街の竜騎士
@2805730
第1話 仲間
タン、タカタン、タン。
支給されたブーツの踵が舗装された道路に音を立てる。
ハルは前へ出した自分の足を見た。新品のブーツのつま先がペッカリと鈍く輝く。甲には紐が交差し、踵には鋲が打ってあった。本物の、それも牛の革が使われてあるから年月が経てば経つほど柔らかく足に馴染み、風合いを増すだろう。ハルの鼻が自然と上を向いた。
鼻腔に青空の匂いが広がった。視界にはレンガで出来た街並みが洗い立ての光に照らされていた。街路樹が葉擦れの音を囁き合っている。風が自分を包んで追い抜いていったのを頬で感じ取る。
祖母は男が体裁を気にするようになったらどうしようもないとよく言ったけれど、どうしようもないぜ。だって。ハルはこれから街を守護するあの竜騎士になるのだ。竜騎士だ。竜騎士だぜ。大事なことだから繰り返す。竜騎士だぜ。
そうだ、ハルは今日付けでこのタタンの街の竜騎士になるのだった。
店のショーウィンドウに映りこんだ自分が目に入った。どうしたって言う事を聞いてくれない赤毛、そして。ハルは自分の掌を頭に押し当てた。もっと、背があれば良かったのだ。同期の皆よりも低いどころか、ほとんど女の子と同じくらいしかなかった。
でも、まぁいいさ。ハルは自然と突き出していた口を直す。竜騎士はドラゴンに跨っている。身長が低いことなど気にならないに違いなかった。それに、アリスはドラゴンに乗らなくたってカッコイイと言ってくれる。
タン、タンタン、タタン。ブーツの踵がレンガ道を鳴らす。水撒きされて出来た水たまりにブーツの鋲が反射した。
それは正確に言えばドラゴンではなくて、ドラゴネットと呼ばれる小型の竜だった。体躯は赤黒い鱗に覆われている。後足が大きく発達しているが、前足も走るのに使うから退化しているわけじゃない。小さな頭に、細く長い尻尾。それはあからさまに、走ることに特化した姿だ。戦闘に類まれな適応を見せる王都の竜騎士達のドラゴンとは大分かけ離れた姿だ。
ハルは言葉を失って、ただその竜を見上げた。
「ちょうどよかったですね。」
女性の声にクククと忍んだ笑い声が聞こえた。それでハルは我に返って、後ろを向いた。この街の警備の全責任者で、ハルの上司に当たる人物、老ゲートルード卿が豊かな口ひげの前に手を押し当てていた。その隣には、ハルを竜舎まで案内した女性が涼しい顔をして立っている。
「まぁ、こんなちっぽけな街に派遣されるなら、そうだよな。」
頭上から別の声がして、ハルはキッと首を回した。
色も温度もない視線がハルをぐるりと囲んでいた。兵士達が吹き抜けの二階からハルを見下ろしている。視線はハルを突き刺そうと力が込められてあった。ハルの肩が少し上がった。ハルは後ずさろうとしている自分に気が付いて、拳を体の横で作った。眦に力を込める。地面に立つ己の二本の足を強く意識する。そうしてぐるりを見返した。
自意識過剰と言われようが、ハルは自身を取り囲む、引き結ばれ上がる予定のなさそうな口角に眇められた目、眉間の皺の載った顔々に歓迎の証を見つけられそうになかった。いいぜ、探したい奴は勝手にしてくれ。
敵意を向けられるのは慣れていた。それを人は一重にハルのせいだという。なるほど、他の人はみんな、確かに友達なりなんなり上手に人間関係を構築している。出来ていないのはハルだけだ。だから、それはハルが悪いのだった。さようでございますね。でも何だよ。どんな人でもいいところがあります、人を軽率に判断してはいけませんエトセトラエトセトラ。だから何だよ。どんな理由があったって、それは人に敵意を向ける理由にはならない。理性ある人間ならば、嫌悪感くらい隠せよ。
