第6話

9

高校で、これまで培ってきた技術、経験の全てが開花した英司は、数々のコンクールで賞を総なめにした。


新たな天才の誕生に、周りの生徒達は歓喜し、もてはやした。


しかし英司自身は、どこか物足りなさを感じていた。


(蓮がいないところで、勝っても意味がない)


英司のライバルはあくまで蓮であり、彼の絵に勝つことが目標だった。


一方の蓮は、以前のような絵を描くことができなくなっていた。


相変わらず湯澤の元に通ってはいたが、集中力に欠け、気もそぞろで満足のいく作品を描くことができない。


そしてそのことに最も危機感を感じていたのは、当の蓮本人ではなく、湯澤の方だった。


キャンバスの前に座っても筆もとらず、虚ろな目で放心状態の蓮に対し、湯澤は怒りをつのらせた。


「いい加減にしなさい!いったいいつまでそんなことをしているつもりですか!何でもいいから描かなければ、何も進みません。さあ筆を握って!」


筆を無理矢理、握らせたところで、蓮がそれをキャンバスにあてなければ意味がない。


湯澤は、抜け殻のようになってしまった蓮に対し、とにかく何でもいいから描くように迫った。


しかしそんなことをすればするほど、蓮の心は湯澤から離れていき、教室へ通う頻度も少なくなっていった。


だが、どれだけ湯澤に責められても、ずっとキャンバスの前に座っているだけだとしても、教室には通い続けた。


それには理由がある。


蓮は探していた。


子供の頃に感じた、背筋を走るゾクゾクとした快感、絵の世界に没入したときの高揚感、自分がここではないもっと別の場所へ、高く高く昇っていく征服感と絶頂。


それは必ずどこかにあるはずだと、探し求めていた。


そしてそのきっかけをくれた湯澤の教室なら、見つけられるはずだと信じていた。


ところがそのことに気がついていない湯澤は、蓮をどんどん追いつめていった。


「今日もまた何も描かないつもりですか?いったい何のためにここに来ているんですか!描く気がないなら、もう来ないでください!」


蓮の心の内を知らない湯澤は、一方的にやる気がないだけだと決めつけ、話を聞こうとはしなかった。


温和で優しい湯澤に憧れていた蓮は、失望し高校二年の夏休み前の七月、ついに教室へ通うことをやめてしまう。


絵を描く気力も場所も失ってしまった蓮は、空虚な日常を過ごしていくことになる。


寝て起きて、通学し帰宅する。


そんな無味無臭な生活の繰り返しが、高校三年に進学するまで続いた。


高校三年になると、周りは次の進路についての話題で持ち切りになった。


蓮が通う『桐鹿学園』の卒業生の進路は、おもに三つ。


大学に進学するもの。


絵の専門学校へ進学するもの。


就職するもの。


蓮も自分の進路を考えなければいけない時期にきていたが、そんな気になれなかった。


担任との進路相談でも、うわの空で話が全く前に進まない。


心配になった担任は、両親に連絡し急遽三者面談が開かれることになった。


蓮のためにわざわざ仕事を休んだ父親も参加し、母親と担任、合計四人で面談行われた。


「蓮君はどうしたい?」という担任の言葉にも、蓮は口を噤み「何か言いなさい」と喚く母親の言葉を無視した。


父親は黙って蓮の顔を見ているだけだった。


何の進展もないまま、お開きになった三者面談の帰り道、不満たらたらの母親を尻目に、父親が蓮に声をかけた。


「もう絵は描かないのか?」


聞こえているはずなのに、蓮は何も答えない。


「父さんな。子供の頃、ピアノ奏者になりたかったんだ」


思いもしない父親の告白に、蓮は目を丸くした。


「もう何十年と弾いてないが、けっこう上手かったんだぞ。コンクールで入賞したこともある」


自慢げに語る父親の顔が、少しだけ華やいで見えた。


父親のこんな顔は初めて見る。


「本気でプロになろうと考えたこともあった」


日が暮れてきたせいか、父親の横顔に影が差す。


「・・・なんでやめたの?」


苦笑いを浮かべると、父親が言った。


