第4話

6


「蓮の絵のすごいところは、よくわからないところだな」


二か月後に開催される絵画展に向けて、蓮と英司は美術部の活動が終わった後も、二人で残って筆を走らせていた。


「それは褒めてる?」


顎に手をやり眉間に皺を寄せた英司が、評論家の真似事を始めた。


「ルーベンスのようなインパスト技法でありながら、日本独特の油色技法も感じさせる、あまり見たことのない技法で描かれている」


蓮の後ろを行ったり来たりしながら、堂々と語る。


「この一見すると相容れない技法を用いているのにも関わらず、どこか人を引き付ける魅力がある。ではいったいその魅力は何だと言われてもうまく説明ができない。見れば見るほど、謎に包まれていく絵だ」


腕を組みわざとらしく、首をひねった。


「全然褒められてる気がしないんだけど・・・」


蓮は、目を細めた。


「そりゃあそうだ。半分は褒めてるけど、残り半分はそうじゃない」


肩をすくめた英司が、鼻で笑う。


「うるせいよ!」


英司に向かって右手を振ると、持っていた筆の先から絵の具が飛び、真っ白な夏服に緑色をつけた。


「あー!このやろう!」


お返しだとばかりに、英司も持っていた筆を蓮に向かって振る。


すばやい動作で、飛んでくる絵の具をよけた蓮は、舌を出し挑発した。


「バカにしやがって!」


英司はパレットの上に置かれていた、大きさの違う筆を掴むと、それぞれを指を間に挟んだ。


「うわっズル!」


指の間に挟んだ、筆をカギ爪のように広げている英司は、さながらXMENのウルヴァリンのようだった。


「へへへ」


強力な武器を手に入れ、得意げになった英司は、じりじりと距離をつめる。


蓮は、教室の壁際まで追い詰められた。


「英司!三本はズルだよ」


「一本しかダメなんてルールはない」


子供の遊びにルールもへったくれもないのだが、言い返す言葉が浮かんでこない蓮は口を噤むしかなかった。


「くらえ!」


右手を力強く振ると、赤、黄、青の絵の具が蓮の顔面めがけて、勢いよく飛び散った。


とっさに蓮は、横にあった大きくて四角い物体を掴み、飛び掛かってくる絵の具を防いだ。


機転を働かせ、絵の具を防ぐことに成功した蓮は、四角い物体の影から、したり顔を覗かせる。


見ると、腕を振り下ろしたまま、英司が目を丸くしている。


悔しがる姿を想像していた蓮は、訝しげに首を傾げた。


「何だよ?」


恐る恐るといった様子で、英司が指をさした。


「お前それ・・・」


英司の様子がおかしいことに、違和感を覚えた蓮は、回りこんで物体を確認する。


それは描きかけのキャンバスで、夕焼けの校舎を背景に一人佇む女子生徒が描かれていた。


その女子生徒の上に、真新しい赤や黄、青色の絵の具が斜めに線をえがいていた。


この絵は美術部の先輩がコンクールのために、何ヶ月も費やし、数日前にようやく完成したものだった。


「これって成瀬先輩の絵だよな」


「うん。多分・・・」


二人は顔を見合わせた。


「どうする?」


「どうするって、この絵を使ったのは蓮だろ」


「英司が、三本も手に持つからだ」


「最初にやったのは、お前の方だろ」


「その前に、僕の絵をバカにしてきた英司が悪い」


「バカにしたわけじゃない」


「でもからかっただろ」


「まあ・・・な」


「ほらー」と蓮が大仰に騒いだ。


「だからって、絵の具をかけることないだろ。見てみろ。また母さんに𠮟られる」


「水性だから、洗えばすぐ落ちるよ」


