第5話

8

小雨が降る中傘もささず、歩いて英司のマンションを目指した。


時刻は20時を過ぎたばかりで、黒い雲に覆われた夜空が、蓮の行き先に広がっていた。


今から向かうことを英司に伝えると、電話越しにも関わらず、彼が上機嫌でいることがわかった。


どうやら酔っぱらっているらしい。


「迎えをやろうか」という英司の心遣いを「もう近くまで来ているから大丈夫だ」と言って断った。


そんな電話でのやりとりがあってから、すでに一時間は経っている。


近くにいると言ったのに、いつまでたってもやってこないことを訝しく思っているかと思ったが、あれから何の連絡もないので、気にしていないのだろう。


さらに30分ほど歩いて、ようやく英司の住む高層マンションが見えてきた。


雨雲に覆われた真っ黒な空を背にそびえ立つ、巨大な光のタワーが目に飛び込んできた。


英司から住所を聞いた時点で、うっすら予感をしていたが、想像以上の荘厳な建物に開いた口がふさがらない。


ようやっとマンションの敷地に足を踏み入れることができたが、次は入口が見つからない。


敷地内をぐるぐると探し回っていると、警備員の格好をした男性を見つけたので、入口はどこかと尋ねた。


男性は傘もささず、ずぶ濡れの格好でいる蓮を、怪しく思ったのか、警備員室に来るようにと、腕をつかんだ。


「自分は岩谷英司の友人で、彼を訪ねてきただけだ」と何度も訴えたが、聞き入れてはもらえなかった。


結局警備員室まで連行された蓮は、タバコの匂いが充満した中で、今にも崩れてしまいそうな古いパイプ椅子に座らされた。


男性は、名前と年齢を聞くと「確認するから待っていろ」と、横柄な態度で言った。


憤りを感じた蓮だったが、ここで騒ぎを起こさば、本当に警察を呼ばれかねない上に、英司にも迷惑がかかると、自分に言い聞かせた。


警備員室にある受話器を取り、何やら話をしていた男性は、受話器をおくと「確認がとれたからどうぞ」と淡々と言った。


「ここを出て左にまっすぐ進むと、エントランスが見えてくるから、そこで部屋番号を押してオートロックを開けてもらってください」


どうやら英司と連絡がついて、確認がとれたようだが、疑ってかかったことを謝る様子もなく、顎で出口を示した。


我慢の限界に来ていた蓮だったが、椅子の上で前屈みになり、じっとこちらを見据えてくる男性の、迫力に押されそそくさと警備員室を後にした。


光輝く大理石の床でできた、塵一つ落ちていないエントランスに入りオートロックの前のインターフォンで「2203」と入力すると、呼び出し音が鳴った。


ふと見上げると、天井に監視カメラがある。


何度目かの呼び出し音の後、突然自動扉が開いた。


住人が出てきたわけでもなく、インターフォンからの応答があったわけでもないので、このまま入っていいものか逡巡していると、扉が閉まり始めたので、慌てて身体を滑り込ませた。


22階行きのエレベーターを探してマンションの中をうろうろしていると、先ほどと同じようなインターフォンとオートロックの扉を見つけた。


ふと見ると「20F~」と書かれていたので、どうやら20階以上の住民専用のエレベーターがこの奥にあるようだ。


ここの天井にも監視カメラがあった。


「2203」と入力すると今後は、すぐに応答があった。


「ゴール!蓮君のタイムは3分40秒で~す。かなり迷いましたね~。これまでの最遅記録は2分50秒でしたから、大幅更新ですね」


ケタケタと楽しそうに英司が笑っている。


蓮は冷静さを装って聞いた。


「ここで合ってる?」


「・・・あー合ってるよ。今開ける~」


ヘラヘラと英司が答えると、扉が開いた。


「ありがとう」と伝えたがすでにインターフォンは切られていた。


エレベーターで22階まで上がり、英司の部屋番号を見つけた。


蓮がインターフォンを押す前に、先に扉が開きジャージにパーカー姿の英司が顔を出した。


「どうぞ~」


手にはビールの瓶を持っている。


「・・・おじゃまします」


広々とした玄関には、高そうな靴が何足も並べられており、入ってすぐの廊下の壁には、何枚もの絵が飾られていた。


「警備のおっさんから、連絡が合った時は驚いたよ。不審者が俺を訪ねてきたって息巻いてた。警察に突き出す勢いだったぞ。高校の親友で問題ないって言ったら、すぐに信用してくれたが、そんな格好じゃ疑われても仕方ないな。傘はどうした。ずぶ濡れだぞ。それじゃ不審者と思われても文句は言えない。これで拭いてくれ」


