夜の時計

 夜になるとその時計は街から姿を消した。一体何が不満だったのか、あるいは誰かが時計を唆したのか、全くそこら辺の事情はわからないのだけれど、とにかく、時計はいなくなった。

 街の人々は最初時計がなくなっても困りはしないだろうと思っていた。確かに時間を確かめられるということはとても大事なことだし、時計台は街のシンボルであったから、何となく心にぽっかりと穴が開くような、そんな空虚な感覚はあったのだが、別段実務上の障害とはならないだろうと踏んでいた。

 しかしそれは誤りであった。

 街は時計がなくなったことによって混乱した。バスのダイヤは乱れ、授業は冗長になり、映画はいつまで経っても放映されなかった。恋人同士は待ち合わせることができなかったし、カフェはランチタイムをいつから始めるべきなのか迷った。街の政治家は叫んだ。原始時代へ回帰するべき時が来たのだ、と。

 もちろん原始時代に戻るようなことは起きなかった。街は市議が時計の無くなった時計台から鐘を鳴らし、それを時計の代わりにした。鐘は示したい時刻の分だけ鳴らした。1時なら1回、2時なら2回、という風にだ。しかし市議も時計を持っているわけではないので、一応時間を数える係を雇い、60分を数えたら鐘を鳴らすよう指示しておいたが、その正確性には疑問が残っていた。星の運行があてにならないこの宇宙において正確性なんてものがあるのかどうかについても、そもそも疑問視されていたが、少なくともあの時計だけは絶対的な基準であり、時が進んでいる証拠でもあった。

 その時計がなくなった今、街には不信感や絶望感が漂っていた。

 表面上はなんてことない顔をしていたが、街の人々は皆、一様に沈んだ顔をしていた。どうしよう、どうしよう。そんな困惑を抱えながらも、皆それぞれ自分の仕事に没頭した。仕事は嫌なことや直面している問題から一時的に目を逸らしてくれる。良くも悪くも。

 議会では時計がなくなった原因について終わる見込みのない議論をしていた。大半の議員が不毛な議論だと思っていたが、特に議論すべき話題もないので、そのままにしておいた。議員たちは不毛な議論をすることでこの問題から意識を逸らしたのだ。そして街の人々に少なくとも私たちは問題に取り組んでいるのだという姿勢を見せた。そういう政治的な思惑もあった。

 この街に時計は二つあった。一つは無くなったので、今は一つあるのみだということになる。その時計は町外れに住む1人の老人が持っていた。でもその老人はほとんど人と関わらないように山に住み、自給自足の生活を営んでいた。そのため誰もその老人が時計を持っているということを知らなかったし、そもそも町外れの山に人が住んでいるということも知らなかった。

 老人はかつて人に裏切られた。娘と息子に裏切られたのだ。

 老人は時計職人だった。その頃時計は今よりも生産が盛んで、年に3つは作られていた。老人も時計作りに参加し、30人体制のチームで時計の根幹であるシステム部分の製造に携わっていた。老人はやりがいを感じていたし、彼は優秀だったので、給金も一般の人より多くもらっていた。そして彼は30を前に結婚をして、翌年には娘が生まれた。その2年後には息子が生まれた。全てが順風満帆かに見えた。妻は彼に何一つ不満を言わなかったし、娘と息子も彼を好いていた。少なくとも彼にはそう見えていた。

 結婚生活が15年目に差し掛かった頃、彼の妻は自殺した。

 理由は全く分からなかった。自殺する前日の妻は普通に料理を作ってくれて、普通に晩酌に付き合ってくれた。愚痴も聞いてくれたし、酔っ払い特有の与太話にも耳を傾けてくれた。でも、その翌日、自殺した。

 彼にはその現実がうまく把握しきれなかった。

 全く、分からないことだらけだった。

 彼の混乱をよそに彼の娘と息子はやっぱりな、と呟いた。

 やっぱりってどういうことだ?

 それが分からないから母さんは自殺したのさ。

 彼は泣くことさえできなかった。

 それからだ。彼が娘や息子と話をしなくなり、仕事に没頭するようになったのは。仕事は彼に嫌なことを全部棚上げさせてくれた。何にも考えず時計製作に没頭した。出世し、給金も増えた。そして3つ目の時計に魂を入れるという段になって、時計のシステム上の不備が発見された。彼の仕事は完璧だった。それなのにシステムには不備があった。そのシステム上の不備はこれまでの時計製作を水泡に帰すような重大な不備だった。彼はクビになった。なぜ、不備が発生してしまったのか、彼には分からなかった。

 時計のシステムに不備が発見される前日、彼の娘と息子は時計製作工場に忍び込んだ。時計製作工場に入るという行為は、倫理的に言えば殺人よりも重い重罪であるため、当然のように警備はされていなかった。

 彼の娘と息子に倫理観が著しく欠如していたかと言われれば、実はそうではない。

 彼の娘と息子はクレバーだった。しかし父を許していなかった。彼らは倫理観が欠如していたわけではなく、復讐心に燃え、一時的に物事を正しく判断することができなくなっていただけだった。

 父が寝ている間に寝室に潜り込み、父のメモ帳を盗み見た。そこから時計製作の進行状況と、工場の内部についての情報を得た。そのメモ帳には断片的な情報しか書き込まれていなかったが、彼らは様々な観点から議論を行い、ほとんど事実と合致する推論を展開した。慎重に慎重を重ねながら、完璧な計画を立てて、そして実行した。その計画は成功した。

 彼らは、時計のシステムをひっくり返した。彼らのそのシステムの壊しようは、時計製作に致命的なものだった。そのため父はクビになったのだ。

 父は、クビになって2年後、やはりまだどん底から抜け出せていない頃に、息子から真実を聞いた。父さん、あれは僕たちがやったことなんだ、と。その時息子は父を許しても良いという気持ちになっていた。それで父に全てを告白しようと思ったのだ。

 しかし、その思いは父には届かなかった。

 父は人間不信になり、山の上に家を建て、一人で暮らすようになった。自給自足で生活をした。そして老人になった。

 彼がいなくなったことで、時計製作は困難になった。彼がクビになった後、時計が製作される事はなかった。それは街にとってかなりの損失だったと言える。

 すでに息子も娘も他界していた。老人は誰よりも長生きした。老人は何年もかけて、たった一人で時計を製作した。来る日も来る日も、時計を製作した。そしてついに、時計が出来上がった。完成した時、時計は言った。

「僕の役目は何だい?」

 老人は掠れた声でこう言った。

「復讐さ」

 老人は時計を叩き潰し、ついにその街に時計は一つも無くなった。老人は三日後にひっそりと息を引き取った。

 街はその後滅びた。

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