第7話

10


「もういいから、立てよ。『油絵の寵児』と呼ばれた渡井蓮らしくないぞ」


「頼む。この通りだ。ダメなら共同制作ということにしてくれてもいい」


蓮は、床に額を押し付ける。


「おいおい。なんでお前から提案するんだ。図々しいにもほどがある」


「頼む!」


なおも頭を下げ続ける蓮に対し、英司の優越感は、どんでもない勢いで満たされていった。


「なあ、蓮。俺たちが最後に話した美術室でのことを覚えてるか?あの時、お前は言ったよな。俺の描いた絵は、落書きだって。こんなものは絵じゃないって、侮辱したよな」


実験的な意味を込めて描いた絵を、蓮は酷評した。


もちらん英司だって、あの絵を人前に出すつもりもないし、お世辞にも良いものだとは言えない。


だがあの絵から得たものも多くある。


決して無駄だったとは、英司は思っていない。


「お前がダメになった理由を教えてやろうか。蓮・・・残念ながらお前は天才だ。いや天才だったと言った方が正しいか」


タバコに火をつけると、大きく煙を吐いた。


「簡単に絵が描けただろう。思いつくままに絵を描けたはずだ。そしてその絵を周りは評価してくれた。『すごい』『上手』って。だからお前は、絵が描けなくなったんだ」


蓮がゆっくり顔を上げる。


「最初から簡単に絵が描けたお前は、努力してこなかった。何も考えてこなかった。なぜ自分の絵がここまで評価されるのか、なぜ金賞を受賞したのか、考えたことなんて一度もなかっただろう。わかるよ。そんな必要なかったからな。ただ描いていれば、勝手に周りが評価して褒めてくれた。自分は、思いつくまま描いていればよかった。そしてその結果が、今のお前だ」


火のついたタバコを蓮に向ける。


「でも俺は違う。お前の親友として、いつも一緒にいながら、隣で考え続けた。なぜお前が評価されたのか。俺の絵のどこがダメだったのか。お前の絵と俺の絵で違うところはなにか。24時間365日ひたすら考えた。そして必死に自分の腕を磨いた。お前がコンクールで入賞しちやほやされている時も、一人で何時間もキャンバスの前に座り、木炭で真っ黒になった指で、筆を握った」


タバコを口に咥え、テーブルまで行き、置かれていた灰皿に押しつけると、両手を広げて天井を見上げた。


「そして今!こういうことになった」


充足感と優越感で満たれた英司は、感無量だった。


手を下ろすと、蓮にむかって微笑んだ。


「わかったか、蓮。お前は、自分の才能に胡坐をかいて、何も考えてこなかった。技術を磨こうともしなかった。俺がどんなつもりでお前の隣にいたのか、知ろうともしなかった」


スッと真顔に戻すと、恐ろしく冷めた口調で言った。


「今のお前に、絵を描く資格はない」


うずくまり亀のように顔をあげた蓮にむかって、切り捨てるように吐き捨てた。


「一生そうやって地面に這いつくばっていればいい。そして高みへと上っていく俺を、底辺から見上げていればいい」


目を細め、口元をほころばせると、しゃがみこみ蓮の耳元で囁いた。


「もう一度言う」


―――お前は終わったんだ、蓮。


五感が遮断され、感情の起伏を無くしたはずの蓮だったが、その言葉をきっかけに、身体中の感覚と思考が戻ってきた。


脳の中の回路が一つ一つつながっていくと、英司の先ほどの言葉が、耳の奥で鳴り響いた。


『最初から簡単に絵が描けたお前は、努力してこなかった。何も考えてこなかった』


『思いつくまま描いていればよかった。だがその結果が、今のお前だ』


『お前は、自分の才能に胡坐をかいて、何も考えてこなかった。技術を磨こうともしなかった。俺がどんなつもりでお前の隣にいたのか、知ろうともしなかった』


『今のお前に絵を描く資格はない』


『お前は終わったんだ。蓮』


辛辣な英司の言葉の一言一句が、蓮の鼓膜を刺激する。


(違う。違う。違う!)


