第3話
4
小学6年生になった蓮は、進学先をどうするか、迷っていた。
同級生の多くは、公立の中学校へ通うが、何割かの生徒は私立受験を控えている。
蓮は友達の多い公立への進学を希望していたが、学校の先生から芸術学部のある私立中学への進学を勧められた。
このまま絵を続けたい気持ちはあったが、親しい友達と離れ離れになってしまうのはさみしい。
それに私立に入学するためには、当然受験で合格しなければいけない。
蓮の成績は、あまり良くなかった。
しかし私立受験には、推薦枠と特待生枠いうものがある。
『全国小学生絵画コンクール』で金賞を受賞している蓮なら、十分特待生枠で合格できると担任の教師は、太鼓判を押した。
三者面談で、その話を初めて聞いた母親は驚いていたが、まんざらでもなさそうな顔をしていた。
その日の夜、家族会議が開かれ、蓮の進学先について話しあいが行われた。
私立進学に乗り気の母親に対し、父親はあまりいい顔をしなかった。
「蓮の実力なら、絶対に特待生で合格できるわよ。蓮の将来のためにも、芸術学部のある私立に入れさせてあげるべきだと思わない」
「そうかもしれないが、学費はどうするんだ。公立に比べて私立は何倍もかかる」
「学校によっては、特待生の学費免除や減額制度があるの。私もパートで働くから大丈夫」
「蓮がその特待生に選ばれると決まったわけじゃないだろう」
「まさか、あなた蓮の実力を疑ってるの!この子なら大丈夫よ。絶対に特待生に選ばれる」
「疑っているわけでないが、他にも絵の上手い子はたくさんいる。絶対だという確信はないだろう。それに蓮自身の希望もある」
二人が蓮の方を見た。
「蓮はどうしたいんだ?」
「・・・そんな急に言われてもわからないよ」
蓮は言葉を濁した。
友達の多い公立にも通いたい気持ちもあるが、絵を描くことに専念できる私立にも魅力を感じていた。
幼い蓮には、いったいどちらが自分にとって、最良の選択になるのか、判断できなかった。
そんな時、蓮が頼りにできるのは、一人しかいない。
ある日のレッスン終わりに「相談したいことがある」と蓮の方から湯澤に持ち掛けた。
蓮の話を、一通り聞き終えた湯澤は「んー」と唸りながら腕を組んだ。
「公立でも絵を描くことはできます。私がそうでしたからね」
「えっ先生、公立だったの」
「私の実家は貧乏でしたし、今みたいな特待生枠なんて制度がなかったので、中学は地元の公立に通いました。高校からは絵の専門学校に通いましたが、それまではずっと学校が終わってから近所の教室に通って、絵を教わっていましたよ」
蓮よりも年下、小学三年の時に『全国小学生絵画コンクール』で金賞を取った湯澤が、公立に通っていたことに驚いた。
蓮の顔を見て、湯澤が笑みをこぼす。
「そんなに驚かないでくださいよ。だから別に公立にこだわる必要はないと思います。君がどうしたいのか、それを優先させるべきです。ただ―――」
湯澤が声を落とす。
「私からの他愛もない話だと受け取ってもらって構いませんが・・・」
そう断りを入れると、遠くを見るような眼差しで、話し始めた。
「中学生のころは、もっと絵に集中したいと何度も思っていました。学校が終わった後、18時過ぎから教室へ通い、家に帰ってきた時には、21時を過ぎていました。そこから宿題や予習、復習、テスト前にはテスト勉強と、体力的にも精神的にも本当にしんどかったことを今でも覚えています。とてもじゃないが、落ち着いて絵と向き合うことができなかった。あの時、もっと集中して絵と向き合うことができたら、今以上に人を魅了させる絵が描けていたのではないか。ふとそんなことを考える時があります」
落ち着いた口調の中に、湯澤の悔しさがにじみ出ていた。
絵画を一枚完成させるには時間がかかる。
一朝一夕で描き終わるものではないし、ましてや技術を身に着けようと思えば、かかる時間と労力は計り知れない。
自分を犠牲にし、身を削る思いで、努力し続けた湯澤の苦労は、蓮には想像することしかできない。
「私から言えることは、これだけです。あとは君がどうしたいか、自分の胸に聞いてみるといいです」
蓮は、下唇を噛みしめた。
その日の夜、両親を前に蓮は、私立に通いたいと伝えた。
春を迎え、桜が散り始めた頃、入学式が行われた。
蓮は私立「桐鹿学園」に特待生枠で見事合格した。
