天上の絵画

小説家 川井利彦

第1話


上を向けばキリがないと、子供のころ父親からよく言われていた。


幼かった私はいったいどういう意味なのか、よくわからなかったが、20歳を過ぎ周りと自分とを比べることが多くなってくると、その言葉の意味が、少しずつわかってきた。


何度、輝かしい栄光と名誉を勝ち取っても、さらに上へと続いていく階段が必ず現れる。


次こそは最上階だと意気込んで昇ってみても、まだ上の階が存在する。


昇っても昇っても、頂上には辿り着かない。


見上げるたびに、自分はいつまで上り続ければいけないのかと、絶望感に襲われる。


そしていつしか昇ることをやめてしまう。


1


渡井蓮は、目の前に並べられている色紙に、一枚一枚丁寧にサインを書いていった。


書き慣れた感じで、次から次へとペンを走らせていると、及原真司が横から覗き込んできた。


「蓮さんって本当に上手ですね」


真司は蓮が書いたサインを見ながら、うんうんと関心したように、頷いている。


「まあね。これでもけっこう練習したんだよ」


得意げにそう言うと、蓮は鼻を膨らませた。


「俺じゃまだこんなに似せて書けませんよ」


真司は、ポケットから取り出したスマホで、パシャパシャと写真を撮り出した。


「ちょっと!写メはダメだろ!それはルール違反だ」


「いいじゃないですか。今後の参考にさせてもらうためですよ。ネットで拡散したりはしませんよ」


「やめろって。前に権藤さんに見つかったの忘れたのかよ。あの時、めちゃくちゃに殴られただろ。また見つかったら、今度はそれどころじゃ済まないぞ」


全く聞き入れようとしない、真司の態度に腹を立て、スマホを無理矢理手の中からひったくった。


奪い取ったスマホを操作し、さっき撮られた写メを全て消去する。


「何も消すことないでしょ」


反抗的な目で睨んできた真司に、スマホを返す。


「もう権藤さんに殴られたくない」


自分の顔よりも大きな拳が、迫ってくる恐怖は、脳裏に焼き付いたまま、いまだに消えることがない。


「・・・ダッサ」


白けた表情で、真司がつぶやいた。


「蓮さんって絵はうまいですけど、めちゃくちゃビビりですよね。別に殴られるくらいいいじゃないですか。殺されるわけじゃないですし」


小馬鹿にしたように、ひらひらと両手を振った。


「他の奴も言ってましたよ。年上面してルール、ルールってうるさいって」


そばにあったパイプ椅子を引き寄せると、ドカッと真司が腰を降ろした。


「蓮さんってなんでこんなことやってるんですか?」


ヤニで黄ばんだ歯を見せて真司が、ニヤニヤと笑った。


タバコ臭い息に耐えきれず、顔を背ける。


「どうだっていいだろ。そんなこと」


「いや気になるじゃないですか。パッと見、蓮さんって僕らと違う人種というか。生きてきた環境って言うんですか。なんか全然違うと思うんですよね」


机の上に手をおいてその上に顎を乗せた真司が、嘲笑を浮かべた。


「そんな人が何でこんなことやってるのかなって。単なる好奇心ですけどね」


「俺は・・・」


その時後ろの方で、扉が開く音がした。


振り返るとスーツ姿の弥栄子さんが顔を覗かせてこちらを見ていた。


「さっきからうるさいね。話す余裕があるってことは、今日のノルマは終わったってことでいいんだよな」


髪を後ろで束ね、薄化粧をした弥栄子さんは、イライラしながら言った。


「なんだ。やえさんか。てっきり権藤さんかと思って、焦りましたよ」


「そんなことはどうでもいいから、もう終わったの?」


「いやー・・・」


蓮と真司は、顔を見合わせると言い淀む。


