれな世の中の道理だ。
槌をもう一度突き刺す。
その日の現場が急遽変わった。つるはしを持って、現場へ行けば、工事夫仲間が一塊になっている。
通行人の邪魔をしたとしてクレームが入るぞ。バーナードは、声くらいは掛けようと近づいた。仲間の集中が一点に向いているのに気付く。何かを取り囲んでいるらしい。
近づく折に、工事すべき道路が目に入る。竜の爪痕だった。あの大きさにあの爪痕だ。そしてあれだけのスピードを出す。爪痕でレンガが抉れるのはしょうがないことに思えた。
仲間が取り囲んでいたのはあの赤毛の少年騎士だった。
「なぁ、お前、この道を直すのは誰だと思っているんだよ。」
「貴族様は下々の顔なんて見えないんだろうけど、オレ達はあんたらのこうした理不尽のケツ拭いばっかさせられてんだよ。」
いつもバーナードにいの一番に声を掛けるフランキーも、時々飴をくれるヤーマンじいさんも皆、顔を下げ、その少年を見下ろしていた。
腹の底がグラッと熱くなった。目の前が一瞬真っ赤になって何にも見えなくなった。
「おい、やめろよ。」
全員がバーナードを見る。けれど、バーナードが懸念していたように、バーナードの膝は笑いだすこともなくて、冷や汗が出ることもなかった。
「水道局に言われて、水道管取り換えのために道路を壊して直した時は、そんなこと水道局の奴らにゃいわねぇじゃねえか。」
それとこれとは別だと誰かが言った。
「何が別なんだよ。どっちもお上の仕事じゃねえか。どっちもオレ達の生活を支える仕事のための仕事じゃねえか。」
人垣の先の少年が目に入った。
少年は鼻の頭を赤くしていた。いや、そこだけじゃなく、頬も目も赤かった。口を引き結んで、少年は何かを堪えていた。光が少年の目に反射して、それでバーナードはそれが涙かもしれないと思った。怖い、まさか。じゃあ何でだよ。それとも、少年はこの街に来て、初めて庇ってもらったのかもしれなかった。
頭の底も胃の中も身体の内側のどこもかしこもシンとした。
「なぁ、大の大人がよ、寄ってたかって自分よりちいせぇガキに詰め寄って、何で誰もおかしいと思わねぇんだよ。
道路が爪で崩れちまうなら、またオレが直してやらぁ。もっと丈夫な道路に作り替えてやるよ。」
なぁ、だから泣かないでくれ。それくらいの正義なら、オレにだってある。
城壁の外に出れば、遅かれ早かれ、ワームに見つかって死ぬ。それでも、全てのエネルギー源たる石は切り出す必要があった。今から数百年前に石油を取れなくなって、それから人類は石から放たれるエネルギー波で全てを補っている。
罪人は幾らでもいた。罪人は簡単に生まれるからだ。腹が減ったとパンを盗み、やりきれないと酒を飲んで暴れる。
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