「そういう問題じゃない」と英司が唇を尖らせた。


「そんなことよりまずはこれをどうするかだ」


成瀬先輩の絵に、目を向ける。


「どうするって言っても、もう無理だろ。上から塗り直すなんてできない」


英司が絵の前にしゃがんで、顔を近づける。


「参ったな。あの先輩怖いんだよね。ちょっと前に『筆の洗い方が汚い』って怒られたばかりだし」


うなだれた蓮が、弱音を吐いた。


佇む女子生徒を食い入るように見つめていた英司が、突然立ち上がる。


「まあこうなってしまったものはしょうがない!」


「何か考えがあるのか?」


「ふふふ」と英司が不気味な笑みを浮かべて振り返った。


その顔を見て、蓮は嫌な予感がした。


「このままにしておこう」


「えー!」


これまで聞いたことがない、素っ頓狂な声が出た。


英司はその絵を掴むと、元あった場所に何事もなかったように戻した。


「だってどうしようもないじゃん。いまさら描き直すことなんてできないし・・・。ここは知らないふりをした方が賢明だ」


「でもそれじゃあ、成瀬先輩がコンクールに出品できない。また一から描き始めたんじゃ、どう頑張っても間に合わない」


「まあいいんじゃない。この程度の絵じゃ入賞することを無理だろうし。本人も傷つかなくて済む。ある意味ラッキーだった」


冷酷で残忍な言い方に、腹の奥が冷たくなった。


「そんな言い方・・・」


ガラス玉のような大きな瞳で、英司が蓮を見据えた。


「蓮は優しいな。でもそんなんじゃ、絵で一生食っていくことなんて出来ないぜ。見方を変えたら、ライバルが一人減って俺たちにとっても有利だってことだ」


―――お互いにラッキーだった。そう思えばいい。


冷たく言い放った英司の視線を、まっすぐ受け止めることができなかった。


翌日の部活時間、美術部は騒然となった。


準備のために、先に教室に入った新入社員がその絵を見つけ、すぐに成瀬先輩を呼びに行った。


彼女は、赤色と黄色、青色に彩られた自分の絵を前に、泣き崩れた。


その様子を、教室の隅で見ていた蓮は、罪悪感に苛まれ、泣きながら自分の絵を抱え込む彼女から顔を背けた。


隣の英司は素知らぬ顔で、まっすぐ前を向いたまま立っていた。


その後、二人が部活後に残って絵を描くことはなくなった。


結局成瀬先輩は、あの一件の後、美術部を退部してしまう。


蓮と英司は、何事もなかったかのように、美術部へ通い絵を描き続けた。


休日には英司の自宅に集まって、切磋琢磨しながら技術を磨いた。


無事に『全日本油絵大賞展』へ出展する絵を完成させた二人は、達成感と充足感に満たされ、お互いを讃えあった。


「やっぱ蓮の絵には、かなわないな」


「英司の絵だって素敵だよ」


蓮と出会ってから、英司の技術を飛躍的に向上し、コンクールで十分入賞できるレベルの絵を描けるまでになっていた。


父親から受け継がれた才能もあったが、それ以上に同級生である蓮の影響が大きかった。


蓮の技術、筆さばき、独特な色つがいを間近で見ている間、英司はそれら一つ一つを模写することから始め、ある程度習得すると今度は、さらに自分オリジナルの技法へと昇華させていった。


彼はそのために蓮に近づき、唯一無二の親友を演じ続けたのだ。


しかしそのためには、並々ならぬ覚悟と努力が必要だったが、父親を見返したいという一心だけで、それを克服した。


若い頃は、絵描きとして華々しい活躍を見せていた英司の父親であったが、英司が産まれたころから、思ったような絵が描けなくなり、周りからの評価も右肩下がりに落ちていった。


