僕はファントム

スーパーボロンボロンアカデミィー

僕はファントム

 今日も僕は、君の歌を聞いている。


 曲目は、シンク・オブ・ミー。

 オペラ座の怪人の中で僕が一番好きな曲だ。


 若く美しい新人歌手クリスティーヌがファントムオペラ座の怪人を恐れて舞台を降板した人気歌手・カルロッタの代わりに歌った一曲。


 この曲のおかげで、クリスティーヌはヒロインの椅子に座る事ができた。



「ア、アアア〜〜……」



 曲のラスト、複雑な音階にロングトーンが合わさった部分。


 とても綺麗な声だけど、ところどころ音程が外れている。

 これでも、最初に比べたらとてもましになった。


 もう最初は本当に聞くに耐えないぐらいの音痴で、頭がおかしくなるかと思ったが、よくもまあここまで進歩したものだ。


 君は、もっと上手になる。

 だって、僕が歌を教えてあげるから。



「アー、アア〜〜……!オブ・ミー!……どうだった?」

「うん。一週間前よりはよくなってる。ただ、やっぱり声が弱い。ファルセット細い声じゃなくて、ヘッドボイス太い声を出せって、何度も言ってるよね?腹筋が弱いんだよ。今日から毎日腹筋100回ね。」



 うっ。君は嫌そうな声を出す。

 嫌そうにしてはいるけれど、君はちゃんと僕の言うことをよく聞いて、一週間後にはもっと上手になってまた僕に歌を聞かせてくれるんだ。



「やばい、電車に遅れちゃう。じゃあまた一週間後ねっ!」



 君は、ばたばたと慌しく音楽室を出て行く。

 ここは今は使われていない旧校舎の音楽室。


 今日は木曜日。今は放課後だ。


 木曜日の放課後。

 4時から5時までの一時間。


 僕のレッスンを受けに、君はここにやってくる。


 君の名前は愛理。篠原愛理。

 2年4組。演劇部に所属している。


 今度のコンクールで、オペラ座の怪人のヒロイン・クリスティーヌを演じる。

 誕生日は10月2日。血液型はB型。

 彼氏はいない。好きな人も今はいない。


 僕は君のことをたくさん知っている。

 けれど、君は僕のことを知らない。


 僕の名前も、学年も、部活も。

 誕生日も、血液型も。

 君は僕の顔すら知らないんだ。


 君が知っているのは、僕の声だけ。


 僕は君のことが好きだ。

 でも、僕は決して君の前に姿を現さない。


 僕の顔を見たらきっとそのおぞましさに耐えきれず、君は逃げ出してしまうだろう。

 そんなことは、耐えきれないから。


 

「まるで、ファントムオペラ座の怪人だな……。」



 ファントムとは、オペラ座に住み着く怪人のことである。

 ファントムは、美しい娘・クリスティーヌに恋をする。

 

 人間とは思えないほどの醜い容姿をした姿をクリスティーヌに見られることを恐れたファントムは、『天使』として姿は見せずに声だけでクリスティーヌに歌を教えた。


 さながら、今の僕のようである。


 ただ、僕とファントムはひとつだけ違うところがある。

 ファントムは、クリスティーヌに愛されることを望んでいた。

 嫉妬に狂い、人殺しまで犯してしまったファントム。


 僕は彼とは違う。

 僕は、君に愛されることは少しも期待していない。それが無理だということがわかっているからだ。


 君が、誰と付き合おうと。誰のことが好きでも。僕は嫉妬に狂ったりなんてしない。

 僕にはその資格がないからだ。


 この想いは、僕の心に秘めておく。

 一生君に伝えることはない。


 僕は、こうして君に歌を教えているだけでいいんだ。

 それ以上のことは、僕は望まない。







 僕は醜い。

 イケメンとか、ブサイクとかそういうことを言っているんじゃない。

 そういう次元の話じゃないんだ。


 僕の顔の半分は、肌が爛れてでこぼこしている。


 皮が厚くなっているせいで、皮膚が引き攣り、上手く表情を作ることができない。

 頭も火傷を負ってしまったので、髪もまばらになってしまっている。


 幼い頃に負った火傷が原因だ。


 隣の家のタバコの不始末から家が火事になり、それに巻き込まれた。

 その火事で、両親と弟は死んだ。


 助かったのは僕だけ。

 命は助かったが、僕の姿は変わり果ててしまった。


 人とは程遠い醜い風体をしている僕だが、意外なことにいじめられたりしたことは一度もない。

 陰で悪口を言われたこともない。


 みんな、腫れ物に扱うように僕に接する。

 わかりやすいぐらい気を遣って。それでも気味悪がっているのが透けて見えている。


 きっと、僕が『本物』すぎるから、みんな怖いのだ。

 いっそ、いじめてくれれば、僕だって心おきなく憎むことができるのに。


 こんな姿になってしまったのは、罰だ。

 自分だけ生き残ってしまった罰なのだ。



 そんな醜い僕の唯一の趣味は、歌を歌うことだ。

 死んだ父親は、オペラ歌手だった。

 父は、僕に沢山のオペラを教えてくれた。

 

