第10話醤油

「こんにちは、八穂です。ダナンさんから、支所長が呼んでるって聞いて来たのですが」


八穂が顔を出したのは、タウル役場に間借りしている、冒険者ギルドのタウル支所だった。

 

最近までは、トワの冒険者ギルドが管轄だったのだが、ダンジョン目当ての冒険者が増えてきたため。急遽、支所を設置したものだった。


近いうちに建物の建設がはじまる予定ではあるのだが、しばらくは、支所長のアランさんと、その奥さんで受付係のカレンさんだけで切り盛りしている。


「ヤホちゃん、いらっしゃい。ごめんね、この通りなので、支所長室へ行ってくれるかな」

カウンターで冒険者の依頼手続きをしているカレンさんが言った。


カウンターの前には十人あまりの列ができていて、話しながらも書類を書く手は止まらなかった。


「はぁい、それじゃ、お邪魔します」

ヤホは横からカウンターの中に入り、後のドアをノックした。


「しつれいします。アランさん、お呼びだと聞いたのですが」

八穂がドアをあけると、先客がいたようだった。


「あ、失礼。来客中だったとは、また後で……」

あわててドアを閉めようとしたところに、支所長のアランから声がかかった。


「いや、大丈夫だよヤホ。入って」

「いいんですか? お仕事のお邪魔じゃ?」

「座って」

八穂がおずおずと部屋に入っていくと、アランは一人がけのソファを指し示した。


 先客の男性は向かい側の三人掛けのソファの端に座っていて、八穂が座ると、軽く会釈した。


「こちら、シローさん。ほら、東の地方で米の酒を造っている人」

アランが紹介すると、シローと呼ばれた男性は、頭を下げた。


「はじめまして、八穂さん、三沢四郎みさわしろうです」

「え? ミサワシロー? あ、はい。七瀬八穂ななせやほです。もしかして?」

日本人の名前に驚いて、初対面にもかかわらず、八穂は思わず聞いてしまった。


「ええ、たぶん、八穂さんと同じ境遇です。こちらへ来たのはもう、十五年ほど前になりますが」

四郎は、笑いながら手を差し出した。

「同郷のよしみで、よろしくお願いします」


 四十歳を過ぎたくらいだろうか、こちらの世界の男性と比べると、やや背が低いけれど、日本人としては平均くらいだろう。


 表情は柔らかく、にこやかで、やや四角張った顔の濃い眉が印象的だった。

この世界では良く見かける、詰め襟風のスタンドカラーの白いシャツを着て、茶色の革の上着を羽織っていた。


「こちらこそ、驚きました。十矢とうやの他にも転移者がいたなんて」

八穂も手を差し出して握手しながら笑った。


「私の家は酒蔵でして、でも経営がうまくいかなくて廃業を覚悟していたのですが、それが何故か、酒蔵ともどもこちらへ来てしまったもので」

四郎は肩をすくめた。


「ご家族も一緒に?」

「いえ、妻がいたのですが、こちらへ来る一年前に死別しまして」

「まあ、それは……」


「いえいえ、お気づかいなく。もう馴れましたから。返って環境が変わって良かったのかもしれません」

四郎は笑いながら言って、顔の前で手を振った。


「それで、米の酒、日本酒をこの世界で?」

「そうなんです。酒米も糀も、仕込み途中だった酒も一緒に来たもので。東の地方には、わずかですが稲作があるんですよ。水田ではなくて陸稲おかぼですけれど」


「そうなんですね、おかげで、私は酒種を分けていただけて、助かりました」

「お役に立てて良かったですよ。商用でトワへ来たもので、ぜひ八穂さんにお会いしたいと思いまして、商業ギルドに照会したら、こちらだと聞いて」

「そうでしたか」


「ま、なんだ、そういうわけで来てもらったんだ」

二人の会話を聞いていたアラン所長は、苦笑しながら言った。

「紹介するまでもなかったけどな」


「アランさん、ありがとうございます。米の酒を造っている人に、一度お会いしてみたかったんです。その上、同郷の人だなんて。十矢とうやにも知らせないと」

「そうか、良かったな。悪いが俺は仕事に戻らせてもらうな。色々話もあるだろうから、ゆっくりしててくれ」

アランは立ち上がると、書類が重なっている机へ向かった。


「実はね、八穂さんにお土産があるんです」

そう言って、四郎は、おそらく神様特典のマジックバッグだろう、八穂が持っているのと似たウェストポーチから、数本のガラス瓶を取り出した。


「これですか?」


 この世界のガラスは、厚みがあり、中に気泡が入っていたりもするのだが、保存用の瓶として一般的に使われている。


 八穂は黒い液体の入っている瓶を、1本持ち上げて眺めた。

「なんでしょうか?」

「匂いを嗅いでみて」

四郎はニコニコしながら言った。


「ええ! これって」

八穂がコルクのフタを開けて鼻を近づけると、以前から欲しくてしかたがなかった、馴染みのある香りがした。


「まさか、醤油?」

「ええ、そうです。醤油」

八穂は瓶を傾けて、黒い液体をてのひらに少し落とすと、口元に近づけた。


「ほんとに? ほんとだ、醤油!」

興奮して立ち上がると、四郎の両手を取り、勢いよく振った。

「醤油、醤油だ、醤油!!」


いつも穏やかな八穂が、興奮して叫んでいるのを見て、書類を見ていたアランが驚いて顔を上げた。

「だいじょうぶか?」


「あ、アランさん、騒がしくしてごめんなさい」

「いや、いいんだが、驚いたよ」

「ずっと欲しかったものが、目の前に出て来たので、つい」


 四郎の話によると、この世界にある大豆に似たソイル豆を使って、醤油が造れないか、数年前から研究してきたということだった。


 普通、酒を造るための麹と、醤油を作るための麹、味噌を造るための麹は、それ専用のものが使われるのだが、酒蔵で使っているのは,当然酒造り用の米麹だ。


 そのため、試作を繰り返して、ようやく昨年、市場に出せる量を仕込むことができたのだという。

醤油の熟成には一年はかかるため、今回できた醤油が、三沢酒造初の醤油なのだそうだ。


「ありがとうございます、四郎さん、研究してくださって。何よりのお土産です」

「いえいえ、私自身、醤油が懐かしくて、食べたかったのですよ」


「そうですよね。味噌は私も造れるんですが、醤油は作り方を知らなくて」


「醤油は、ソイル豆とバイツ麦で作った麹と塩水ですね。じっくり熟成させた後、最後にもろみと液体を分けなくちゃならないのが、時間がかかって面倒です」

「なるほど、でも販売できるほど大量に造るのは大変でしょう」

「まあ、そうですね。酒蔵から離れた所に、醤油専用の蔵を建てました」


「いつか見てみたいです」

「ええ、ぜひおいで下さい、歓迎しますよ」

四郎は微笑んだ。

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