心の中で、悲痛な叫び声を上げた。


―――お前に何がわかる


拳を握り、全身を震わせた。


その震えは怒りからくるものなのか、それとも悲嘆に暮れ、自分を哀れに思っているからなのだろうか。


確かに英司のように、考えてはこなかった。


でもそれのどこが悪い。


ただ絵を描くことが好きだった。


楽しかった。


それだけではダメなのか。


僕は何か悪いことをしたのか。


ここまで侮辱されるほど、自分は愚かだったのか。


蓮は奥歯を噛みしめた。


英司が大きなため息をつく。


「いつまでそうやってるつもりだ。もう話すことはないから、帰ってくれ。二度とここへは来るな。連絡もしないでくれ」


酒を取りにいくつもりなのか、踵を返すとバーカウンターの方へ足を向けた。


ゆっくりと立ち上がった蓮の目に、テーブルにおかれた灰皿が映る。


感覚が鋭くなっているのか、足裏で床の冷たさを感じた。


部屋の隅におかれた空気清浄機の音がやけにうるさい。


蓮は鼻から大きく清浄された新鮮な空気を吸い込むと、テーブルにおかれた灰皿を掴んだ。


ガラス製の灰皿はずっしりと重い。


口からゆっくりと息を吐く。


バーカウンターの前で、英司はグラスを並べ酒をついでいる。


後ろから近づいた蓮は、手に持った灰皿を英司の後頭部めがけて、力いっぱい振り下ろした。


後ろから衝撃を受けた英司は、つんのめった。


グラスが床に落ち砕け散る。


後頭部をおさえ、苦悶の表情を浮かべた英司が振り返った。


「いってえな!てめえ!」


左手に持った酒瓶をやみくもに振るが、蓮が身をひいたため空を切った。


蓮は、英司の額めがけて、もう一度灰皿を振り下ろす。


ゴッと骨が砕ける音がすると、英司が背中から崩れ落ちた。


仰向けに倒れた英司の額が裂け、血が噴き出す。


酒瓶が手から離れると、透明な液体がこぼれ、床を濡らした。


蓮はその酒瓶を足で蹴とばすと、英司の上に馬乗りになる。


馬乗りになった蓮は、右手を振り上げた。


「蓮・・・。待って―――」


英司の言葉を無視し、容赦なく灰皿を叩きつけた。


灰皿が英司の顔面を砕くたびに、鮮血が飛び散る。


返り血を全身で浴びながらも、蓮は何度も右手を振り上げた。


そのうちに、英司がピクリとも動かなくなった。


ハアハアという荒い息づかいと、空気清浄機の音だけが、蓮の耳に届いた。


11


どれくらいの時間が経ったのだろうか。


蓮は、ポケットの中のスマホの振動で、我に返った。


スマホを出そうと、右手を見て、視線を止める。


赤く染まった灰皿がしっかりと握られていた。


灰皿を離そうとしたが、接着剤で張り付いているように、指が全く動かない。


仕方なく、左手でスマホを取り出すと、慣れない手つきで画面を開いた。


画面には『Y』とだけで表示されていた。


「はい・・・」


「あー蓮か。仕事終わりに悪いわね。ちょっと今後のことで相談したいことがあるんだけど今いい?」


弥栄子の声が、スマホから響く。


「あの・・・」


「ん?どうしたの?家じゃないの?」


よく見ると、英司の身体の上に跨っており、視線を少し上げると、血まれでぐちゃぐちゃにつぶされた英司の顔があった。


「親友を・・・殺しました」


「はあ?」


弥栄子の訝しむ顔が、目に浮かんだ。


30分後、英司のマンションを訪れた弥栄子は、その悲惨な状況に頭を抱えた。


「あんた、何やってんの!」


死体となった英司から離れた蓮は、キッチンの隅でうずくまっている。


目の前には、空になった酒瓶が転がっていた。


「どうすんのよ。これ?あと、誰こいつ?」


ハンカチで口元をおさえる。


「岩谷英司。中学の同級生で、親友・・・」


弥栄子が首を横に振った。


「その親友をなんで殺したのよ」


膝に顔をうずめた蓮は、何も答えない。


「はあーもう!」


ぐしゃぐしゃと、髪を乱暴にかきむしる。


「とにかくあんたを逃がさなきゃ。処理はこっちでやれるからいいとして・・・」


蓮がゆっくり顔を上げた。


「何よ、その顔は?」


生気を失った顔で、蓮が弥栄子を見た。


「詳しくは後で話すけど、今あんたに捕まってもらっちゃ困るのよ。今日はその話をするつもりだったのに、あんたが・・・その・・・こんなことするから予定が狂ったじゃない」


