第2話
2
帰りの車の中で、母親はずっと不機嫌だった。
「あんなにダサい人だと思わなかった」
「スタイルがよくて、イケメンだとネットに書いてあったのに」
どうやら湯澤徹が想像と、全く違う風貌だったことに、ショックを受けたようで、家についてからも母親の愚痴は止まらなかった。
反対に蓮は、夢見心地で絵を描いている時の、高揚感、幸福感を反芻していた。
蓮は「あの教室に通わせてほしい」と頼んだが、湯澤徹の容姿で機嫌をそこねた母親は「いいよ」とは言ってくれなかった。
そんな蓮に助け舟を出してくれたのは、父親だった。
「そんなに通いたいなら、通わせてあげたらいいじゃないか」
「でも、毎回車で送り迎えしないといけないし、月謝代もかかるし、使っている教室も汚れてて、あまりいい環境じゃなかったのよ。絵画教室なら他にもあるし、何もあそこじゃなくても・・・」
「しかし蓮は、その先生のところで学びたいと思っているんだろう。どんな理由であれ、きっかけは作ったのは、お前なんだから、しょうがないんじゃないか。最後まで責任を持ってやりなさい」
父親の言う通り、最初に行こうと言い出したのは、母親自身だった。
そこをつかれてしまうと言いわけできない母親は、渋々といった様子で、湯澤徹の教室に通うことを了承した。
喜ぶ蓮に向かって、父親が言った。
「蓮。通うからには、途中で投げ出すようなことはしないで、最後までやり切りなさい。いいね」
蓮は嬉しそうに、頷いた。
翌週から早速蓮は、湯澤徹の元で絵を学び始めた。
初めは、鉛筆の持ち方さえきごちなかった蓮だったが、回を重ねるごとにその隠された才能を発揮し、見る見るうちに上達していった。
気づいた時には、長く通っていた生徒達よりも、うまくなってしまい、それにショックを受けた生徒が教室を辞めてしまうという事態にまで陥った。
生徒が減ってしまうと、湯澤徹が困るのではと、心配した蓮だったが、当の本人は、何食わぬ顔で教室を開いていた。
周りがざわつくのとは関係なく、蓮の才能は完全に花開いた。
試しに応募してみた、市が主催する絵のコンクールで、蓮の絵は金賞を受賞した。
全校集会で校長先生から、表彰状を受け取った蓮は、両親よりも先に、湯澤徹に見せに行った。
表彰状を見た湯澤徹は、自分のことのように喜んでくれた。
このことをきっかけに学校の先生から、秋に行われる「全国小学生絵画コンクール」に出場してみないかと誘われる。
全国の優秀な生徒達が描いた絵が一堂に返す、伝統あるコンクールで、賞を受賞した生徒の絵は有名な美術館に展示され、大きな話題になる。
そこで著名な画家の目にとまり、後々も有名画家として活躍している人も、数多く存在する。
絵を始めてから数年しか経っていない蓮は、自分では想像もしていなかった出来事の連続に怖気づいてしまう。
落ち込んでいる蓮の様子に、いち早く気が付いた湯澤徹は、教室が終わった後、少し残るように声をかけた。
そこで蓮は、不安に感じていること、周りの変化についていけていないことを洗いざらい湯澤徹に話して聞かせた。
蓮の話を黙って聞いた湯澤徹は、おもむろに立ち上がると、倉庫から白い物体を引っ張り出してきた。
少し汚れていたが、それは蓮が初めてこの教室を訪れた時に、描いた石膏像だった。
「これを覚えていますか?」
「もちろん!」
湯澤は満足げに頷いた。
「だったら何も問題はありません」
蓮は首を傾げた。
「迷ったり怖くなった時は、あの時のことを、君が感じた感覚を思い出してみなさい。君の中にある、絵を描くことへの喜び、幸福そしてさらなる探求心を決して忘れてはいけません」
―――それを忘れなければ君はどこまでも行ける。
「はい!」
『どこまでも行ける』
湯澤のその言葉に背筋が震え、肌が泡立った。
自分はもっとうまくなれる。
大好きな絵をこれからも描き続けていいのだ。
蓮は胸を張った。
半年後、『全国小学生絵画コンクール』が開催され、蓮の絵は見事金賞を受賞した。
受賞を記念し、その絵が大きな美術館で展示されるということだったので、家族三人で見に出かけた。
著名な画家達の絵に混じり、蓮の絵が堂々と飾られていた。
高級な額に入れられ、金賞と書かれた花札と、その横に『渡井蓮』と書かれたそれを、真っ先見つけたのは母親だった。