かねがね、ハルは疑問を抱いていたのだ。そしてその懸念は正しいと証明された。つまり、だ。こんなマニュアル通りにしてみせたって、人間よりも数倍も数十倍も大きい竜が言う事を聞くのだろうか。教官は、教科書は長い竜騎士の歴史の知見の集大成だから、大丈夫だとのたまわった。クソくらえ。
一番クソなのは、このドラゴネットに尻尾をブンと振り回されて、ヒャアと情けない声を出した自分だった。殺したい。首を絞めてやりたい。下唇に歯を突き立てる。血が出ればいい。そうやって、カッコつけんのはよせ。みじめな奴がカッコつけても惨めさが増すだけだ。それでも、唇に歯を突き立てるのをやめられない。
「まぁ、この街はオレ達騎士だけで事足りてるからな。気にしなくていい。」
腕を組んで、ゲートルード卿はハルを見下ろした。窓を背に立っていたせいで、卿の顔は影に隠れ見る事が出来なかった。
竜舎は石ブロックを積み上げられて出来た古い建物で、円形状になっていた。真ん中にそのドラゴネットがいて、その近くにハルはいる訳だった。ハルから少し離れた場所にゲートルード卿と秘書が立っている。真ん中を見下ろすように二階に当たる壁に通路が張り出してあって、そこから騎士達が勢ぞろいしてハルを見下ろしている。
騎士達の後ろには窓が並んでいた。日が照ってきたのだろう。窓から光が差し込んで、誰の顔も上手く見えなくなった。影はくっきりと存在感を見せ、白い光は全てをぼやかした。それなのに、注がれる視線を感じている。スースーした。
いつまでも尻餅をついている訳にはいかなかった。ハルは立ち上がった。
グルルとドラゴネットが鳴いた。ドラゴネットの牙の隙間から生暖かい、そのせいで妙に現実感を意識させる臭いが吹き付けた。金属のように重い存在感がハルを押し潰す。息の吸い方が下手になって、浅くしか呼吸できなくなる。ドラゴネットの爪はハルの顔よりも大きい。その爪はドラゴネットがその気になればハルに届く位置にあった。今にも動き出しそうにドラゴネットの筋肉が脈動している。まるで血のような色の鱗がグラグラと鈍く光っている。
ドラゴネットが口を大きく開いた。ハルは後ずさろうとして、膝が動かない。失敗して尻餅をついた。
誰の顔も影と光がないまぜになって見えない。けれど、注がれる視線を感じている。数十人もの男達が尻餅をつくハルを見下ろしている。
ハルは口を引き結んだ。口の中は血の味がする。
真理だろ。知覚しない限り、存在は証明できない。振り返らなければ、そこに世界はないし、箱の中の猫は生きているし、陰口はバレなきゃ、陰口じゃない。浮気はやるならバレずにすべきで、悪口は当人に聞こえないように言ってくれ。
けれど、それはどちらかと言えば事実だった。正論は大抵人を傷つける。なのにどうして、嘘をついてはいけないんだろう。答えは簡単だ。他人は傷つけるべき存在なんだ。そういうことだろ。
元は白かったんだろうか。それとも石の壁は最初から薄ネズ色だったかもしれなかった。細い照明に壁の色も相まって廊下はさっぱり明るくなかった。兵舎は砦の外側に位置するから窓だってない。
廊下の影に、黄色い光がぽっかり四角く穴を開けていた。部屋の入口付近で人が動いたらしく、黄色い四角の中の人影が揺らめいた。ハルは黄色の四角に映りこんだ人影を数えた。全部で4人あった。
「ドラゴンに乗れない竜騎士なんて、一体何の役に立つんです。」
1Hit!
