第12話タウルのポワソンダブリル
早朝、まだ暗いうちに店の厨房に入った八穂は、作り起きしておいたパイ生地を、神様ポーチから取り出した。
店の裏にある自宅は、故郷から飛ばされてきた時のまま、田舎風の木造家屋だ。
神様特典で、敷地内に限り日本にいた時のまま。電気も使えるし、水道ガスも使えている。どういうしくみになっているのかは、八穂にはわからなかった。
この日のために、自宅キッチンのフードプロセッサを使って、バイツ粉とバターで、大量のパイ生地を作っておいた。
八穂は作業台に打ち粉を振ると、麺棒でパイ生地をのばし、三つ折りに畳んだ。
再びのばして、更に三つ折りし、パイシートが完成。
更にもう一度、伸ばした生地の上から、手のひらほどの金属の抜き型で、魚の形を切り抜いていった。
この抜き型は、鍛治職人のアーザンさんに、特注で作ってもらったものだった。
いつもは、武器や農機具などを造っている人なので、最初は苦い顔をしていた。
でも、八穂が何度も説明して頼み込んだので、金属を薄い板にして加工するという作業に、興味がわいたらしい。
色々研究してくれて、ついでに、丸や四角、星やハートなどの抜き型も作ってくれた。
打ち粉をしながら一枚ずつ、パイ生地をきれいに抜いて行くのは、面倒な作業だが、焼き上がりの姿を想像すると、楽しい作業でもあった。
型抜きが終わると、今度はスプーンの丸みを使って生地を押さえ、魚のエラを作った。金串で目の穴を開け、体と尾には、ペティナイフですじを描いた。
こうしてパイ生地の表面に穴を開けることで、焼いた時に出る蒸気を逃がし、膨らみすぎて形がくずれるのを防ぐのだ。
満足の行く仕上がりになった八穂は、小さく鼻歌を歌いながら、天板に乗せた魚型のパイをオーブンに入れた。
パイが焼けるバターの香りを楽しみながら、続いて神様ポーチから出したのは、前日に作って、ゆっくり発酵させたパン生地だった。
バイツ粉に、二十パーセントほどの混合粉を混ぜ、塩とオリーブ油を加えてこねたもの。酵母は、ベリーと水とシュガルで、十日あまりかけて育てた自家製酵母だ。
これを長さ三十センチほどのコッペパンの形にして、さらに発酵させた。
やがて、大きく膨らんだところに、表面にナイフで
バイツ粉に混合粉を合わせて焼いたので、かつて八穂がタウの広場で食べた、混合粉百パーセントの固いパンよりは、口当たりが良く、食べやすいはずだった。
何度も試作を繰り返したけれど、残念ながら、こちらの材料では、日本で食べていたような、ふんわり柔らかいパンにはならなかった。
それは、今後の課題ということで、今回は噛みしめるほどに味がある食感を楽しめばいいと思っていた。。
厨房の中は、オーブンの熱で汗ばむほどだった。
でも、最初はパイのバターの香りが、続いてパンの芳ばしい香りが混ざり合って、おいしさが充満していた。
他にもあれこれ細かい作業が多かったので、仕込みが終わったのは、開店時間の一時間ほど前だった。
八穂は、入口の扉に、今日だけの特別なドアプレートを飾った。
魚の形に切り抜いた木の板には、彼女の自筆で「
さらに、食堂の窓や壁のあちこちに、色とりどりの布で作った魚を飾り付け、テーブルには、魚の刺繍入りのクロスをかけた。
八穂は、カラフルな水族館に変わた食堂を眺めて、頑張って準備した甲斐があったと、満足そうな笑みを浮かべた。
「うわ! なんだこれ」
入ってくるお客さんの誰も、第一声がこれだった。
ブラウンで統一された、落ち着いた雰囲気の店からは、考えられないほど華やかな、色彩にあふれた店内だった。
「ヤホちゃん、俺、パオサンド……」
常連のダナンさんが言うよりも早く、八穂が料理の乗ったトレーを彼の前に置いた。
「今日はこれだけなんだ。特別メニューです」
皿には、大きなコッペパンのサンドイッチ。
横に切り込みを入れて、辛子バターを塗り、塩焼きにした魚の切り身とスライスレモン。
加えて、レタスとスライス玉ねぎが、溢れんばかりにサンドされていた。いわゆるサバサンドだ。
もう一つの皿には、魚の形のパイが一枚。表面には艶やかに杏ジャムが塗ってあり、波の形にホイップクリームが絞り出されていた。
「なんか、すごい料理だけど、特別って?」
ダナンが不審げに皿を眺めた。
「私の故郷の、とある国で、四月の一日は、「
その日は魚の形のお菓子を食べたり、悪気のない嘘をついたり、小さなイタズラをしたりして楽しむ日だった」
八穂は、笑いながら説明した。
本当は地球のフランスという国の風習で、この日は、魚の形のお菓子を食べるらしい。何故魚なのかは諸説あって、はっきりはわかっていないようだ。
四月にはサバがたくさん釣れたから。四月は禁漁だったので、
エイプリルフールのもとになったと言われているイベントなのだけれど、くわしく話す必要もないかと思って、おおよそのことを言っておいた。
「そうなのか、確かに驚いたよ」
ダナンは肩をすくめた。
それから大きなコッペパンを持ち上げて、挟んである具ををのぞき込んだ。
「魚か? パンに挟むなんて珍しいな」
「ティレジウス魚のサンドイッチと、デザート。魚の形だけど
八穂は言って、大きな口を開けてサバサントにかぶりつくダナンに向かって、ひらひら手を振りながら、厨房に引き返した。
店は混み合ってはいなかったが、客足は途切れることがなかった。
今日は珍しい魚のサンドイッチと、薄く焼いたパイが出ていると、噂を聞きつけた冒険者が、入れ替わり立ち替わりに来店したためだった。
彼らは、四月一日の意味なんて、どうでも良かったのだ。いつもと違うカラフルな食堂で、珍しい食事にありつければ幸せだった。
そして、それを逃した連中に自慢話ができる、そう考えただけで、彼らは得した気分になるようだった。
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※ポワソンダブリル:四月の魚。フランスなどで行われていた四月一日の行事。エイプリルフールのもとになったと言われています。
更新時期をはずしてしまったので、季節違いですが……
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