この学校は、中高一貫校で「美術」「書道」「音楽」の授業に力を入れており、中学三年生になれば、これらの中から自分が興味あるものを選択することができる。
男女共学で、在校生は800名を超え、その中でも特待生は30名ほどしかいない。
通常「美術」の授業は、週一時間か週二時間程度しか行われないのだが「桐鹿学園」では週四時間、高校生に上がると、週六時間も確保されている。
県内でも類をみない芸術分野に理解がある学校で、クラブ活動も美術関係のものが多数存在する。
「吹奏楽部」「書道部」「美術部」はもちろん「写真部」「漫画部」や「華道部」なぜか「映画研究部」まであった。
そんな中、ごくごく当たり前のように、蓮は「美術部」への入部を決めた。
特待生でさらに「全国小学生絵画コンクール 金賞」の猛者が入部してくるとあって、部内はざわついた。
蓮のことをライバル視する生徒も多く、入部当初は色眼鏡で見られた。
いじめやあからさまな嫌がらせにもあったが、蓮の絵が数々の賞を受賞していくと、段々と少なり、中学二年生の頃には、ぱったりと無くなった。
「岩谷英司」と出会ったのは、この美術部だった。
「渡井蓮君だろ。全小で金賞を取った。すごいなぁ。僕も応募したんだけど、佳作にも選ばれなかった」
皆が遠巻きに蓮と距離をおく中、岩谷英司は初対面から、気さくに話しかけてきた。
「蓮君は、誰から絵を教わったの」
「湯澤先生」
「えっ湯澤ってあの『湯澤徹』?全小で最年少で金賞を取った?そんな人から教わっているんだ。いいなぁー」
「英司君は誰なの?」
「僕?僕はお父さんかな。お父さんも昔絵描きみたいなことをしてたみたいでさ。有名でもなんでもないんだけど。それで生まれた時から、家にたくさん絵があって、いつも見ているうちに、なんとなく描いてみたくなって、お父さんにお願いしたのが、始まりかな」
「僕の家にも、湯澤先生の絵がたくさん飾ってあったよ。お母さんが好きで」
「えー湯澤徹の絵か。いいなぁー。今でも飾ってあるの?」
「もうないよ。お母さんが湯澤先生に会った後、全部捨てちゃった」
「えっ何で?」
「実物の湯澤先生がイメージと違ったみたい。写真だと綺麗でスタイルよく見えるんだけど、実際に会うとだいぶ格好が違うから」
「何それ。ただのミーハーじゃん!」
岩谷英司が腹を抱えて笑った。
「そうだろう」と蓮もつられて笑う。
すっかり打ちとめた二人はお互いを「蓮」「英司」と呼び合うようになり、休みの日でも集まって絵を描く練習をするようになった。
引っ込み思案で、なかなか友達のできなかった蓮は、一生付き合える親友ができたみたいで嬉しかった。
しかしこの英司との出会いが、蓮の運命を大きく狂わせていくことになる。
5
野本の教室を出た蓮は、とぼとぼと商店街を歩いた。
駅のコンコースが見えてきたが、電車に乗りこのまま帰宅する気になれず、その前をふらふらと通り過ぎた。
夜の闇に覆われ、街灯と車のライトに照らし出された、路上をあてもなく歩き続けた。
静かに絵が描ける場所を求めていただけなのに『渡井蓮』という名と過去の栄光に妨害される。
史上最年少で大賞を取ったから、どうだというのだ。
もう過去のことであり、30歳を超えた『渡井蓮』には、何の関係もない。
それなのに、周りは『昔の渡井蓮』を求めてくる。
大人になった蓮の中に、中学二年14歳の蓮を見ている。
それが嫌だったから、偽名を使っていたのに、正体がバレただけでなくあろうことか、描きかけ絵を晒しものにされた。
描いた絵を誰にも見られないよう、一人で描ける場所と時間を探していたのに、どうしてわかってくれないのか。
『自分の描いた絵を壊すくらいなら、二度と筆を握るな!』
やはり僕には、もう絵を描く資格はないのか・・・。
ふと気がつくと、周りを見慣れぬ景色に囲まれていた。
ふらふらとあてもなく歩いているうちに、知らない土地に迷い込んでしまったようだ。
見ると、閑静な住宅街が立ち並んでおり、目を凝らすと、どの家も敷地面積が広く、その周りを頑丈そうな塀に囲まれ、立派な門が作られていた。
どうやらここは、高級住宅街のようだ。
こんな場所にいてもしかたないと、スマホで現在地を確かめる。
まずは、広めの通りに出ないと方角もわからないので、地図を確認し、通りへの行き方を探した。