やれやれといった様子で、両手を広げた。


「これからあんたを逃がす方法を考えるから、シャワを浴びてまずは、その返り血を落としなさい。着てる服は、このゴミ袋に入れて、服はこの家のやつを着なさい」


よろけながら蓮が立ち上がる。


「あと手に持っている灰皿をちょうだい。それもこっちで処理するから」


「その・・・手から離れなくて・・・」


困惑げに、蓮が右手をあげた。


「ハア―・・・」


弥栄子が大きなため息をついた。


右手の指を一本一本、丁寧に外してやると、ようやく灰皿が取れた。


廃人のようになった蓮が、風呂場に入るのを見届けると、弥栄子は部屋を拭き始めた。


家主以外の人物がいた痕跡を完璧に消すことは難しいが、指紋だけなら消すことができる。


死体はこのままにしておいて、誰かと争った形跡も残しておく。


蓮が飲んだというビール瓶も回収した。


あとは、この部屋にある現金やブランド物などの金品を盗んでおく。


これで警察は、物取りの犯行だと疑うだろう。


部屋中を物色していた弥栄子は、創作部屋を見つけた。


もしかして、ここの家主は絵描きだったのか。


ならば、絵にもそうとうな値がついているはずだ。


物取りの犯行に見せるなら、盗んでおいた方が、説得力があるがあまり大きなものは持っていきたくない。


事前に準備をしているわけではないので、大きかったりかさばる物は、持ち出すことができない。


一通り部屋の中を見たが、この部屋には、絵以外のものはなさそうだ。


諦めて次の部屋へ向かおうと踵を返すと、蓮が立っていた。


「きゃっ!」


驚いて弥栄子は腰を抜かしそうになる。


「びっくりするじゃない!黙って後ろに立たないでよ」


髪の先からポタポタと水滴を垂らしながら、蓮が部屋の中を見ている。


訝しく感じた弥栄子が、声をかける。


「何?」


「あの絵・・・」


部屋の中央に置かれている、キャンバスを指さす。


「あの絵が何よ?」


「あれを持って帰りたい」


「ハッ?バカのこと言わないで、あんな大きいものどうやって持ち出すのよ。こっちは急なことでロクに準備してないんだし、だいいちあんなもの持って外に出たら目立つわよ」


弥栄子の言葉を無視した蓮は、創作部屋に入ると、部屋の脇にかけられているキャンバスバックをとり、キャンバスをその中に丁寧にしまった。


そのバックを首から下げ、スタスタと部屋を出る。


「ちょっと・・・もう!」


弥栄子が地団駄を踏んだ。


リビングに戻った蓮が、コップをとろうとキッチンの棚に手を伸ばすと、後ろから弥栄子が叫んだ。


「どこにも触らないで!」


蓮が手を止める。


「指紋を残さないで。さっき全部拭きとったんだから」


「喉が・・・渇いて・・・」


「ここを出たら、好きなだけ飲みなさい。今はダメ」


「でも・・・どうやって出れば・・・」


弥栄子があごに手をやった。


「あんたは、非常階段から外に出て。裏から出れば防犯カメラには映らないし、この時間だから人に見られる心配もない」


「ここ22階ですけど・・・」


「そんなの自業自得でしょ!あんたがしでかしたことが原因なんだから。さあもう行って!」