「そもそもドラゴンも竜騎士様とやらもあんなので、つまるところ結局、ただ名目を果たすための形式上の何たらってやつですか。」
そうだなとゲートルード卿の声がした。よく分かってるじゃないか。
2Hit、3Hit!わぁ、コンボだドン。
「なぁ、あの害獣とチビの飼育費用と給料で、オレ達の装備を整えてくれた方が効率いいですよね?どうにかならないんですか。」
急所に当たった!
別にハルは友達を作りにここにやってきたわけじゃない。じゃあ、何のために来たのかって言えば、ドラゴンに乗って、街を守るためにやってきたのだ。
ハルはそっと来た道を引き返した。どんなにそっと足を降ろしてもブーツの踵はカンタカタンと床に音を立てた。
ずらりと取り囲む窓々から月光が差し込み、その真ん中でドラゴネットは身を丸めて眠っていた。スポットライトにするには月の光は弱すぎて、色はどこにもなかった。全てが黒と白と灰色のグラデーションだった。
ハルが入口に立てば、ドラゴネットは耳をピンと立て、顔を上げた。オリの中でドラゴネットは憎々し気にハルを見つめた。ハルが上手くドラゴネットを扱えなかったから、オリから出すことが許されなかった。ドラゴネットはそれをわかっているらしかった。
ここから仲良くなれって、一体どうやって?仲良くならなきゃオリから出す事は能わない。オリから自由にしなくば、ドラゴネットは永遠にハルを恨んでいるだろう。
入口に背を凭れて、ハルはズブズブと沈み込んだ。地面に尻がついて、けれど、目を瞑ればそれより先へ沈み込んでいく心地がした。頭頂部でとぷん、という音がした。沈み込んでしまったから、上手く息が吸えない。深く息を吸いこむ権利はどこで買えるのだろう。
ドラゴネットの名前はザクロだった。
ドラゴネットに餌を与える。本当は、このあと、ドラゴンの鱗を磨かなくてはならない。教科書にはそう書いてある。けれど、掲載してあった知識の集大成というべきらしいドラゴンへの近づき方は全部役に立たなかったわけだ。
ハルは肘を後ろに突っぱねて、胸を伸ばした。ツキリと拍子に体が痛んだ。竜舎の石床に身を横たえていたせいで、体が強張り痺れていた。
鐘が鳴る。始業の鐘だった。
けれど、ハルは演演習場ではなく竜舎に居た。ばっと自分の体を見下ろす。何処もかしこも藁屑まみれだった。足を踏み出せば、まばらに散らばっていた藁に滑りそうになった。どうにかこうにかバランスを保って、走り出す。
グルルッル。ドラゴネットの鳴き声にハルは振り返った。きゅう、と胃が縮んだ。竜を見上げる。周囲の窓々から覗く青空はまるでカードのように見えた。その青空の光の中では、ドラゴネットの鱗は昨日ほど黒くは見えなかった。
まぁ、今行ってもいつ行っても遅刻だった。どうせ遅刻であるならば急ぐ必要は何処にもないだろう。遅刻という事実は、逃げはしない。どうせ誰も待ってはいないし。
結局、鱗は磨けず、盛大に遅刻をした。お前は何しに此処に来たんだと尋ねられた。それな。
影がかぶさって、ハルはトレイから目を離し、見上げた。真上には男の顔があった。
青みがかった髪の毛、切れ長の瞳、スッと高い鼻梁。確かに逞しいのに涼しさも感じさせる顔だった。
「仕事は出来ないのに、飯は食うんだな。」
ハルはギリリと奥歯を噛み締めた。顎が痛んだ。相手を睨み付ける。カタカタとトレイの上の食器達が音を立てた。
相手はゴキブリを見たってしょうがないとでもいうようにハルから視線を外して顔を上げた。
「ラッセ君、あんまり新しい子を苛めちゃ駄目だよ。」
食堂の中年の女性が、笑った。