そう言って、タオルを投げてよこした。


廊下に飾られている絵画は、どれも入手困難なものばかりで、もはや値段さえつけられないものも混ざっていた。


「これだけのものを・・・すごいな」


タオルで髪を拭きながら、感嘆な声を漏らした。


「ん?あー・・・別に大したもんじゃないよ。知り合いから譲り受けたものばかりだ」


ビール瓶を片手に、英司がフラフラとした足取りで進む。


廊下の先には、これまた広大なリビングがあり、奥にはキッチンもあった。


隣にはバーカウンターも併設されており、色とりどりの酒瓶と磨き上げられたグラスが並んでいた。


リビングの窓から、東京の夜景を一望することもできた。


「適当に座ってくれ。蓮もビールでいいか?」


「うん」


緊張しながら、L字型の紅色のソファに腰を下ろす。


「悪いな。急にミーティングが入っちゃって。その後、みんなで飲んでたんだ。蓮が来ることはわかってたから、一人だけ先に抜けてきたんだが・・・」


「いや。行きたいって言ったのは、こっちの方だから・・・。忙しいところごめん」


ビール瓶の栓を抜きながら、英司が笑う。


「相変わらずだな、蓮は。気が小さいというか、相手の顔色を気にしすぎるというか。そんなんじゃ疲れないか」


首を傾げた蓮が、苦笑いを浮かべた。


「学生の頃は、そんな感じだったけど。最近はあまり気にしないようにしてる」


英司が振り返った。


蓮が続ける。


「他人は他人、自分は自分。そんなふうに思えるようになった。というか・・・そう思わないととてもじゃないが、生きていけなかった」


光を失った蓮の瞳が、彼が歩いてきたいばらの道と、抱え込んできた闇を物語っていた。


英司は、一瞬口角をあげ嘲笑を作ったが、すぐに真顔に戻した。


「お互い苦労してきたわけだ・・・。さあさあ今日はそんなこと忘れて、久々の再会を祝おうじゃないか!」


ビール瓶を手渡した英司は、キンと瓶同士をぶつけた。


「蓮、タバコは?」


「いや吸わない」


「吸ってもいいか?」


「どうぞ」


英司はタバコケースから一本抜き取ると、火を点けた。


祝おうと張り切っていた英司だったが、会話を盛り上げようとはせず、黙ってタバコを吹かし、ビールを口に運んだ。


蓮も会話の糸口が見つからず、ビールを飲みことしかできなかった。


「もう絵は描かないのか?」


沈黙を打ち消すように、英司が明るく聞いてき。


「蓮があまり触れてほしくない話題なのは、十分わかってるが、昔のライバルとしてはどうしても気になってな。どうなんだ?」


「・・・もうずっと描いてない」


偽りを口にした蓮は、頭を落とし下を向いた。


蓮が言いにくそうにしているにも関わらず、尚も英司は続ける。


「描きたいって思うことはないのか?」


蓮は下を向いたまま、かぶりを振った。


「フーン。『油絵の寵児』とまで言われた渡井蓮がね」


皮肉めいた笑みを浮かべると、立ち上がった。


「蓮に見てほしいものがある。ついてきてくれ」


そう言うと、リビングの扉を開け、廊下に出た。


大の大人が二人横並びでも、余裕で通れる広さがある廊下を進むと、右側の扉をあけた。


そこは、10畳くらいしかない小部屋で、窓が一つもないせいだろうか、暗く淀んだ空気が流れていた。


しかしどこかで嗅いだことがある、懐かしい匂いがした。


「さあ入ってくれ。ここが俺の創作部屋だ」


なるほど、懐かしく感じた匂いは、絵の具やニスの匂いか。


英司が明りをつけると、綺麗に整理されたリビングや玄関と違い、乱雑に積まれたキャンバスやイーゼル、乾いた絵の具がこびりついたままのパレット、使い古された筆など、雑然とした部屋の様子が目に飛び込んできた。