「もう疲れた」


「えっ?」


言ってしまった自分が照れくさいのか、はにかみながら父親が答えた。


「その・・・なんだ・・・。うまく弾こう、誰よりもうまくなりたいってずっと頑張ってきたんだけど、ある時急に何もかも嫌になってな。コンクールで入賞しても、またすぐ次のコンクールがきて、そこには自分よりももっと上手いやつがうじゃうじゃいて・・・。やっとここまで登ってきたのに、まだ頂上じゃないのか。まだ登るのかって。急に何もかも嫌になった」


うつむいた父親が、寂しそうに笑った。


「上を向いたらキリがない。そう思ったら途端に、ピアノを弾くことができなくなって、それっきりだ」


その言葉は、蓮の頭の上に、重くのしかかってくる。


「まあ蓮とお父さんが同じってわけじゃないと思うから、参考にはならないかもしれないが・・・。そういうこともあるって覚えておくといい」


『上を向いたらキリがない』


蓮も父親と同じように、感じたことが何度かある。


描いても描いても終わりが見えない。


長い時間をかけて一枚の絵をかきあげ、やっと筆をおけると思ったら、すぐに次のコンクールがやってきて、また筆を掴む。


ここ何年間もそんなことの繰り返しだ。


「でも・・・。絵を描くことは好きなんだ」


誰に聞かせるわけでもなく、一人つぶやいた蓮の隣で、父親が小さく頷いた。


「ちょっと二人とも早く来てよ。遅くなっちゃうじゃない」


気がつくと、先を歩く母親との距離がだいぶ開いていた。


「あーごめんごめん」


手をあげた父親が、母親の元に駆けていく。


その後ろ姿はどこか儚げで、弱々しくも見えたが、過去を振り切った男の清々しさがあった


夏が終わり秋の気配をかすかに纏った空を、オレンジ色の夕焼けが鮮やかに彩った。


英司は早々に推薦での大学進学を決め、残りの高校生活を絵の勉強に費やした。


早朝の誰もいない美術室で絵を描き、授業が終わったあとも、遅くまでキャンバスと向き合っていた。


冬休みを目前に控えた、初冬のある日、英司が美術室の扉をあけるとそこに、よく知る人物が立っていた。


「蓮?」


時刻は七時半、暖房設備の整っていない美術室は、筆の先が凍りついてしまいそうなほど寒かった。


蓮はキャンバスが並んでいる棚を見つめながら、両手をこすり合わせていた。


「こんな寒いとは思わなかった」


ハアと自分の両手に、息を吹きかける。


「ストーブを入れてくれって顧問の矢崎に頼んでいるんだが、なかなか話が進まない」


英司は、つけていた手袋を外すと、蓮の方に投げてよこした。


「ないよりはましだ」


「・・・ありがとう」


蓮が手袋をはめるのを見届けた英司は、背負っていたリュックをおき、絵を描く準備を始めた。


「蓮がこんなところに来るなんて珍しいな」


「授業では何度か来たことはある」


「蓮のクラスは第二じゃなかったっけ?」


「補習のときは、第一美術室なんだ」


「フーン」


英司が興味なさそうに言った。


「最近はどうだ?良い絵は描けたか?」


「・・・全然」


「でも湯澤先生のとこに通っているんだろう」


「まあ・・・」


蓮は言葉を濁した。


「せっかく来たんだから、描いていくか?」


壁に立てかけてあるイーゼルを示した。


「いや・・・。遠慮しとく」


「・・・そっか」


棚からキャンバスを取り出した英司は、イーゼルにのせ、その前に座った。


パレットに絵の具を出し、筆をなじませる。


「これどう思う?」


描きかけの絵を、目線で示す。


後ろから覗いた蓮は、顎を引いた。


奇抜な色使いで描かれた謎の物体が、キャンバスを隙間なく埋め尽くしている。


「これは・・・」


「今までと違った感じで描いてみたくてな、新しいことにチャレンジしてみた。別にコンテストに出品するわけじゃないからな。これまでにはない色使い、構図、煩雑な線、支離滅裂な表現。自分の中にあるこれまで感じたことのない、新たな感覚というか、価値観みたいなものが生まれそうだ」