ハルは視線を食堂へ向けた。空いている席に足を向ける、一歩を踏み出す。座っていた男達の尻がもぞりと動いて隙間を埋めた。視線を走らせて、別の場所を探す。見つける。足を踏み出す。また、尻が動いて、隙間はなくなった。視線を走らせる。今度はハルが足を踏み出す前に隙間はなくなった。
ハルは食堂の真ん中で真っ直ぐに立った。何処にもハルの席はなかった。男達は一様に顔を下に向け、食事に熱中している。
また、影が覆いかぶさった。背丈が小さいというのは本当に損だ。
「おいおい、みんな、新人君を苛めてやるな。」
ハルが振り返った先にいたのは、老ゲートルード卿だった。ハルはゲートルード卿の目を見た。
「ゲートルード卿、どうぞ。」
トレイをゲートルード卿に差し出す。彼が受け取ったのを見届けて、ハルはトレイから手を離した。
食堂は馴れ馴れしいスープの湯気と切り刻まれて雑に味付けされた食物の匂いでいっぱいだった。カチャカチャと鳴る安価な錫製の食器の音が耳障りだった。
「お貴族様はオレ達の飯は不味くて食えないってか。」
ハルの前に壁のような男が立ちはだかった。口を開こうとして、自分の膝がガクブルと震えていることにハルは気付いた。上手く力が入らない。今にも無様にへたりこんでしまうのではないかと思われた。
どうして、という文字が頭に浮かんだ。
ハルは顔を上げて、男の顔を睨み付けようと目を細めた。眉もぐっと寄せようと試みた。
「い、い、一緒に、飯を食う奴をえ、選ぶってだけの話しだ。」
口を引き結ぶ。これ以上口を開いていたら、きっと泣いてしまう。俯けば、やっぱりきっと涙が零れるから顔を上げている。どうしてこんななんだ。自分の体なのに、ちっとも自分の言う事を聞きやしない。自分にだって裏切られる。味方なんかどこにもいやしなかった。今まで一度も居たことなんかなかった。
背を向ける。足を出口へ向けて踏み出す。いつの間にか体の横で拳を握っていて、あんまり力を込め過ぎたらしかった。血が滴った。
きっと傍目にもわかるくらいに足は震えているだろう。さっきの比じゃなかった。壁のような男なんて所詮は壁のような人間だ。ドラゴンじゃない。
無論、そいつはドラゴネットだった。ドラゴンじゃない。小さな竜はハルが近づけば伏せていた体を起こした。沢山の太鼓が鳴り響いたような唸り声を上げる。
一歩を踏み出す。ドラゴネットは怒って、頭を滅茶苦茶に振り回した。その度に牙が目に付く。
次のハルのそれは一歩とは呼べなかった。すり足だ。トイレに行きたくなった。それで、ハルは、それ以上近づくのを諦めて、トイレに行った。
その晩も寮には行けず、ハルは竜舎の入り口で背を凭れさせた。夜気は服なんてないみたいにすり抜けて、ハルの体を包んだ。心臓まで冷え切る。ハルは膝を抱え、服の中に腕を仕舞いこんだ。膝がしらに頭を載せて、目を瞑る。
空腹で胃がキリキリと痛んだ。痛い、と呟く。
腹ペコで目を覚ましたと思った。それともあるいは、寒さで目が覚めたのかもしれなかった。判然としない。明け方のミルクのように濃い霧でハルの体はしっとりと濡れて体は死体よりも冷たい。強張って指が上手く開かなかった。このまま、指が動かなくなったらどうしよう。ハルの役目は槍を持って竜に乗って、街を守ることだ。まぁ竜に乗れないんだけど。
ドラゴネットの檻に隙間から藁を追加して、ハルは竜舎を出た。ずんずん歩いて、騎士宿舎の敷地からも出る。モノトーンだった世界は次第に白みを増していた。次いで、薄黄色になっていく。
鼻を頼りにパン屋を探す。この世で探す価値がある唯一のものだ。
真っ黒だった夜に沈み込んでいた街は、いつの間にか訪れた朝に姿を薄く浮かび上がらせ始めている。