追い出されるように部屋を出た蓮は、仕方なく非常階段を一段一段降りていった。


一人残った弥栄子は、風呂場を掃除し金品など盗み出すものを、持ってきていたハンドバックに突っ込んだ。


そして部屋を出ると、エレベーターを降り、正面玄関から堂々と出た。


途中に管理人室があったが、カーテンが引かれており、誰もいなかった。


マンションの敷地からある程度離れたのを確認すると、蓮にメールを送る。


1時間後、自宅を訪ねてきた弥栄子を、蒼白な顔の蓮が迎えた。


「無事に帰れたみたいね」


「・・・」


「入っていい?」


蓮が脇に避けると、ずかずかと部屋に入ってきた。


「もう少し掃除しなさいよ」


脱ぎ散らかした洋服をよけ、ソファに腰をおろした弥栄子がタバコに火をつける。


「匂いがつくから、ここじゃ―――」


「何よ。恩人に文句を言うつもり」


弥栄子が目を吊り上げ、にらみを利かす。


蛇ににらまれたカエルのように、蓮は身を縮めた。


深々と息を吸い込んだ弥栄子は、盛大に煙を吐き出した。


白い煙が、埃と共に宙を舞う。


「それで・・・あんたこれからどうするつもり?」


部屋の壁によりかかった蓮が、うつむいた。


「どうするって・・・」


「あんたが殺した岩谷英司って、そこそこ有名人じゃない。ネットで調べたらすぐ出てきた。『新進気鋭の油絵師』今度ニューヨークで絵の発表会かなんかやるんでしょ」


「発表会じゃなくて・・・個展」


「そんなのどっちでもいいわよ。とにかくそれだけの有名人なんだから、死体はすぐに見つかって、警察が捜査に乗り出すわよ。そしたらあんたは真っ先に疑われる」


蓮の虚ろな瞳が、わずかに揺れた。


「一応指紋は拭きとってきたけど、防犯カメラにあんたの姿をばっちり映っているだろうし、同級生であることもすぐにバレる」


「別に・・・隠してるつもりもないよ」


「いちいちうるさいわね!黙って聞きなさい。あのね、あんたが殺人罪で逮捕されようが、私にとってはどうでもいいことなの。でも権藤さんがそれじゃ困るのよ」


「権藤さん・・・」


「あんたの仕事。偽造サインとか贋作のことよ。今日そのことを話そうと思って最初に電話したの。いい、よく聞きなさい」


そう言うと、キョロキョロと辺りを見回した。


「ここって灰皿ないの?」


ゴミ箱から空き缶を拾った蓮が、差し出した。


「あら、気が利くじゃない」


肩をすくめた弥栄子が、空き缶の中にタバコを落とす。


「何の話だっけ・・・そう!今後の話よ。いい、よく聞いて。私も権藤さんもあなたの仕事ぶりを、評価してる」


前屈みになった弥栄子が、蓮を見据えた。


「だから今後はもっとあんたに多くの仕事をしてもらおうと思って、いろいろこっちでも準備してる。当然その分のギャラは弾むわ。それであんたはどう思うのか、それを聞きたかった。なのに―――」


弥栄子が頭を抱えた。


「・・・警察に目をつけられたあんたと、今後も関わっても大丈夫なのか。下手に関わって私達のことがバレたら、大変なことになる。権藤さんもそういう意見だと思う、まだ報告してないけど」