蓮は理解の範疇を超えた絵を前に、首を傾げる。


「なんて言うか・・・。すごいな」


「目が点になってるぞ」


英司が苦笑する。


「絵がうまくなるには、ひたすら描くしかない。描いて描いて描きまくる!あれこれ難しく考える必要はない。ただキャンバスの前に座って、筆を握って絵の具をつけて描く。ただそれだけだ」


―――わかるか?蓮。


「お前は考えすぎだ」


声を落とした英司が、振り返った。


「最近描いてないだろう。今のお前を見たらなんとなくわかる」


英司の見透かすような眼差しに耐えきれず、蓮は視線を下げた。


「・・・少しは描いているよ。でもなんか・・・前みたいに上手く描けない」


「うまく描く必要なんかない!」


英司が声を上げた。


「これを見てみろ!全然うまくない。人に見せられるような代物じゃない。でもそれでいいんだ。描いたことに意味がある。俺はこの絵を描いたことを後悔してない。むしろ満足してる」


話してるうちに気分が高揚してきたのか、立ち上がると声量がどんどん大きくなっていった。


「だから蓮も描いてみろ。あれこれ考えずに、とにかく描くんだ。すると見えてくるものがある。わかってくるものがある。いいか?何も難しいことじゃない。文字を描けない子供だって絵を描くことができる。文字よりも絵の方が簡単だ。なぜなら正解がないからだ。うまいか下手かは、他人からの客観的な評価しかない。でもそれが正解かというと決してそうじゃない。ゴッホだって死んでから評価された。生きてる間は、全く評価されなかった。なぜだかわかるか。その当時の人々にはそれが不正解だったからだ。だが時代が変わり不正解だったものが、正解になった。つまり絵の世界に不正解も正解もない。実は上手いも下手もない。たまたまその絵が評価されただけ。それだけだ。この絵だって、何十年後かに評価されるかもしれない」


キャンバスをつかむと、蓮の眼前に突きつけた。


「わかったか、蓮。絵の世界なんてそんなものだ。難しく考えるな」


蓮を励ます一方で、英司は優越感に浸っていた。


自分がいかに優れているか、饒舌に語り、現実をまざまざと見せつける。


蓮が描けなくなっていることには、ずっと前から気がついていた。


その原因がどこにあるのかも、薄々わかっていた。


手に持ったキャンバスを教室の脇におくと、新品の何も描かれていないキャンバスをイーゼルにおいた。


「さあ、蓮。描いてみろ。俺が今言ったみたいに、何も考えず、うまく描こうなんてせず、思いつくままに描いてみろ」


下書き用の木炭を手に取り、蓮に差し出す。


英司の顔と差し出された木炭を見比べながら、蓮は逡巡していた。


英司の言いたいことは、なんとなく理解できたが、どこか納得できなかった。


「絵は・・・そんな単純なものじゃないよ」


凍えてしまいそうな寒さの中、吐く息が白い。


この白さを描くには、どんな色がいいだろう。


よく見ると、白ではなく透明に近い。


透明をどう描こうか。


蓮はそんなことを空想していた。


「絵は・・・もっと複雑だよ」


英司が訝しげに、目を細めた。


「描いていくとわかる、その複雑さに。いつも思ってた。難解なパズルを解いてるみたいだって。正解なんてない。でも不正解もない。複雑で深くて、実体のないふわふわとした泡みたいな感じだ。触れると弾けて、すぐに無くなってしまう。でもたまに手のひらにくっついて形を残すことがある。その残った泡は、虹色に輝いて、すごく綺麗なんだ。それを見つけた時の上っていく感じ。その時の高揚感は、何物にも代えがたいものなんだ。でも最近その泡が見えなくなった。描いても描いても泡が見えない。消えるんじゃないんだ。泡そのものがない。元々そんなもの存在しなかったみたいに、現れてくれない」