絵描きとしての地位と名誉、自信させも失った父親は自暴自棄になり、自分の中の鬱憤を英司の母親に向けた。


幼い英司は母親が父親に殴られている場面を、何度も目撃している。


そのたびに何もできない幼い自分を責め、父親を憎んだ。


父親への憎しみと嫌悪から絶対に絵描きにはならないと誓った英司だったが、皮肉なことに彼には父親を超える才能があった。


小学生の頃、授業でたまたま描いた絵が賞をとったことをきっかけに、彼は自分の才能に気がつく。


だが、例え才能があっても、それだけで成功できるほど、絵画の世界は甘くない。


父親を見ていて、そのことが痛いほどわかっていた彼は、冷静に状況を見定め、絵描きになるつもりはないと宣言した。


ところが英司の心を変える衝撃的な出来事が起こる。


小学三年生のころ、どうしてもという先生の頼みで『全国小学生絵画コンクール』に出品することになった。


全く乗り気でなかった彼だったが、いざ描いてみると先生や同級生達の反応も良く、入賞は確実、もしかすると金賞も狙えるのではと、大評判になった。


彼自身、良い絵が描けたと自負していたこともあり、結果発表を楽しみにしていたが、蓋を開けてみると彼の絵は、金賞どころか入賞することもなかった。


落ち込む彼に追い打ちをかけたのが、金賞受賞者の名前を知ったときだ。


『渡井蓮 小学三年生』


まさか同じ小学三年に、自分の絵が負けるなんて予想だにしなかった。


いったい『渡井蓮』がどんな絵を描いたのか気になった彼は、特別展示されている美術館に行き、自分と『渡井蓮』との歴然とした差に打ちひしがれる。


―――レベルが違いすぎる。


高価な枠の中に入れられた絵を前に、呆然と立ち尽くしていると「あった。あった。これよこれよ!わあー素敵じゃない」とはしゃぐ女性の声がした。


見ると30代くらいの厚化粧をした女性が絵の前に来て、しきりに写真を撮っている。


彼はその女性の勢いに押され、その場を離れた。


「ほらほら。蓮も横に立って!」


『蓮』という単語にハッとして振り返ると、同じくらいの背丈のオシャレをした男の子が男性と一緒に絵の横に立っていた。


今日のために特別オシャレな恰好をしてきたのか、居心地悪そうにそわそわとしている。


隣に立つ男性は父親だろうか。


男二人で、緊張した面持ちで並んでいた。


「はーい、笑って」


おそらく母親であろう厚化粧の女性が、シャッターを押す。


「次は、私が撮りますからお母様も絵の横に並んでください」


三人の様子を遠巻きに見ていたスーツ姿の男性が声をかけた。


胸ポケットに名札がついていたから、この美術館のスタッフだろう。


(金賞を受賞すると、案内係までつくのか)