肩を落とした蓮が、つぶやいた。


「・・・ごめんなさい」


弥栄子がバッと顔を上げた。


「やめて!別に謝ってほしいわけじゃない。問題はこれからどうするかよ」


目頭をおさえると、目をつぶった。


権藤に今回の件を報告すれば、蓮と縁をきれと言われるだろう。


しかも、蓮が警察に逮捕された時のことを考え、最悪の手にうってでるかもしれない。


言った通り、蓮がどうなろうと知ったことではないが、それではなんとなく後味が悪い。


だがこれは悪い方の結果であり、今回の場合はちょっと事情が変わるかもしれない。


蓮の書く偽のサインや贋作は、出来がいい。


ブローカーからの評判も上々で、かなりの高値で取引される。


そのおかげでうちの売上は、うなぎ上りだ。


権藤も最近は上機嫌で、もっと蓮に書かせろと、札束を数えながら、ほくそ笑んでいた。


ドル箱である蓮を、今失ってしまうのは、非常に惜しい。


権藤もそう考えるかもしれない。


そうなればうちの方で、蓮を保護しようと、言うことになる。


可能性は低いが、これがまだ良いほうの結果だ。


弥栄子としては、蓮がどうなろうと知ったことではないが、マンションに行ってしまった手前、何かしらの容疑が自分にかかるかもしれない。


それはなんとしても避けたい。


さらに欲を言えば、売上のためにも、蓮は手元においておきたい。


蓮と縁を切るか、このまま手元においておくか、もしくは自分に容疑がかかるのを防ぐため、蓮を警察につきだすか。


目の前に並べられた三枚のカードの内、どれが自分にとってメリットが大きいか、弥栄子は頭をフル回転させた。


ふと目を開けると、玄関に置かれている黒い四角形の薄っぺらいバックが目に入った。


「その持ち出してきた絵は、どうするの?」


弥栄子が視線で示す。


「これは・・・」


蓮が言いにくそうに、口をもごもごとしている。


「何よ。はっきり言いなさいよ」


「これは・・・」


声に少し力が入る。


「すごい絵だ・・・。過去に見たことがない。僕でも描けない。英司だから、あいつだから描けた。他の人が何十年かけても描くことはできない。唯一無二の絵画。これを超える絵は、これから先、出てこないかもしれない。天の絵。天上の絵画だ」


話しているうちに、蒼白だった顔色が少しずつ肌色になり、生気を失っていた瞳が輝きを取り戻し始めた。


「こんな絵を、僕も描きたい」


最後の言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。


「フーン」


立ち上がり伸びをした弥栄子は、バックの元へ向かうと、ボタンを外し中に入っていたキャンバスを取り出した。


「ちょっと・・・大切に」


慌てて蓮が手が伸ばす。


「心配しないで。これでも物持ちはいいほうなんだから」


ソファの上に、キャンバスを置いた弥栄子は、後ろに一歩下がり目を細めた。


「これがねぇー。そんなふうには全く見えないけど」


「芸術脳がない人にはわからない」


ムッとした弥栄子が、蓮を睨んだ。


だが絵を見る蓮の眼差しが、決して冗談ではないことを物語っている。


「この・・・天丼?天井だっけ?どれくらいの値段がつくの?」


蓮がかぶりを振る。


「値段なんてつけられない。そんな物差しでこの絵は評価できない。」


「へえ」


つまりものすごく高いということか。


弥栄子は、心の中で舌なめずりをした。


しかし、描いた本人が死んでしまった以上、表のルートで売りに出すことはできない。


権藤に相談し裏ルートから、流すしかないか。


「・・・こんな絵を僕も描きたかった」


蓮がつぶやく。


「さっきから、そう言ってるけど、だったらあんたが描いたってことにすれば?」


驚いた蓮が弥栄子を見る。


「冗談よ。本気にしないで。作者はもうこの世にいないと言っても、誰かに見せたことはあるでしょ。有名人だったわけだし。あんたが描いたって言ってもすぐに嘘だってバレるわよ」


弥栄子の言葉と、英司の言葉が重なる。


「いや・・・」


蓮が小さく首を横に振った。


『そして蓮。お前にどうしても最初に見せたかった』


「英司は、まだ誰にも見せていない。僕に初めて見せると言ってた」


「マジ!」


それが本当なら、蓮が描いたものだと言って、売りに出せば、莫大な金が入る。


「やったじゃん!じゃああんたが描いたものだって言っても、誰も疑わない」


「でも・・・そんな―――」


「自分も描きたいって言ってたでしょ。だったらそうすればいい!作者は死んでるし、誰もこの絵を見たことがないなら、バレることはない」


「いや・・・えっ」


本当にそんなことが叶うのか。


確かに英司に譲ってほしいと、頭を下げた。


それだけこの絵に魅了された。


自分もこんな絵を描きたいと思っていた。


でも今の自分では、描くことができない。


だからこそ、この絵を描いたのは自分であると暗示をかけ、周りから評価されれば、同じようにまた描けるようになるのではと思った。


「本当にそんなことできるのかな・・・」


蓮の瞳の奥で、欲望の光が底光りしているのがわかった。


弥栄子が、背中を押す。


「大丈夫よ。あんたも昔は絵描きだったんでしょ。昔、賞をもらったとかなんとか。だったら不自然なことはない。『自分が描きました』って堂々と胸を張ればいい。私もフォローしてあげるから」


おずおずとした手つきでキャンバスを持ち上げると、鼻腔の奥が熱くなった。


「これを僕が・・・」


キャンバスを高々と掲げる。


「そう。あなたが描いたの」


弥栄子が耳元で、誘惑するように囁いた。


一筋の涙が、蓮を頬をつたう。


それは喜びの涙か、後悔の涙か、蓮にもわからなかった。


<第八話へつづく>

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