 魔笛。ラ ・ボエーム。椿姫……。

 幼い頃、僕は見よう見まねで父親の真似をしていた。


 筋がいいと褒められて、嬉しかった。


 歌を歌っている時だけは、僕は別の人間になれる。

 醜い姿を忘れて、美しい物語の中で生きられるのだ。


 誰もいない旧校舎の音楽室で、一人で歌を歌う。

 それが僕の唯一の楽しみだ。

 誰にも内緒の、僕だけの趣味。


 そう、あの日までは。





 あの日、僕はいつものように歌を歌うためにここにきた。


 今日はなにを歌おう。久しぶりに、トゥーランドットでもやろうか。


 誰も寝てはならぬ。誰も寝てはならぬ。

 姫、あなたもですよ。

 俺の名前を知るものは誰もいない……。


 僕が歌を歌っていると、外からパタパタと軽やかな足音が聞こえた。

 こっちへ向かってきている。


 ……顔を見られてしまう。


 とっさに僕は、楽器準備室の中に身を隠した。


 ガラガラと教室の扉が開く音が聞こえる。

 僕は身を潜めながら、恐る恐る様子を伺う。


 入ってきたのは、隣のクラスの篠原さんだった。

 良かった。僕には気づいていないようだ。


 篠原さんは、ドカッと音を立てて乱暴に鞄を床に置き、深呼吸をした。


 スゥー。

 篠原さんが大きく息を吸う。


 そうして、彼女は歌を歌い出した。



「〜〜〜♪」



 それは、耳を塞ぎたくなるほどの歌声だった。

 まず最初に、音痴だ。音程がまるでとれていない。

 そのくせに、変に自己流のアレンジを入れたりするから、とても聞くに堪えない。


 ど下手だ。申し訳ないけど、彼女に歌は向いていない。



「うっ……。」

「だ、誰かいるの…?!」



 あまりにも酷い歌声に、つい口からそんな音が漏れた。


 僕の声を耳ざとく拾った彼女が、驚いたような声でそう言った。

 よかった。僕がどこにいるかまでは、わかっていないらしい。



「……どこにいるの?酷いわ。いるならいるって、最初から言ってよ!!」



 篠原さんは音痴な歌を聞かれたのがよほど恥ずかしかったのか、キーキーと金切り声を上げて大騒ぎしている。


 さすがにちょっと申し訳ないことをしてしまったかもしれない。

 まさかこんなにも音痴だとは思わなかったものだから。



「ごめん。」

「……えっ、どこにいるの?」

「顔を見られたくない事情があるんだ。こちらへ来ないと、約束してくれる?」



 楽器準備室の中から篠原さんにそう問いかけると、彼女は小さくうん、とうなずいた。



「お詫びに歌を教えてあげるよ。ただし、僕の顔を見ない。僕の正体も探らない。この二つの条件を呑んでくれればだけど。」

「……わかった。わかったわよ。藁にもすがる思いなの。あなたが誰でもいい。愛理に歌を教えて。」



 篠原さんは、意外にも僕が出した条件をすんなりと呑んだ。

 駄目元で言ってみたものだから、僕は少し拍子抜けだ。


 そんなに切羽詰まっているのか。

 どんな事情があるかはわからないけれど、とにかく篠原さんが必死なことだけは伝わった。




 それから僕と篠原さんの奇妙な時間が始まった。

 僕は篠原さんに歌を教える。篠原さんは僕に歌を教わる。


 歌と歌の合間に、他愛のない話をたくさんした。

 それもほとんど篠原さんが一方的に話をしているだけだ。


 コンクールでオペラ座の怪人をすること。

 クリスティーヌ役に抜擢されたけど、歌が下手だから不安なこと。

 最近2キロ太ってしまったこと。


 篠原さんがたくさん教えてくれるから、僕は篠原さんのことをたくさん知った。


 僕は木曜日が楽しみになった。


 ……いつのまにか、僕は君に恋をしていた。



「『天使さん』聞いてる〜?」

「うん。聞いてる。それで?」



 今日のレッスンは終わった。

 彼女の電車の時間まで少し時間がある。空白の時間を埋めるように、僕たちはいつものように他愛のない話をしている。

 