そして入口から見て、一番遠い場所、部屋の角に布がかけられたキャンバスとイーゼルがあった。


「いやーどうも掃除は苦手でな。気をつけて入ってくれ」


よく見ると床にも所々水がこぼれていたり、絵の具が飛び散っていたりと一歩一歩注意して進まなければならない。


「リビングとか他の部屋は家政婦に掃除させてるんだが、この部屋だけはダメだ。俺以外ここに入った人間はいない。蓮が初めてだ」


それは光栄なことだと、素直に受け取ってもいいのだろうか。


「今日は蓮にどうしても見てほしい絵があってな」


「あれ?」


蓮は、布がかかったキャンバスを指さす。


「おっ!察しがいいな?さすがは渡井蓮だ」


汚れたイーゼルや描きかけのキャンバスの間を抜け、布の前まで行った英司は手をおいた。


「ついに完成した。俺の最高傑作が・・・。これで岩谷英司の名を世界が知ることになる」


独り言のようにつぶやいた英司は、胸を張った。


「見てくれ!」


英司は布の端をつかむと、勢いよく引きぬいた。


現れた絵画に、蓮は息を飲む。


神々しい光を纏った、一人の人物が描かれている。


その光は黄色と白色を中心に描かれているが、赤や青、黒色が細かく散りばめられ、美しいコントラストを表現している。


色使いはもちろんだが、線の一本一本から、構図、全体のバランスに至るまで、全てが計算されていた。


どの色の組み合わせが人の目に美しく見えるのか、直線と曲線のバランスは、どの程度がベストなのか。


現代の技術、技法を全て掌握し、最適解を導きだした完全無欠の絵がここにあった。


「すごい・・・」


蓮にはそれ以上の言葉が、浮かんでこなかった。


「タイトルは『天空の人』でいこうと思ってる」


英司が慈しむように、キャンバスの外枠をなでた。


「この絵を完成させるのに、約三年かかった。そして蓮。お前にどうしても最初に見せたかった。・・・この絵のモデルはお前だ」


「えっ」


「絵を描いている時のお前は、こんな感じだ。他人を寄せつけない光を纏い、はるか高みへと登っていく。俺から見た渡井蓮だ」


過去の出来事を思い出しているのか、遠くを見るような目つきでキャンバスの前に立つ。


「そして、お前に追いつくことが俺の目標だった」


『天空の人』が英司の背中に隠れてしまったが、その背中もまた光を纏っているように見えた。


「俺は、この絵で世界を獲る」


英司の力強い言葉に、鳥肌が立つ。


突然踵を返した英司は、創作部屋を出て行こうとする。


「あの・・・。もう少しここにいてもいいかな」


「・・・好きなだけいるといい」


優しく微笑むと英司が出て行った。


一人になった蓮は、絵に近づくと真正面から見据えた。


近くで見ると、よりその華麗さ、美しさに魅了される。


間違いなく、世界で評価されるだろう。


英司は自分が目指す場所に、確かに上っている。


その高みから見下ろす世界は、どんな景色なのだろうか。


(本当は僕が登るはずだったのに・・・)