―――だから、描けない。


木炭から視線をはずし、英司の顔を見据えた。


「その泡を見るためには、描かないとダメじゃないのか?」


「ん・・・」


蓮が首をひねる。


「そうじゃないんだ。英司みたいに上手く言えないんだけど、・・・そうじゃない」


「じゃあ何だよ」


抽象的で遠回しな言い方に、イラついてきたのか英司が語気を強める。


「んー・・・英司に言っても理解できないよ。こんな絵を描く君には・・・わからない」


英司が眉間に皺を寄せた。


「どういう意味だ」


壁にたてかけられたキャンバスに、視線を向けると抑揚もなく淡々とした口調で言った。


「あれは、絵じゃない。だたの落書き。文字の書けない子供が描いた絵と変わらないよ。あんなものを絵だと言う英司には、わからない。君と僕は違う」


何の穢れもない、ただただ純粋な言葉に、英司は憤りを感じた。


まだ嫉妬や妬み、羨望が混じった蓮の強がりが感じられればよかったのだが、そんな気配は微塵も感じられなかった。


「・・・絵を描くのをやめたお前が偉そうに言うな」


「やめたわけじゃないよ」


こちらを見る蓮のまっすぐな瞳が、怒りの炎に油を注いだ。


「だったら描いてみろよ!」


手に持っていた木炭を、投げつける。


蓮の足元に転がった木炭は、半分に折れていた。


「・・・ごめん。英司を怒らせる気はなかったんだ。ただ僕にはそう見えて・・・」


突然向けられた理不尽な暴力に気がついていないのか、殊勝な態度の蓮が木炭を拾う。


「お前のそういうところが昔から気に入らなかった」


「えっ」


木炭を投げつけられたんだ。


もし当たっていたら、怪我をしたかもしれない。


しかもその理由は、絵の感想を述べただけ。


『絵の評価に正解も不正解もない』


つい今しがた英司自身が語った言葉だ。


それにも関わらず、憤りを感じた英司は、理不尽な暴力で訴えた。


これが他の人間だったら、怒りを露わにし、言い争いになるか、暴力でやり返してくるだろう。


もしくは、愛想を尽かしこの場を去るかもしれない。


だが蓮は違った。


自分が悪いと、自ら謝った。


一見、蓮の心が広く、優しさに満ちていると見えなくもないが、英司にとっては最も残酷な行動だった。


言い返すこともせず、謝罪したということは、自分の非を認め、受け入れたということだ。


これは、相手を想った行動にも見えるが、裏を返せば、常に相手を下に見て、自分が上の立場、有利な位置にいるという優越感、自信の現れでもある。


ここで蓮が憤慨し、喧嘩にまで発展していたら、英司はやっと対等な立場になれたと安堵したことだろう。


だが蓮は謝罪した。


蓮がいまだに自分を下に見ているという現実は、英司の燃え上がった怒りの炎を急速に冷まし、失望という燃えかすを残した。


「もういい。朝練の続きがしたいから、部外者は出て行ってくれ」


能面のような無表情を作った英司は、踵を返し、背中を向けた。


すぐ目の前にいるはずの英司の背中が、遠くに感じられた蓮は、悲しそうな顔でうつむき、口を閉じた。


あの美術室での出来事から、何十年経っただろうか。


ずっと自分を下に見ていた蓮が、跪いて額を床に擦り付けている。


そして今、それを上から見下ろしている。


うずくまる蓮の背中を見て確信した。


自分はこの時を、ずっと待ち望んでいたと。


<第七話へつづく>

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