ギャン。
悲鳴にハルは次の一歩を大きくした。それから、走る。角を曲がった先、路地裏に顔を覗かせる。
野良犬がいた。倒れている。上半身を起こそうと身を捩っている。腰がピクピクと痙攣している。強かに下半身を打ちすえられたのかもしれない。
辺りを見渡す。他に何もいなかった。ハルは野良犬に近づいた。犬は耳と尻尾をベッタリと伏せ、ハルを見上げる。鼻にシワを寄せ、それでも牙をむいて唸った。ウルル、という音をハルは聞いていた。
犬は痩せこけていた。肋に皮を張り付けたような姿は下手くそな工作物にも見えた。大抵のものはそうだ。作り物の方が本物らしい。現実は現実味がない。だからハルは青空が嫌いだ。
犬はまだ唸っている。
ハルはバッと犬に背を向けた。駆け出す。来た道を引き返す。次の角を曲がった先にコンビニエンスストアがある。
コンビニエンスストアでオイルサーディンと犬の餌を買った。餌をやれば、犬は警戒する素振りを見せたがすぐに食べた。それどころか、ひょこひょこと、動かない腰のせいで下半身を縦に揺らしながら、ハルのあとをつけてきた。それで、ハルは犬の餌の缶詰を追加で購入したのだった。
例え使用人が全て辞めてしまったとして、それは母とハルが試合を棄権する理由になりはしなかった。料理の出来ない母は藤のバスケットに台所にあったパンと食料部屋にあったオイルサーディンの缶詰だけを入れて、ハルの手を引いた。
ハルは母を見上げた。エラばった輪郭、引き結ばれた唇。他の婦人と同じように、母の真っ黒な髪の毛もパーマがかけられている。汗で額に張り付いたそれらは少し海藻に似ていた。
ハルは試合用の先が丸いレイピアの入った鞄の取っ手を持ち直した。日は勢いを増し始めていて、何でもないように感じていても、動けば汗が滲んだ。母の大きな一歩に置いて行かれないように小走りになる。馬車の御者もいないから、公共機関を使うしかなかった。そのためには、時間に間に合わなくてはならない。首を日が焼いて、痛さを感じるくらいだった。
ハルはいつの間にか俯いていた己の顎を上げた。母の顔を再び見る。母の顔はずっと真っ直ぐだけを見つめ、ハルの視線と交わらない。
「母さん。オレ、今日の試合、勝つよ。そしたら、母さんにメダルもトロフィーも賞状もあげる。母さんのために、この試合を捧げますってやつ、やるよ。」
俯いて、言う。右、左、右、左。間違えることなく足が出てくる。
いつもは母さん、と呼べば母上でしょと怒られる。けれどその日は、小言は飛んでこなかった。ただ、母は珍しいことにハルを見下ろした。汗で髪の毛が張り付いたその顔には微笑みと言えなくもなくもなくもないような何某かのものさえ張り付いていた。母が口を開く。
「私の希望の星。」
「演習に犬を連れてくるんじゃないっ。」
ハーデス連隊長が上から怒声を浴びせた。ハルは見上げなければならないことを忌々しく思いながら、顔を上げた。
「オレの犬じゃないです。」
犬はハルの後ろでゆらゆらと尻尾を振っている。その尻尾は途中で変に曲がっている。恐らく、骨が折れたまま放置して変に引っ付いてしまったんだろう。
「なぁ、この隊に犬アレルギーの奴がいるかもしれないって考えなかったのか。もし重度の犬アレルギーの奴がいて、お前がその犬を連れて来たことで重篤の症状に陥ったらどうするつもりだったんだ。」
ハルは連隊長の目から視線を外さない。
「この隊の人間が全員、犬アレルギーで、重篤の症状に陥れば良かったのにと思いました。」
拳をずっと握りしめている。
「威勢だけはいいんだな。いいか、誰のものでもないなら、殺処分だ。野犬はそうと決まっている。」