美術館の職員が、その絵のどこが優れていて評価されたのか、丁寧に説明してくれた。
母親はそれを誇らしげに、聞いていた。
蓮は、そんな母親の姿が見るのが、嬉しかった。
3
全ての色紙に、人気アーティストの偽造サインを書き終えた蓮は、部屋を出た。
「ちょっと蓮さん。俺が終わるまで待っててくださいよー」
真司が情けない声を出して呼び止めたが、聞こえないふりをして扉を閉めた。
タバコを吸っていた弥栄子が「終わったの?」と振り返った。
「はい。いつも通り、アーティスト別に並べて、隣においてあります」
「おぉーありがとう。助かるわ。真司の奴はまだ?」
「あと少しだと思いますよ」
弥栄子がため息をついた。
「全く。予定があるって言ったのに、あいつは・・・。ん?帰るの?」
ロッカーから鞄を取った蓮は、金が入った封筒をしまう。
「はい。お疲れ様でした」
「ねえねえ、たまには食事でも行かない。真司と三人で。ごちそうするわよ」
蓮は首を横に振った。
「すみません。この後予定があるので・・・」
渋面を作った弥栄子が、つまらなそうに言った。
「蓮は、いっつもつきあい悪いわよね。真司なら、喜んでついてくるのに」
―――すみません。
早くこの場を立ち去りたいのか、投げ捨てるように蓮が言った。
「あんたは何でこんなことしてるの?」
弥栄子の言葉に、蓮の足が止まる。
数時間前にも真司が同じことを聞いてきた。
「それってそんなに重要なことですか?」
険のある言い方で答えた。
「えー気になるじゃない。だって蓮は、他の奴らとは違って、落ち着いるし、大人?な雰囲気だから、なんでこんなことやってるのかなーって」
甘ったるい声で、弥栄子が言った。
「金のためですよ。普通に仕事するより、稼げますから」
突き放すように言うと、これ以上話したくないと、足早に出口に向かう。
「『全国小学生絵画コンクール金賞、小学四年生渡井蓮君。タイトル「希望」』これあんたでしょ?」
驚いて振り返ると、弥栄子がこちらにスマホを向けていた。
スマホの画面には、自分が描いた絵を持ち、ぎこちない笑みを浮かべている10歳の蓮が映し出されていた。
両脇には、照れくさそうな父親と嬉しそうに蓮の両肩に手をおいた母親がいた。
「そんなものどうして?」
困惑する蓮の表情を見て、楽しそうに弥栄子が笑った。
「ハハハ。初めて蓮のそんな顔見た。可愛いじゃん」
おちょくるような態度の弥栄子に、腹を立てた蓮が叫んだ。
「質問に答えてください!」
「そんなに怒らないでよ」
めんどくさそうに顔をしかめると、スマホの画面を消した。
「権藤さんからの命令で、全員の素性を調べたのよ。万が一警察関係者とか、ヤバい組織関係者が混じってたら困るでしょ。だからあんただけじゃないわよ」
灰皿にタバコを押し付けると、椅子の背にもたれかかり、足を組んだ。
「でもこれで、あんたが仕事ができる理由がわかった。絵画コンクールの全国一位は伊達じゃないわ。偽造サインなんて楽なもんでしょ」
蓮はバツの悪そうな表情で下を向いた。
「だからこそわからない。エリートだったあんたがこんなことしてる理由が。だって中学のころなんて―――」
「それ以上、何も言わないでください!」
弥栄子の言葉を遮った蓮は、視線を下に向けたまま、出て行ってしまった。
ぽかんとした顔で、蓮が出て行った扉を見ていると、反対側の扉がゆっくりと開いた。
「何かありました?大きな声が聞こえましたけど・・・」
真司がおそるおそる顔を覗かせた。
やれやれといった様子で、肩をすくめた弥栄子が「何でもないわよ」とタバコを一本取り出す。
「弥栄子さ~ん。ごまかさないでくださいよ。蓮のやつと何か揉めてたでしょ」
「食事に誘ったら断ってきたから、付き合いが悪いって説教してたのよ」
「えっ弥栄子さんの彼氏って蓮だったんですか?」
「バカ。そんなわけないでしょ。真司も入れて三人で行こうって誘ったの」
「なんだ~」と真司がほっと胸をなでおろす。
「だったらこの後、二人っきりで行きましょうよ」
弥栄子がタバコに火をつける。
「今日の分は終わったの?」
真司が胸を張る。
「あとちょっとです」
態度と言葉が裏腹な真司に、呆れてしまう。
「すぐ終わりますから、行きましょう!」