―――そこからの景色は僕が見るはずだったのに・・・


蓮の中に、その時初めて『相手を羨む』という気持ちが生まれた。


その気持ちは急速に拡大し、蓮の中を埋め尽くしていく。


湯澤の教室で、初めて鉛筆を握ったときから、絵を描くことができた蓮は、他人の絵に何の感情も持たなかった。


なぜならもっと素晴らしい絵を、上質な絵を自分で描くことができたからだ。


決して他人を見下しているとか、蔑んでいるわけではない。


他人の絵は、蓮の視界に映らない。


蓮は自分が描くことにしか、興味を持っていなかった。


他の人が描いた絵を鑑賞し、学び、共に技術を磨いていくことをしたことがない。


高校生で英司に初めて負けたときも、悔しいと感じなかった。


―――自分の納得のいく絵が描けない。


―――なぜ描けないのか。


そんなことばかり考えていた。


『油絵の寵児』と呼ばれた蓮は、本当に才能が溢れる天才だった。


それゆえに、他人が描いた絵に興味を持たず、自己の世界に没頭していった。


若く才能溢れる頃は、それでも良かった。


だが歳をかさね、時代が急激な早さで変化していく中では、それは通用しない。


自己の世界に没頭し、周りを見てこなかった蓮は、一人取り残された。


気がつくと、蓮だけが誰もいない場所で、一人で絵を描いていた。


誰もいない場所で、何枚何十枚と絵を描こうと、それを見て評価してくれる人間はいない。


蓮は自ら孤独に落ちていった。


そんな時、突然目の前に現れた美しい絵画に、蓮の心は揺さぶられる。


生まれたばかりの他人を羨むという感情を、理性で制御できない蓮は、欲求に支配された。


『この絵がほしい』


喉から手が出るほどの渇望は、蓮の心を蝕み、衝動的な行動へと駆りたてる。


創作部屋を出た蓮は、英司の後を追って、リビングへ戻る。


「あの絵は・・・本当にすごいよ!何もかもが完璧だ!あんな絵を僕はこれまで見たことがない」


興奮した蓮の様子を、英司は満足げな表情で眺めた。


「あれなら必ず世界で評価される。いや歴史に残る傑作だ!」


熱の入った言葉に、蓮自身が高ぶっていく。


「ありがとう。蓮ならそう言ってくれると思ってた」


持っていた瓶を傾ける。


そこで言葉を切った蓮は、改まった態度で言った。


「なあ・・・英司」


「ん?」


蓮の態度に違和感を覚えた英司が、目を向ける。


「頼みがある・・・」


英司は眉をひそめた。


「あの絵は、僕が描いたことにしてもらえないだろうか」


羨望は嫉妬に変化し、渇望を生み出すと支配欲に変わった。


英司は自分の耳を疑った。


「今何て言った?」


顔を上げた英司を力強く見据えた蓮は、はっきりとした口調で言った。


「『天空の人』を僕に譲ってほしい!」


蓮の真剣な眼差しから、冗談で言っているわけではないと悟った英司は、苦笑した。


「無茶なことを言うなよ。そんなことできるわけないだろう」


「お願いだ!この通り」


そう言うと、突然膝をおった蓮が、床に額を擦り付けた。


蓮の予想だにしない行動に、戸惑う英司だったが、土下座の背中を見下ろしているうちに、感情が変化していった。


絶対的な存在だった蓮が、自分の前に跪いている。


小学生で初めて味わった敗北感。


同じ中学の同じ部活に所属しながら、どうあがいても手が届かなった絶望感。


高校で賞を受賞し、やっと追いついた、同じ土俵に立ったと思っていたのに、見向きもされなかった屈辱感。


何十年と辛酸をなめ続けてきた。


それがようやく報われた。


この時、英司は自分の勝利を確信した。


そしてこれこそ自分が、最も望んでいたことであると、理解した。


英司は立ち上がり、窓の外に広がる東京の夜景を眺めながら言った。


「なあ、蓮。ここに来てどう思った?」


蓮が顔を上げる。


「家賃120万、リビング150平米、大理石でできた高級なキッチンにバーカウンター、常駐警備員に24時間使い放題のジム、専属のコンシェルジュもついて、電話一本でタクシー、クリーニング、デリバリーなんかをすぐに手配してくれる」


英司の肩が小刻みに上下している。


「なあ蓮!お前はどう思ったよ」


振り返った英司の顔には、下卑た笑顔がはりついていた。


「いまや俺の絵は数十万円で取引されてる。そしてあの絵を発表すれば、間違いなく数百万円の値が付く。そうなればニューヨークでの個展は大成功だ。岩谷英司の名前は、世界に轟く。わかるか?俺はもっと高みに上る」


高らかに自分の勝利を宣言した英司は、犬のように這いつくばる蓮を見下ろした。


「そんなところで跪いているお前は、今の俺を見てどう思うんだ?」


態度を豹変させた英司に、蓮は言葉を失う。


軽蔑と侮辱の眼差しで見下された蓮の心は、一切の感情を廃し五感から来るありとあらゆる情報を遮断した。


「お前は終わったんだ。蓮」


英司の言葉が、どこか遠くの方で聞こえ、他人事のように思えた。


<第六話へつづく>

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