それで、ハルは首輪と引き綱を買ったのだった。
疲れて口もきけないくらいだった。足を出さなければならないことが忌々しい。体を引きずって歩く。
ハルはオリの隙間から肉の塊を餌箱に入れた。一つ、二つ、三つ。大型のドラゴンじゃないドラゴネットは肉食寄りの雑食だ。次に壁の端へ積み上げられた穀物袋を一つ、持ってくる。麻袋を開けて、中身を注ぐ。外に置いてある野菜の屑カゴの元へ行く。手押し車にスコップで野菜屑を入れて、竜舎へ戻る。それからスコップでオリの隙間から野菜屑を入れた。
ドラゴネットはハルとは反対のオリの隅でこちらをひた、と見つめている。ハルが餌箱から離れれば、そろそろと餌箱に近づいた。
ハルはそれを確認して、それからバケツを手に取った。外に水道はあった。何度か往復して竜の水入れの中身を新しいものへ入れ替える。
ドラゴネットはまだ食べている。ハルはフォークで、オリの隙間から届く範囲で藁を掻い出した。古い藁を手押し車に積む。外の肥溜めに捨てる。繰り返す。届く範囲のものを全て掻い出し、捨てれば、藁山から新しい藁をフォークで掬う。手押し車に載せて、オリの隙間からフォークで中へ押し込む。
犬がハルの元へやってきた。キューキューと鼻を鳴らしている。頭を撫でて、もう少し待つように告げる。ドラゴネットが餌を食べている間にまだやらなくてはならないことがあった。
藁を掴んで、オリへ近づく。投げ出された、ドラゴネットの尻尾に藁を持った手を近づける。
だって教科書にはドラゴンの鱗を磨くように書いてある。例えそれが信用できなくても、他にすることをハルは持たなかった。
ドラゴネットは怒って尻尾を振り上げた。思わず飛び退る。それともやっぱり尻餅をついたという方が正しかった。
犬に餌をやって、オイルサーディンをパンに載せて食べた。演習終わりにシャワーを浴びて、そのまま着替えてきたから支度はもうお終いだった。
毛布の4分の3は犬が占拠していた。口角が上がる。頭と体を撫でれば、犬は薄く瞼を開いた。重たそうにけれど、尻尾をゆるりと一回、振ってくれる。犬の隣にハルは身を横たえた。その背中の毛に鼻を埋めた。目を瞑る。
夜は冷たくて、石の床は毛布を通り越して熱エネルギーを奪う。けれど、風はさやさやと鳴き、犬に触れているところはじんわりと温かかった。
ひょっとしたら叶うかもしれないから、朝が来ないように祈る。
「お前にはドラゴン様がいるもんな。」
それで、パトロールの時にハルに武器は支給されないことになった。
二人一組のストレッチを一人で行う。
何にもしてない癖にシャワーは浴びるのか、と聞かれたから、竜舎の外の水道で体を洗う。
パン屋に行く。バゲットをトレイに取って、レジへ向かう。店の人間が値札の倍の価格を払うように言った。
「払えるだろ。」
確かにハルには払えるのだった。だから支払う。
石の床に毛布を敷いた寝床に身を横たえる。事実が雨のように降ってきてハルを地面へ留める。毛布を握りしめて止むのを待つ。勿論、止むはずがなかった。雨ではないのだから、当たり前だ。
明日が来る。
今日は非番だった。ハルはつなぎを着て、デッキブラシを手に竜舎の床を磨いた。犬が遊んで欲しそうに周りをウロつく。構ってやりたい気持ちはなきにしもあらんこともなかったが、体が重たくて、掃除をするだけで手一杯だった。竜は綺麗好きだ。
体の重たさの原因は分かっていた。酸素が行き渡っていないのだ。ずっと心臓の裏側の辺りが痛くて、上手く息が吸い込めない。呼吸が浅いから全身に酸素が行き渡らない。酸素が無ければ細胞は生命活動のためのエネルギーが作れない。つまりそういうことだった。