「お母さんもういいよ。もう帰ろう」


着慣れない服に我慢できなくなったのか、もしくは周りから見られていることが恥ずかしくなったのか、蓮が文句を言い始めた。


彼は、その光景を恨めしく思いながら見つめた。


あんな気持ち悪い母親のいる、うだつのあがらない同級生に負けたことが、ものすごく悔しかった彼は、奥歯を噛みしめ拳を握った。


美術館を出た彼は、自宅にとって返し、居間で寝転んでテレビを見ていた父親の背中に向かって告げる。


「俺、絵を描くよ。でもお父さんみたいにはならない」


父親の背中がわずかに揺れた。


元々学校の成績が良かった彼は、美術部門に力を入れている名門私立中学『桐鹿学園』への進学をあっさりと決める。


入学後、迷うことなく美術部に入部を決めた彼は、初めて美術室を訪れ、目を疑った。


そこにはあの『渡井蓮』がいた。


7


英司の個展は無事に最終日を迎えることができた。


最終日はあいにくの雨模様だったにも関わらず、英司の知り合いや関係者、さらにネットの口コミを見て足を運んでくれた客達で、一番の賑わいを見せた。


『岩谷英司作品展』は大成功をおさめ、次に開かれるニューヨークの個展に向けての、確かな足がかりができた。


撤収作業もひと段落し、スタッフとの打ち上げも終わると、英司は帰宅のためにタクシーに乗り込んだ。


そのタイミングを見計らっていたかのように、電話がかかってきた。


登録されていない番号からだったが、英司はすぐにピンときた。


「もしもし」


『もしもし・・・。あの、蓮だけど』


「おーやっぱり蓮だったか。なんとなくそんな気がしてたんだ。急にどうした?あっ前は来てくれてありがとな。おかげさまで今日無事に最終日を迎えることができたよ」


『おっ・・・おめでとう』


外にいるのか、雑音が耳に入ってくる。


「ん?今外にいるのか?周りがうるさいな。それでどうした?」


何か言い出しにくいことがあるのか、電話の向こうで蓮が押し黙る。


「うん?」


しわがれた声で蓮が言った。


『今度・・・家に行ってもいいかな』


「なんだ。そんなことか。いいよ!いつでも来てくれ。向こうに引っ越すから、部屋の中はごちゃごちゃしてるが、それは気にしないでくれよ」


酒が入り上機嫌な英司は、ケラケラと笑った。


『ありがとう。・・・明日でもいいかな』


(急だな)と眉をひそめた。


「明日は簡単な打ち合わせが入っているから、夕方くらいからでもいいか?場所はわかるか?この前渡した名刺に住所が載ってたはずだけど」


『あぁ、場所はわかると思う』


「そうか。じゃあまた明日。何かあったら遠慮なく連絡してくれ」


『わかった』


そう言うと、蓮が電話を切った。


(明日行きたいなんて、図々しいことを言っておいて、礼もなしか)と心の中で毒づいた。


「今の電話、誰?」


隣で口紅を塗っている女が、聞いた。


「中学と高校の同級生。ほら一週間くらい前に、俺とギャラリーに一緒に入った奴覚えてない?ちょうど麗香が受付に立ってる時に来た」


麗香と呼ばれた女が、目を細め横目で英司を一瞥する。


「あー。あの汚らしい格好だった人。覚えてる。英司の知り合いにあんなみすぼらしい人がいるんだってちょっと引いた」


手を叩いて、英司が笑った。


「それは言い過ぎ!あー見えて昔は「油絵の天才」って呼ばれてて、俺の親友だった男だ」


女が興味なさげに言った。


「へーそんなふうには見えなかった」


「天才には天才なりの苦労があったんだよ」


「英司も天才じゃん」


女の言葉に、今度は腹を抱えて笑った。


「俺は天才じゃないよ。だたの凡人」


「あんなに絵がうまいのに」


英司が笑顔を消した。


「俺は凡人だ。あいつとは違う。だから学ばせてもらった。あいつの絵を誰よりも長い時間、一番近い場所で観察し続けた。そしてあいつにはないもの、あいつにはできない筆づかい、色、技法を手に入れた。だからここまで昇り詰めることができた」


―――天才のあいつには、到達することができない場所まで来た。


麗香は口紅を鞄にしまった。


「天才の親友を踏み台にしちゃったんだ」


「踏み台か・・・。確かにそうだな」


「罪悪感とかはないの?」


「罪悪感・・・」


英司は顎に手をやり、タクシーから外を眺めた。


「高校生のころ、コンクールであいつより、上位に入賞したことがある。今までは俺が下であいつが上だったから、その時が初めてのことだった。俺は喜んだよ。周りも祝福してくれた。でも当のあいつだけは、何も言ってはこなかった」


「悔しかったんじゃないの?」


「そんなんじゃない」とかぶりを振る。


「負けたのが悔しいとか、勝ったのが嬉しいとか、あいつはそんな次元にはいなかった。見ている景色と目指している場所が違う。そんな感じだった」


英司の言っていることが理解できないのか、麗香が首を傾げた。


タクシーの窓から、渋谷の街並みが見える。


深夜0時を過ぎていたが、人通りが多く、時間という概念が存在しない、不可思議な空間が広がっていた。


人波に流されていく彼らは、どこに向かっているのだろうか。


「あいつはどこに向かっていたんだろうな」


「ん?」


「いや、あいつは何のために絵を描いていたのかなって思ってな」


「英司と一緒じゃないの。地位とか名誉とか、人々の称賛。そんな感じでしょ」


「んー・・・」


英司が首をひねった。


「俺はそうだよ。地位も名誉、周りからの羨望もなんなら金だってもっとほしい。絵はそのために手段だ。そして俺の周りにはそんな奴らばかり集まる。がめつくて、嫉妬深くて他人が持っているものを、羨ましく思う」