真司の顔をじっと見つめていた弥栄子は、スッと立ち上がった。
「じゃあ待っててあげるから、早く終わらせてきて。お願いね」
弥栄子は真司の目の前まで来ると、自分が吸っていたタバコを真司に咥えさせた。
「これで頑張って」
頬を赤らめた真司は、背筋を伸ばし、きびきびとした動きで、もといた部屋に戻って行った。
「バカで単純」
そう吐き捨てると、踵を返し部屋を出て行った。
仕事場を出た蓮は、電車に乗り『元住田駅』という駅で下車した。
駅のコンコースを抜け、『元住田商店街』と書かれたアーチをくぐり商店街に入る。
平日の夕方ということもあり、商店街の中は、帰宅する学生やサラリーマン、買い物客で溢れていた。
スーパーやドラッグストア、総菜屋が軒を連ねる中、ひっそりと建っている白いビルの中に入って行った。
エレベーターで4階へ上がり、廊下の先にある木製の扉を開ける。
扉の上には『野本絵画塾』と絵具で書かれた、板がかかっていた。
中に入るとエプロン姿の男性が振り返った。
「あれ?今日も来たんだ」
白いものが目立つ髪の毛を肩まで伸ばし、顎には無精ひげを生やした、50代くらいの男性が、バケツの中に手を入れ、筆やパレットを洗っていた。
「はい」
蓮は肩掛け鞄を外すと、六畳くらいしかない部屋の隅に置いた。
「今日のはクラスは終わったから、好きに使っていいよ。戸締りだけよろしく」
「ありがとうございます」
「しかし大下君も熱心だね。もう三ヶ月くらい経つかな。週3日はここに来てるだろ」
申し訳なさそうに、蓮が頭を下げた。
「すみません。野本さんのご厚意に甘えてしまって。ご迷惑でしたら週2日くらいに抑えます」
野本は首を横に振って微笑んだ。
「いや、いいんだよ。本当に熱心だなと思ってね。それにしても三ヶ月前に突然訪ねてきて、ここで絵を書かせてくれってお願いされた時は、本当にびっくりしたよ。てっきり入講希望者かと聞いたらそうじゃないと言うし。新手の詐欺かと疑ったけど、価値のあるものなんて、うちにはないからね」
絵を描いている時の感覚をどうしても忘れたくなかった蓮は、落ち着いて絵と向き合える場所を探していた。
自宅で描くことも考えたが、大通りに面しているため、四六時中、車の騒音が酷く、静かに絵と向き合える環境ではなかった。
そこで近場の公民館や貸会議室を探したが、料金も高額な上に、絵の具で汚れるのは困ると、難色を示すところばかりだった。
次に目をつけたのが、絵画教室だった。
しかし絵を描いているところを、人に見られるのは避けたいので、生徒として入ることはできない。
ならば、謝礼としていくらか渡すので、場所だけ貸してもらえないか、話を持ち掛けてみることにした。
普通に考えればわかることだが、見ず知らずの人間に場所だけを提供してくれるところなど、そうそうあるものではない。
案の定、そんな都合のよい場所はなかなか見つからなかった。
自宅から近いところを順々に訪ねて行ったが、あれよあれよという間に、最寄り駅から1時間もかかる場所まで、範囲を広げていた。
他の方法を考えようかと、諦めかけていたその時『野本絵画塾』を見つけた。
講師で責任者でもある野本は、蓮の説明を訝しそうに聞いていたが、熱心に頭を下げる姿に心を動かされ、貸してやってもいいが、その代わり部屋の掃除と筆など備品の手入れをしてほしいと言った。
几帳面な蓮にとって、掃除や備品の手入れなどは苦ではなかった。
蓮が「それでお願いします」と言うと「じゃあどうぞ」と二つ返事で決まった。
『野本絵画塾』は小学生から中学生までの男女合わせて、10名くらいの小さな教室だった。
絵画教室ではなく『絵画塾』としている理由は、『塾』の方がインパクトがあって人が集まりそうだから、らしい。
「でも全然ダメだったね」と野本は苦笑いを浮かべていた。
教室は毎週水曜と土曜の16時から1時間だけ開かれており、他の時間は自由に使っていいと鍵まで渡してくれた。
蓮のことを信用してくれているのは嬉しかったが、いくら何でもお人よしすぎると、逆に不安になった。
しかも掃除や筆など備品の手入れをする約束だったはずだが、時間があるときは野本が一人で全て終わらせてしまう。
今日も先ほどから、生徒達が使った筆やパレットを熱心に洗っている。