石の床は濡れて色を濃くした。開け放した窓から風が通り抜けて、藁が数本巻き上がった。
いつの間にか口を開いていた。言葉を零しそうになって、ハルは手で口を抑えた。それなのに、言葉は強い意志でハルの喉元をせり上がる。グググとハルの口を内側から押してきた。押し付けた手、指の隙間からぬるりと言葉が身を割り込ませる。そうして、言葉は床に落ちた。あーあ、言わんこっちゃない。
「どうして。」
言葉は石の床に当たって、砕け散る。原型を留めなくなったそれを見下ろす。なのに、言葉は学習しなくて、また口から零れ落ちる。
「どうして、オレはいつも一人なんだろう。」
無論、ハルは一人ぼっちじゃなかった。犬がいたし、実家には祖父母に母、妹がいる。父に嫌われているわけでもない。
ゴゥンゴゥンと洗濯機が回転しだす。ハルはそれを確認して、膝を伸ばした。蛍光灯がジジと音を立てた。不健康なほど白い光のコインランドリーから外へ出る。
明るい所から出たから外は真っ暗に感じた。次第に目が慣れて、物の輪郭が掴めるようになる。夜の帳は露でしっとりとしていた。葉の甘やかな匂いがした。
ハルは地面が湿っていることに構わず、犬の隣の縁石へ腰かけた。じわじわと尻が濡れていく。犬を頭から背中にかけて撫でる。犬は身じろいで、一層ハルに体を近づけた。目を瞑る。
日中、街外れで男が数人、パブで狼藉を働いていると通報があった。それで近辺をパトロールしていたハルともう一人の騎士は駆けつけた。
相手の男達はやっぱりハルより縦にも横にもデカかった。こん棒やナイフを手に持っていた。男達はハルと騎士の姿を認めると顔を歪め、ぐっと睨んだ。唾と共に言葉を吐く。ナイフが振り落とされる。
隣の騎士はハルが動くよりも先に飛び出した。
「大した者だな、竜騎士様っていうものは。」
朝になっても食欲は湧かなくて、オイルサーディンを丸呑みする。
演習初めのランニングで嘔吐感を覚えて、コースを外れた。茂みの中で吐く。オイルサーディンが丸まま出てきた。胃液にコーティングされたそれは、朝の光に照らされて、ぬらぬらと輝いていた。
どうにかこうにか寝床から体を引き上げる。一日が始まる。
ハルはドラゴネットを見上げた。
竜舎は堅牢な石造りだ。そのせいで、明かりを灯しても隅にいつも影がうずくまっている。常に薄暗いように感じられた。鈍く光る竜の鱗に影がチラチラと走る。
鱗に覆われた体躯に真っ黒な爪、大きく発達した後ろ足の筋肉によって二本足で立つことが出来る。獲物を捕食するための鋭い牙。細い瞳孔。角はぐるんと弧を描いている。
なるほど、それでも竜で美しい。
ハルはドラゴネットが食事に夢中になっていることを確認して、オリの隙間から手を伸ばした。藁を掴んだ手を近づける。そうして、その尻尾を藁で擦った。一回。尻尾がピクと動いた。でも、それだけだった。
ハルは自分が手を止めていることにも気付かなかった。心臓がバクバク煩くて、音が視界を遮る。霞む視界で、ハルはドラゴネットを見た。
ドラゴネットは餌箱に顔を突っ込んで、食べることに夢中なフリをしていた。けれどその肩はずっと緊張している。
ハルは息をするのも忘れた。苦しいのに、苦しいこともよく分からなかった。
体を斜めにして、オリの隙間から身を滑り込ませる。そうして、ハルはドラゴネットの尻尾を磨いた。磨けば磨くほど、鱗はとろりと艶やかさを増した。
尻尾から先を磨かせてはもらえなかった。けれど、確かにハルはその尾に触れた。
「ザクロ。」
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