車が一台通れるか通れないかくらいの、狭い路地を進み、何度か角を曲がると、遠くの方に、信号らしき明かりが見える道路沿いに出た。
ひとまずあの信号の明かりを目指そうと歩き出した蓮だったが、ガラス張りの白くて大きな建物の前で、突然足を止めた。
「Gallery」と書かれた青い天幕がある入口は、ダウンライトによって照らし出され、まるで華やかな舞台のように輝いていた。
ガラスの向こうには、数々の絵画が展示されているのが見え、どうやら個展が開かれているらしい。
導かれるように、建物に近づいた蓮は、ガラスから中を覗いて、心を鷲掴みにされた。
そこから見える絵画はどれも美しく、洗練されたタッチと卓越した色づかい、計算された構図と素晴らしいものばかりだった。
これだけの作品を描ける画家は、日本にそうそういるものではない。
いったい誰の作品だと、蓮が目を奪われていると、後ろから声をかけられた。
「あれ?もしかして蓮?蓮じゃないか?」
驚いて振り返ると、黒のジャケットに白のタートルネック、髪にはゆるいパーマをかけツーブロックに横を刈り上げ、前髪を片側だけ垂らした男が指をさしていた。
その指の爪には、マニキュアが塗られているのか黒く光っており、手首には大きな腕時計が巻かれていた。
「やっぱりそうだ。久しぶりじゃん!何年ぶりだ」
蓮が目を白黒させていると、男が近づいてきた。
「あれ?もしかしてわかってない?嘘だろ。親友の顔を忘れたのかよ」
親友と言葉に、胸の奥で痛みが走る。
「俺だよ。英司。岩谷英司だよ」
その名前は、蓮が今最も聞きたくない名前の一つだった。
「ほら。中学高校と桐鹿学園で一緒だっただろ?俺の家で絵の練習もしたじゃん。覚えてない?」
戸惑いながら蓮は笑顔を作った。
「あー英司か!忘れるわけないだろ。偶然だな」
「こんなとこで何してんの?」
「いや、ちょっと仕事で近くまで来たもんだから」
英司の顔がパッと華やいだ。
「もしかして、わざわざ来てくれたのか!うわぁ嬉しい!連絡しようかと思ったけど、携帯番号もLINEもわからなくてさ。どうしようか途方にくれたんだよ。ネットでここのこと見たのか」
「まっまあ、そんなところ・・・」
「いやーホントに嬉しいよ。さあさあ入ってくれ!蓮に見てほしい作品ばかりなんだ」
英司が蓮の背中を押し、二人で連れだって入口向かう。
入口の脇には『岩谷英司作品展』と書かれた立て看板が置かれていたが、照明の影に隠れて、見逃してしまった。
この立て看板の存在に気がついていたら、すぐにでもこの場を離れていた。
英司と蓮の二人が中に入ると、受付にいた女性が立ち上がったが、英司が目配せすると軽く頷いて、腰を下ろした。
「今日は、客の入りも落ち着いてるから、じっくり見てもらえる」
確かに会場には、数えるほどしか客がおらず、ゆったりとした時間が流れていた。
「いつもはもっと客が入るのか?」
「初日は、招待客で埋まったけど、それ以外の日はそこまで混んだりしないな。実はこの個展は、宣伝にそんなに金をかけてないんだ。身内とか本当に親しい人間にしか案内を出してない。次が本番だからな。そのための準備運動みたいなもんで、経費をできるかぎりおさえた」
経費を抑えたと言っても、これだけのキャパの会場を使っているんだ、それなりの金額はかかっているだろう。
「まずはこれだ」
受付を過ぎ、会場に足を踏み入ると、まず目に飛び込んでくるのは、縦3メートル横5メートルはある巨大な人物画だった。
「これは・・・」
その圧倒的な迫力に、たじろいだ。
「父さんだ。俺が絵を描くきっかけをくれた人だ」
蓮も英司の家に遊びに行った際、何度か父親に会ったことがある。
会うたびに、父親は眉間に皺を寄せ、難しい顔をしていた。
人を寄せ付けない雰囲気があり、蓮も毎回挨拶をする程度で、面と向かってちゃんと話をしたことはない。
しかしこの絵の中に描かれた英司の父親は、優しく慈愛に満ちた表情で微笑んでいた。
「僕が知っている英司のお父さんとは印象が違うな。厳しい顔でいるところしか見たことがない」
「俺や母さんの前でも、そんな感じだった。この絵は、俺の想像で描いたものだ。厳しかった父さんもこんな顔をすることがあるんだろうか。いや、こんな顔を見せて欲しかったっていう俺の願望かもしれないな」
「お父さんは、今どうしているんだ?」
英司の横顔にわずかにくもった。
「二年前に死んだよ」