「後でやっておきますから、全部置いといてください」
「いやあとちょっとだから、大丈夫だよ。それより大下君も準備があるでしょ」
そう言って手を止めようとしない。
後ろめたい気もしたが、帰る前に掃除を念入りにしておこうと、心の中で誓い準備に取り掛かった。
先ほどまでの生徒達が使っていたであろう、イーゼルと椅子をそのまま使わせてもらう。
次に、壁際に並べられた書きかけのキャンバスの中から、自分のものを探した。
しかし、蓮のものが見つからない。
いつもは一番の奥の目立たないところに、しまっておくのだが、それらしいものが見当たらない。
「すみません。僕の描きかけが見当たらないんですが、知りませんか」
「あー」と、野本が顔を上げる。
「君のはあっちだよ」
野本が、部屋の一角に置かれている棚を指さした。
棚の上の一番目立つ場所に、蓮の描きかけの絵が立てかけられている。
それを見つけた、蓮の顔面がみるみるうちに、蒼白になっていった。
「生徒達が君の絵を見たいと言ってね。完成前に悪いと思ったんだが、あそこに置かせてもらった。ダメだったかな?」
蓮は慌てて棚の前に来ると、自分の絵を鷲掴みにし、力いっぱい床に叩きつけた。
弾けるような音がして、木枠の留め具が外れたキャンバスが、バラバラに飛び散った。
無惨な姿になったキャンバスを、蓮は追い打ちをかけるように、何度も踏みつける。
「何をしてるんだ!やめろ!」
野本に体当たりをされ、蓮は床に転がった。
その時足がぶつかってしまい、棚の中から筆やパレットが、雪崩のように落ちてきた。
それらは全て、蓮が一つ一つ丁寧に手入れをしたものだった。
ハアハアと肩で息をしながら見上げると、怒りに身を震わせた野本が、突き放すように言った。
「出て行ってくれ!二度と来るな」
息を飲み、荒い呼吸を無理矢理押し込め、のろのろと立ち上がる。
せめて落ちてきた筆やパレットだけでも拾おうと、顔を向けたが、野本に止められた。
「それもいいから。もう触らないで。鍵も返してくれ」
肩を落とし意気消沈した蓮は、ふらふらとした足取りで、鞄が置かれている部屋の隅に向かう。
「渡井蓮」
鞄を掴んだ手を止めた。
ゆっくりと首だけを動かすと、憐れむような眼差しで野本が、こちらを見ていた。
「気がついていないと思っていたのかい。渡井蓮。中学二年の史上最年少の若さで『全日本油絵大賞展』の大賞を取った君のことを、我々の世界で知らないものはいないよ」
そう言ってその場にしゃがみ込むと、砕け散ったキャンバスの破片を集め始める。
「君にいったい何があったのかは知らないが、こんなことをするような人間だとは思わなかった。失望したよ」
野本の横顔に、失望と侮辱の色が表われている。
(あなたに何がわかる!)
心の中でそう叫んだ。
(僕がいったいどんな辛い思いをしてきたのか。こんな小さな場所で、絵を教えているだけの、才能のないあなたにはわからない)
顔を歪め、叫び出したくなるのを、必死に堪えた。
「鍵はここに・・・」
なんとか口にできたのは、その一言だけだった。
部屋を出て行こうと、扉を開ける。
「自分の描いた絵を壊すくらいなら、二度と筆を握るな!」
野本の言葉が、矢のように蓮の背中に突き刺さる。
『お前に筆を握る資格はない』
前にも、そう言われたことがある。
「絵を描くのに、資格がいるんですか?」
ハッとした表情で、野本が顔を上げる。
扉の前の蓮の背中が、震えていた。
「楽しく描きたかっただけなのに。それだけでよかったのに」
誰に聞かせるでもなく、発したその言葉は、空中に放り出されると、瞬く間に地面に落下し、溶けて無くなってしまった。
野本は蓮の背中に、これまで見たことがない、巨大な塊が乗っかっている気がした。
それは、次々と色を変え形を変え、蓮の背中を浸食していく。
彼が背負っているものの、大きさに野本は身震いがした。
(自分は何か、間違ったことをしてしまったのではないか)
後悔の念に苛まれる。
「あっ・・・」
手を伸ばし声をかけようとしたが、蓮の背中は扉の向こうへ消えてしまった。
しかしその背中を、追いかけようとはしなかった。
<第三話へつづく>
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