 君は、僕を『天使さん』と呼ぶ。

 もちろん、オペラ座の怪人に準えてだ。


 そう。僕は名実ともに彼女のファントムなのである。



「……それでね、愛理と付き合ってくれって言われたの〜。」



 どうやら同じクラスの男子に告白されたらしい。

 顔が好みじゃないから、断ったとのことだ。



「その人のことが嫌いなの?」

「嫌いってほどじゃないけど〜……。よく知らない人だし。そんな人から告白されても、なんか……気持ち悪いじゃない。」



 篠原さん。君は、なんにもわかっていないね。


 君は、贅沢ものだよ。


 僕は君に愛を伝えることはおろか、姿を見せることすらできないというのに。



「だって、あいつ……。愛理の事なんにもわかってないのよ!趣味じゃないプレゼントとか渡してくるの。嫌じゃない?」



 胸がチリリと痛んだ。

 君に振られた男が、羨ましいよ。


 僕は君のことをたくさん知っているけれど、プレゼントを渡すこともできないよ。



「……そうだね。」

「でしょ〜?」



 君は無邪気にそう言うけれど。


 その言葉が僕を傷つけているなんて、知りもしないんだろうな。



「ああ〜……。天使さんだけよ。私の事を分かってくれるのは。」

「……そんなことないよ。」



 だって、君は僕のことを何も知らないじゃないか。



「ほら、もうすぐ電車の時間になるよ。早く帰らないと。」

「……本当だ。天使さんと話してると、電車の時間も忘れちゃう。じゃあまた、来週の木曜日に。」



 そう言って君は、早足で教室から出て行った。


 パタパタ……パタ……。


 足音が聞こえなくなったことを確認して、やっと僕は楽器準備室から出れるんだ。



「好きだよ。篠原さん……。」



 誰もいない教室で、そう呟いてみる。


 君のことを知るたびに、欲が生まれてしまう。


 もっと、君のことを知りたい。


 ……僕の気持ちを、知ってほしい。


 そんな気持ちは、顔と一緒に捨てたはずなのに。


 駄目だ。

 姿すら見せることができない臆病者の僕に、そんな資格はない。


 でもね、苦しいんだ。

 だからこうして、君が居ないときだけは。

 君への愛を伝えさせて。





「〜〜〜♪」



 今日も、僕は君の歌を聞いている。

 音程もしっかり合っているし、強弱もはっきりと付いている。


 課題だったシンク・オブ・ミーのラストのロングトーンもとても綺麗に歌えている。



「ねえ、どうだった?」

「とっても上手だったよ。君はもう、ここに来なくて大丈夫。」

 

 