「そうだったのか。知らなかったとはいえすまない」
「いやいいんだ。父さんの最後を看取ったからこそ、この絵が描けた。今では感謝してる」
表情はくもったままだったが、それを乗り越えようとする、前向きな強さが伝わってきた。
でもそれは一種の強がりみたいなもので、英司がまだ父親の死を引きずっていることの表われでもある。
「蓮の両親はどうしてる?」
沈んでしまった空気を、押し上げようと英司が努めて明るい声を出した。
「あぁー二人とも元気だ。最近はあまり会っていないが」
最後に見た母親の悲しげな表情が、頭をよぎった。
「そうか。今のうちに親孝行はしておいた方がいいぞ。いざしようと思った時には、もういなかったりするもんだ」
「そうだな・・・」
その後も英司の案内で、個展の中を周った蓮は、久しぶりに友人との楽しい時間を過ごすことができた。
「すごい絵ばかりだ。これなら大きな美術館を借りて、もっと大々的にやってもよかったんじゃないか」
「まあこれは準備運動だからな。本番はもっとすごい」
「さっきもそう言っていたが、それはどういうことなんだ」
よくぞ聞いてくれたと英司が胸を張った。
「実は、ここが終わったら日本を離れるつもりだ」
誇らしげな英司の態度に、蓮は不安を覚えた。
「次はニューヨークで個展を開くつもりだ」
なんとなく予想できていたが、いざ英司の口から聞かされると、現実となって蓮の胸を締め付ける。
「ニューヨーク・・・」
「去年の展覧会で知り合った人が、アメリカで個展を数多くプロデュースしている人で、ぜひやってみないかと誘われた。覚えてるか?学生の頃、いつかは海外で勝負したいって言ってたこと。あの時蓮は笑ったが、ついにその夢に手が届いた」
充足感と自信に満ち溢れた英司の顔が、眩しく見えた。
「よかったじゃないか!覚えてるよ。よく言ってたよな。日本じゃ俺の実力は正しく評価されないって」
「そう!そうなんだよ!閉鎖的でプライドの高い日本人では、俺みたいな先鋭的な絵は理解できない。だったら海外だとずっと考えてた。これまで歯がゆい思いを何度も味わってきたが、ようやくそれが報われた」
興奮した英司が、饒舌に語る。
「ネットの普及で、世界との垣根が無くなった今、封鎖された、鎖国時代のような日本ではダメだ。世界は誰も予想していなかったスピードで進化、変化しているんだ。俺たちのいる絵画の世界も、どんどん新しい技法、ジャンルが出てきている。でも日本では、それが受け入れられない。新しいもの知らないものに対して、否定的な考え方しかしない。そんなじゃ日本は世界からおいていかれる。俺の絵だってもっと評価されるべきなんだよ。それを古参の画家どもが、あれやこれや難癖をつけて、認めようとしない。いい加減うんざりだ。だから海外に出る。俺のことを、正当に評価してくれる場所が、そこにある!」
熱くなっていく英司とは裏腹に、蓮の気持ちはどんどん冷めていった。
「蓮もそう思わないか?」
虚ろな目をした蓮が言った。
「俺にはもう関係のない話だ」
蓮の様子がおかしいことに気がついた英司は、眉をひそめた。
「・・・まだあのことを引きずってるのか」
蓮が答えないでいると、英司がため息をついてかぶりを振った。
「いったい何十年前のことだよ。いい加減気持ちを切り替えろ!前を向け!蓮は学生の頃から後ろ向き過ぎる」
英司の説教が癇にさわった蓮は、無言でギャラリーの出口に足を向けた。
「おい、待て待て!」
足早に、出て行こうとする、蓮の肩を掴む。
「一度ゆっくり話をしよう。これが今の住所だ。携帯の番号も載ってるから、連絡してくれ」
ジャケットの内ポケットから名刺を出すと、目の前に差し出した。
「外で会ってもいいが、自宅の方が落ちついて話ができるだろ。蓮にとってもその方がいいと思う」
蓮は、眼前に突き出された、名刺を受け取ろうとしない。
無反応の蓮にしびれを切らし、無理矢理ポケットの中に名刺を突っ込んだ。
視線は下げ、うつむいた蓮は、英司の横をすり抜ける。
「年明けがあけたら、日本を出る。それまでに連絡をくれ」
小さく弱々しい背中に、英司が声をかけた。
扉を開け、外に出る寸前、蓮がかすかに頷いたように見えた。
<第四話へつづく>
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