「僕はまだ半分くらいで・・・」


「俺はこれからッス」


弥栄子さんが大きなため息をついた。


「さっさと終わらせてくれない。私この後予定あるんだけど」


真司が下品な笑みを浮かべた。


「男ですか?」


バンと大きな音がして、勢いよく扉が開くと、弥栄子さんが部屋の中に入ってきた。


その音に驚いて、危うく椅子から転げ落ちそうになる。


「無駄口ばかり叩いてないで。早く終わらせろって言ってんの」


近づいてきた弥栄子さんが、真司の頭を小突いた。


「すいません」と真司が軽く頭を下げる。


「まったく。そんなんじゃ先月の給料渡さないよ」


「いやいやそれは困ります」


二人同時に首を横に振った。


「あんた達二人とも飼い犬みたいだね」


「可愛い」と言って、弥栄子さんが笑った。


「こっちが蓮の分で、こっちが真司の分」


弥栄子さんが金の入った封筒を、二人に差し出す。


明らかに蓮の封筒の方が、一センチほど分厚かった。


「ちょっとちょっと。おかしいでしょ。なんで俺の方がこんなに薄いんですか」

封筒を見比べた真司が、抗議の意を示した。


弥栄子さんは、驚いて目を開いた。


「蓮の方が、ブローカーに高値で売れるから当然だろ」


納得がいかないのか、口元を歪める。


「俺だって。だいぶマシになってきましたよ」


「真司の努力は認めるが、結果が全て。一枚一枚の値段が上がれば、給料も上がる。値段が下がれば、給料も下がる。至極当然のことだと思うけど」


「でも・・・」


「納得できないなら、権藤さんに言いな。金の管理は、あの人が全部取り仕切ってる」


「いや、それは・・・」


金にうるさい権藤さんに、給料をあげろなど、口がさけても言えない。


渋々といった様子で、真司は封筒を掴んだ。


蓮は、封筒をじっと見つめたまま、動かなかった。


「何?蓮も不服なの」


蓮がかぶりを振る。


「いえ。そんなことないです」


おずおずと封筒を受け取った。


「はい。じゃあ残りも頑張って」


片手をあげ、踵を返すと弥栄子さんは部屋を出て行った。


扉が閉まると、真司が恨めしそうな視線を、封筒に向けた。


その眼差しに気がついた、蓮は自分の封筒から、一万円札を二枚引き抜いた。


「よかったら」


差し出されたお札に、目の色を変えた。


「マジ!いいの」


両手で恭しく一万円札を取った真司は、口元を綻ばせた。

「サイコ―!蓮さんっていい人ですね」


ほんの数分前には「ルールにうるさい」だの文句を言っていたのに、もう忘れてしまったようだ。


「・・・さあ。早く終わらそう」


そう言って、書きかけの色紙に向き直る。


「へえへえ」と真司がめんどくさそうに、頭をかいた。


蓮が絵を習い始めたのは、小学3年生のころだった。


母親に連れられて、絵画教室に行ったのがきっかけだ。


最初は全くやる気はなかった。


当時はサッカーブームの真っ只中にあり、周りの友達は皆チームに所属し、下校後にグランドや広場に集まってボールを蹴って盛り上がっていた。


蓮も仲の良い友達と同じサッカーチームに入りたいと、母親に頼み込んだが「ケガをしたらどうするの。危ないからやめておきなさい」と聞き入れてもらえなかった。


そして連れてこられたのが、自宅から車で15分もかかる場所にある、絵画教室だった。


「湯澤徹絵画教室」という名前で、その名の通り画家の湯澤徹が講師を勤めていた。


画家の湯澤徹と言えば、その界隈ではある程度の名の通った有名画家らしく、母親が友人に連れられて展覧会を訪れた際、その画家の絵に心を打たれ、虜になってしまったようだ。