妬みや嫉み、欲にまみれた乞食のような人間。


だがそんな人間の行動は、実は単純でわかりやすいから、予測するのは容易い。


「そういう短絡的な人間を相手にはするのは、簡単なんだが、あいつは、そうはいかない。つかみどころがなくて、本心がどこにあるのか、わかりづらい」


「でもそんな人だって、いざ手に入ったら、コロッと変わるものよ。金や権力を持てば人は変わる。英司だって、その経験があるでしょ」


「・・・あぁ」


突然莫大な金を手に入れ、生活環境から人格まで変わってしまった人間を、嫌というほど見てきた。


もしかしたら自分も、周りから見れば、そういう人間に写っているのかもしれない。


だが逆もある。


ちょっとしたきっかけで足を踏み外し、斜面を転がる岩のように、少しずつ削り取られ、転がりきった時には、小さな小石になっている。


父親がそうだった。


「そういう人間もいるのは確かだ。だが蓮は違うような気がする。あいつは周りからの評価や他人の目を気にしていない。全く眼中にないんだ」


「でもそんな欲のない人間いるかな。人が生きていくためには、欲求って絶対必要だからね」


「欲がないわけじゃないと思う。でもそれが、俺が求めてるものとは違う。もっと崇高というか、次元が違うような気がする」


「フーン」


そう言いながら、麗香は英司の首に手を回し、頬に口づけをする。


「でも私は、そんな次元の低い、欲まみれの英司が好き」


英司は麗香の腰に手を回すと、唇を重ねた。


そのまま右手をブラウスの胸元から、中に差し込んだ。


「ちょっと・・・ダメ」


麗香が艶っぽい声を出して、腰を引いた。


「続きは、帰ってからね」


唇に指をあて微笑んだ麗香が、愛おしく思えた。


「俺はそんな麗香が好きだよ」


そう言うと、彼女の額にキスをした。


『全日本油絵大賞展』で蓮は大賞、英司は佳作にそれぞれ選ばれた。


何より史上最年少、14歳で大賞を獲った蓮は、世間からの注目を集め、テレビや雑誌の取材に応じるなど、日常が一変した。


ふわふわとした落ち着かない日々を過ごした蓮だったが、ひと月も経てば、また元の日常が戻ってきた。


その後無事に中学を卒業した蓮と英司は、スライド式に高校へ進学。


英司は、中学と同じように美術部へ入部したが、なぜか蓮は入部しなかった。


「また一緒に美術部に入ろう」と何度も英司がしつこく誘ったが、蓮は首を縦にはふらなかった。


代わりに蓮は、湯澤徹の絵画教室へ通うようになった。


中学受験を決めた頃から、足が遠ざかっていたので、約三年ぶりになる。


蓮が湯澤の元に通うことを決めた理由は、蓮が抱える深い苦悩が大きく関わっていた。


三年ぶりに会った湯澤徹は、髪に白いものが増え、頬も少しやつれていた。


久しぶりに再会した蓮を、湯澤徹は大手を振って迎えた。


「大賞受賞おめでとうございます!素晴らしいじゃないですか。私も鼻が高いですよ」


「ありがとうございます。先生は僕の恩師ですから。ここで絵を教わっていなければ今の僕はありません」


湯澤徹は優しく微笑んだ。


「それにしても懐かしいな。今も子供たちに教えているんですか?」


「生徒は小学生二人になってしまいましたが、まあ細々とやっています」


苦笑いを浮かべた湯澤が、寝ぐせのついた頭をかいた。


「でも蓮君がまた通ってくれるなら、生徒も喜びます。なんさ油絵の日本チャンピオンですから」


「日本チャンピオンなんてそんな大げさなものじゃありませんよ」


蓮は照れくさそうに頬をなでた。


「改めて、本当におめでとう」


湯澤が右手を差し出す。


「ありがとうございます」


蓮は湯澤の右手を力強く握った。


美術部では、大賞の蓮が入部しないことで、落胆するものと安堵するもので、反応が大きく二つに別れた。


落胆するものは、蓮ともに活動することを期待していたものばかりで、共に切磋琢磨し、技術を磨くことを心待ちにしていた。


反対に安堵するものは、蓮の入部で自分達の地位が脅かされるのではないかと、戦々恐々としていた。


そして英司は、そのどちらでもなかった。


親友の蓮がいないことで心細くなる一方、これまでのように蓮の絵を間近で見ることができないことを苦々しく思っていた。


子供のころから、目鼻立ちの整った顔立ちしていた英司は、高校へ進学した頃には、精悍な若者へと成長していた。


そのため女子からはもてはやされ、密かにファンクラブまで作られていた。


しかし絵を描くこと以外、興味がなかった英司は、全く意に介さなかった。


蓮が湯澤の元で学んでいる間、英司は美術部で自分の腕を磨き続けた。


そして、高校二年の夏のコンクールでついに、英司は蓮を超える。


喜ぶ英司を尻目に、蓮は浮かない顔をしていた。


そこには英司に負けたことへの悔しさではない、別の何かがあった。


『全日本油絵大賞展』の大賞を受賞した頃から、蓮の中で、何かが狂い始めていた。


今まで、がっちりかみ合っていた歯車が、少しずつきしみ始め、異物が間に挟まってしまったのか、最後には回らなくなってしまう。