 君は、とても歌が上手になった。

 もう、僕が教えることは何もない。


 君と過ごす夢のよう時間も、今日が最後だ。



「そっか。ついに、終わっちゃったんだ。」



 君は少し残念そうな口ぶり。

 僕だって、そうだ。

 君ともっと話したい。



「ねえ。またここに来てもいい?」

「駄目だよ。ここにはもう来ないで。」



 でも、これ以上は、いけない。

 君への気持ちが抑えきれなくなってしまうから。


 怖いんだ。

 これ以上君と一緒にいるならば、僕は本当に、ファントムになってしまう。


 僕は、とても君のことを愛してしまった。

 そして、君に愛されたいと思うようになってしまった。


 だから、こんなことはもうやめにしたほうがいい。



「どうしてそんなこと言うの!せっかく仲良くなったんだから、友達になろうよ。」



 君は駄々をこねるようにそう言った。

 ……僕の気持ちも知らないくせに。


 僕はこうしないと、君と話すこともできない臆病者なのに。



「……友達にはなれないよ。」

「どうして!」

「だって、僕は君のことが好きだから。」



 君があまりにもしつこいから、僕はついに君への愛を口にしてしまった。


 しまった、と思った時にはもう遅かった。

 君は、何も言わずにダンダンと足を踏み鳴らしている。



「……いつから?」

「いつのまにか。気づいた時には君を好きになっていたよ。」

「愛理のことが好きなら、ちゃんと言ってくれればよかったのに!」



 君は子供のように地団駄を踏んでいる。

 残酷だ。僕が今までどんな思いで君と接してきたか。

 君は何も知らないくせに。


 本当は、言うつもりだってなかったんだ。

 君のせいだ。君が、あんなことを言うからいけないんだ。



「……言えないから、僕はこうして隠れているんじゃないか。こうしないと、僕は君と話すことすらできないんだよ。」

「ずるい!あなたは臆病者よ!!」

「うるさい。僕のことをなにも知らないくせに!」



 君が僕を責め立てるから、僕は大きな声で怒鳴ってしまった。


 僕の大声に驚いたのか、癇癪を起こしていた君は急に黙り込む。


 しんとした静寂が、教室を包み込んでいる。


 もう、どうでもよかった。

 どんなに僕が君のことを愛していても、この想いは君に届くことはない。


 怖がってくれていい。軽蔑してくれて構わない。


 この想いをずっと隠し続けるくらいなら、いっそ嫌われた方がましだ。



「そうよ。愛理はなにも知らない。あなたの名前も、顔も。でも、今日あなたの気持ちを知ってしまった。愛理のことが好きなんでしょ?」

「……うん。好きだよ。君のことを愛してる。でも、知らない人からの好意を君は気持ち悪いと思うんでしょ。」

「そんなことない。あなたは優しい人だよ。わかるよ、声だけで。いろんな話をしたじゃない。」



 最もらしいことを言っているように聞こえるけど、それは違うよ。

 

 僕の顔を知らないから言えるんだ。

 僕の顔を見たら、そんなことは口が裂けても言えなくなるよ。



「……君はなにもわかってないね。どうして僕が君の前に姿を見せないか、わかって言ってる?」

「…………。」



 諭すようにそう問いかけると、君は黙り込んでしまった。


 都合が悪くなると黙り込む。


 ほら。やっぱり君はなにもわかっていないんだ。



「僕の顔はファントムみたいに醜いからだよ。……君ならこの意味が、わかるよね?」



 クリスティーヌを演じる君なら、僕の言葉の意味がわからないはずはない。


 ファントムがいくらクリスティーヌを愛しても、決して結ばれることはない。


 僕はそれがわかっているから。傷つきたくないから、僕は君に顔を見せられないんだ。



「……ファントムが醜いのは、顔じゃなくて魂だわ。あなたは、そんなことない。」

「綺麗事だよ。君は僕の顔を知らないから、そんなことが言えるんだ。」

「……じゃあ。証明するから。あなたの顔を見せてよ。」

「それは無理だ……!」



 君は、静かな声でそう言った。

 ドクンと胸が脈打つ。

 無理だ。いくらそう言われたって、それはできない。


 本当の僕の姿を見たら、君はきっと僕のことが嫌いになる。


 君に嫌われてしまうのが、怖い。



「あなたが来ないなら、私が行くから。」

「ま、待って!お願いだから、それはやめてくれ……!」



 痺れを切らしたのか、君は僕が隠れる楽器準備室の方に足を向けた。

 僕は両手で顔を覆ってうずくまり、そう叫んだ。



「じゃあ早く、来て。顔を見せてよ。……本当に大丈夫だから。」



 君の声色は、怖がる僕を宥めるように優しいもので。

 僕は、どうしていいかわからなくなってしまった。

 


「本当に、逃げたりしない?」

「うん。」

「絶対に……?」

「うん。」



 僕は、君を信じていいのだろうか。

 君のことを信じたい。


 ……僕のことを知ってほしい。


 僕は、足を踏み出した。

 醜い右顔を手で隠して、ゆっくりと君のところへ歩いていく。



「…………。」



 目を伏せて、君の前に立つ。

 君はなにも言わない。

 下を向いているせいで、君がどんな顔をしているかわからない。

 ただ、君の息遣いだけが聞こえる。

 


「手、外して。」

「…………。」



 君に言われて、僕の醜いところを隠す手をゆっくりと外した。


 ぎゅっと目を瞑る。

 君は、どんな顔をしているんだろう。

 怖い?気持ちが悪い?


 君の表情を見るのが、怖かった。



「……顔上げて、目を開けてよ。」



 ゆっくりと顔を上げて、僕は瞼を開いた。

 君は、薄く微笑んでいた。

 軽蔑や憐れみの顔じゃない。ただ、僕を優しく見つめている。



「ねえ。さっき言ったこと、もう一回言ってよ。」

「さっき言ったことって?」

「愛理のこと、好きだって言って。」



 君の大きな瞳が、僕のことを見つめている。

 僕も、君のことをまっすぐ見つめて、小さく息を吸った。


 君は、僕の顔を見ても逃げなかった。


 だから今度はちゃんと、君に伝えないと。



「篠原さん。好きだよ……。」



 君の目を見つめてそう言うと、君は嬉しそうに笑って僕にキスをした。

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