一般中流家庭の渡井家では、本物の絵画を買う余裕はない。


そこで母親は、その画家の絵がプリントされたポストカードを、展覧会で大量に購入した。


一時期リビングの壁は、そのポストカードで埋め尽くされた。


「四六時中展覧会にいるみたいで落ち着かない」と父親が愚痴をこぼしたが、母親は聞こえないふりをした。


その湯澤徹が絵画教室を開いていると知ったのは、リビングだけでなく、廊下にまでポストカードが貼られ始めた頃だった。


「行ってみない?」と興奮した様子の母親が、チラシを見せてきた。


『第23回日本芸術院特別賞受賞 湯澤徹が徹底指導』


そう大きくプリントされたチラシの右下には、白黒で湯澤徹本人の写真が載っていた。


フチなしの眼鏡をかけた30代くらいの男性が、歯を見せて笑っている。


白黒の写真からでも、その温和の雰囲気が伝わってくる。


てっきりひげもじゃの強面のおじさんが、睨みをきかせている姿を想像していたので、爽やかな男前写真に、興味が出た。


「別に一回くらいなら行ってもいいけど・・・」


そう言うと、母親は飛び上がって喜んだ。


絵画教室は毎週水曜日17時から開催されているということで、帰宅後、休む間もなく車に乗せられ、教室まで連れていかれた。


到着したのは「高野橋区民会館」という所だった。


高野橋区と言えば非常に読みにくい区名だと、近所では有名な場所だ。


逆に言うと、それくらいしか話題になるものがなく、これまで訪れたこともない。


自動扉を抜け、中に入るとホワイトボードに


「湯澤徹絵画教室 2F会議室」


と書かれているのが目に入った。


「なんか緊張しちゃう」


母親が独り言を漏らした。


家を出るときには気がつかなかったが、よく見ると母親が化粧をしていた。


唇は真っ赤に濡れ、キリッとした眉に、目の周りがキラキラと輝いている。


美容院にでも行ってきたのか、いつもボサボサの髪は綺麗に整えられ、白髪も目立たなくなっている。


そしてなぜかいい匂いがした。


母親の、女性としての部分を見た気がして、蓮は急に恥ずかしくなった。


2階へ上がると、廊下の奥に「会議室」と書かれたプレートが、垂れ下がっているのが見えた。


先頭に立った母親の後をついていき、おそるおそる会議室の中を覗くと、キャンパスに向かい筆を走らせている子供たちの姿が見えた。


男女2名ずつ、合わせて4名の同い年くらいの子供達が真剣な眼差しで、絵を描いている。


その周りを、Tシャツにジーパン姿の男性が、微笑みながら一人一人見て回っていた。


あれが「湯澤徹」だろうか。


思っていたよりも、小柄だ。


それに写真では、30代くらいに見えたが、こうして実際に見るともっと老けて見える。


寝ぐせのついたボサボサの黒髪に、古びた眼鏡、やつれた頬にはニキビ跡がたくさん残っていた。


子供たちの前には、学校の教室と同じ黒板があり、その前に石膏で作られた人の顔の置物が置かれていた。


美術の授業とは、全く別物の緊張感があり、鳥肌が立った。


独特の雰囲気にのまれたのか、母親は唇に手を当てたまま、押し黙っている。


すると一人の生徒が、入口で所在なさげにしている蓮と母親に気がついて「先生」と手を上げた。


二人を見た湯澤徹は「見学の方ですね。お待ちしていました」と明るく言った。


「えっと・・・確か渡井蓮君とそのお母様ですね」


「あっはい」


弾かれたように、母親が答えた。


「今日はどうしますか?見学だけでもいいですけど、せっかくだから絵を書いてみませんか?」


蓮に向かって満面の笑顔でそう言うと、手のひらを差し出した。


初めは見学だけのつもりだった蓮だが、湯澤徹の優しい笑顔と、指先が赤や黄色など絵の具で汚れているのを見て、好奇心が沸いてきた。


「お母様も良かったらどうですか?」


母親は、首を横に振った。


「私はけっこうです」


無愛想に言った。


「そうですか」と微笑んだ湯澤は、蓮の手をとって、生徒たちの輪の中に連れていった。


「じゃあ蓮君はここで」


イーゼルとキャンバスを並べ、その前に蓮を座らせると「初めてだからこっちのほうがいいかな」とポケットから鉛筆を取り出した。


「みんなと一緒にあれを書いてみようか。最初だと難しいかもしれないけど、輪郭だけでも簡単に書いてみるといいよ」


蓮の右手に鉛筆を掴ませると、目を細め口元を綻ばせた。


「楽しんで書いてね」


湯澤の言葉に、蓮の心は沸き立った。

学校で使っているノートとは違い、キャンバスに鉛筆を使って書くのに、手こずったが、手を止めることはなかった。


石膏像を視界の隅におき、鉛筆を走らせる。


シャッシャッとキャンバスと鉛筆がこすれる音がして、削れた鉛が輪郭を描いていく。


耳から入ってくるその音は、蓮の背筋を通り、ゾクゾクとしたこれまで味わったことのない感覚を呼び起こした。


快感にも近いその感覚は、蓮の神経を刺激する。


興奮状態になった蓮の視界には、石膏像しか写っていなかった。


触っているわけでもないのに、石膏像の質感、硬さ、無機質な冷たさ、滑らかな流線が手に取るようにわかった。


蓮はその感覚の世界に、身を委ねた。


すると突然、肩に何かが当たった。


それをきっかけに周りの世界が戻ってきた。


石膏像の後ろにある黒板や周りの風景が、視界に写る。


振り返ると、湯澤が蓮の肩に手をおいていた。


「すごく上手に書けてるね」


湯澤が感嘆な声を漏らす。


隣で書いていた少女も湯澤の声に反応し、蓮のキャンバスを覗き見ると、驚きの声を上げた。


「ホントだ!上手!」


少女の声に引かれるように、他の生徒達もゾクゾクと集まってきた。


「すごい!」


「うまいね」


「どこかで習ってたの?」


皆が口々に蓮の絵を褒め讃える。


学校の授業でも、ほとんど褒められたことのない蓮は、どんな顔をすればいいのかわからず、目を白黒させるばかりだった。


ただ絵を書いている時の、あの感覚だけは、蓮の心の奥深くに刻み込まれた。


「あっもうこんな時間ですね。さあみんな片づけを始めてください」


壁にかかっている時計を見た湯澤が、皆に指示を出した。


他の子の様子を真似て、片づけを終えた蓮は、教室の奥で待っていた母親の元に戻った。


母親はつまらなそうに、スマホをいじっていたが、蓮が来たことに気がつくと、手を取り立ち上がった。


無言で立ち去ろうとする二人に、湯澤が声をかける。


「ありがとうございました。良かったらまた来てください」


視線を下げたままの母親が、小さく頷いた。


「ハア」


そう短く言うと、母親は蓮の手を引いて、スタスタと出口に向かう。


来た時と明らかに違う母親の態度に、蓮は違和感を覚えた。


母親に手を引かれ、会議室を出て行こうとする蓮の背中に、湯澤の声が届いた。


「楽しかったかい?」


湯澤の言葉に振り返ると、蓮は笑顔を作った。


「うん!」


「またおいで」


湯澤が手を振った。


これが湯澤や絵画との、最初の出会いだ。


<第二話へつづく>

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