絵を描いている間、蓮の全てを満たす穢れのない美しい空間、恍惚な感覚を感じることが段々と少なくなり、気が付いた時には、全く感じなくなってしまっていた。


あの空間、感覚を失いつつあることに、焦りを感じていた蓮は、英司に負けたことなど、眼中になかった。


英司は、そんな蓮の態度が気にいらなかった。


ライバルと決め、ずっと後を追い続けていた背中に、やっと手が届いたのに、そのライバルは振り向きもしない。


別に泣いて悔しがってほしいわけではない。


ただ自分も追いついたということに、気づいてほしかった、認めてほしかった。


蓮は、英司のことをライバルとは見ていなかった。


自分だけが、勝手にライバルと叫んでいただけだと自覚した英司は、蓮に対し強い憤りを感じた。


「だったらお前が絶対に手が届かないところまで、昇ってやる」


蓮に対する怒りを力に変え、力を野望へと昇華させた英司は、ますます絵画の世界に没頭していった。


一方の満足のいく絵が描けなくなった蓮は、焦っていた。


その焦りは迷いを生み、迷いから失望に変わり、失望は怒りに変化していった。


「蓮君。落ち着いてください。ゆっくり丁寧に描いていきましょう。焦ることはない。さあもう一度筆を取って」


床に落ちた筆を拾うと、蓮の目の前に差し出した。


蓮の前には黒く塗りつぶされたキャンバスがあった。


「すみません。今日は・・・もう帰ります」


教室を出て行こうとする蓮の落胆した背中に、かける言葉が見つからなかった。


蓮が去った後、湯澤は黒く塗りつぶされたキャンバスを手に取ると、床に叩きつけ手に持っていた筆をへし折った。


冷めた目つきで、キャンバスを見下ろすと、湯澤がつぶやいた。


「まだだ。・・・こんなものじゃない」


湯澤の背中が、かすかに震えていた。


蓮が帰宅すると、珍しく先に父親が仕事から帰ってきていた。


「おかえり。今日も湯澤先生のところか。熱心だな」


「・・・お母さんは?」


「ん?ヨガ教室じゃないか?」


テレビのニュース番組を見ながら、父親が答えた。


「・・・」


無言のまま蓮が二階に上がって行こうとすると、父親が声をかけた。


「最近はどうだ?」


母親と違い、無口で寡黙な父親から話しかけてくるなんて珍しい。


「・・・別に、いつも通り」


階段で足を止めた蓮がぶっきらぼうに言った。


「そうか・・・」


一度口を噤んだ父親は、言うかどうしようか迷っている様子だったが、意を決し蓮に声をかけた。


「絵は楽しいか?」


父親の言葉に、心臓が一回大きく打った。


これまでの感覚を失い、絵を描くことに戸惑っている蓮の様子に気がついているのかと、勘ぐってしまう。


「・・・別に、普通」


波立つ心の内を悟られないように、必死に冷静を装った。


「そうか」


「何?お母さんが何か言ってたの?」


「いやそういうわけじゃないんだが・・・」


何か他にも言いたいことがあるのか、口をもごもごさせている。


「何?」


煮え切らない父親の態度に、苛立ちを覚えた蓮が言った。


「いや・・・何と言うか。最近悩んでいるみたいに見えたから心配でな」


「別に・・・。関係ないだろ」


「ならいいんだ。でも、その・・・なんだ。何か悩みがあるんだったら、相談にのると言うか。話くらいなら・・・な。まあ、父さんも母さんも美術に関してはちんぷんかんぷんだから、あまり役に立たないかもしれないけどな」


苦笑した父親が、首の後ろを叩いた。


へらへらと笑っている父親に、腹が立った。


「そういうを余計なお世話って言うんだ」


「あーすまんすまん。あまり気にしないでくれ。最近夜中まで起きているみたいだって、母さんも心配していたから、ちょっと気になってな。絵を描くのもいいが、身体を壊したら元の子もないから、ほどほどにな。そんなこと言っている父さんも、会社の健康診断で引っかかったばかりだから、人のことは言えないんだけど」


そう言って、声をあげて笑った。


すると突然、後ろからドンと大きな音がしたので、驚いて目を向けると蓮が壁に拳をぶつけていた。


「お父さんに、何がわかるんだよ!ロクに絵も描いたことがない人に、あれこれ言われたくないんだ!」


「・・・すまない。怒らせる気はなかったんだ。ただ父さんも母さんも心配しているから―――」


「だからそれが余計なお世話だって言ってるんだ!もうほっといてくれよ!」


これまで見せたことがない、ものすごい剣幕で叫んだ蓮は、階段を駆け登り、自室に入ると、扉を閉めた。


父親は身体を起こすと、大きなため息をつく。


自室の扉の前でへたり込んでしまった蓮は、膝を抱え小さく震えていた。


その後母親が帰ってきたが、蓮が自室から出てくることはなかった。


夜が明け朝になると、何事もなかったかのように、蓮は登校した。


そんな蓮の様子を心配そうに見つめる、両親の視線に彼は、気がついてはいなかった。


<第五話へつづく>

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