第21話 漆
「それで?わざわざ呼び出したのだもの?それ相応の理由があるのよね?あたしの時間を奪っているのだから??」
「うふふ、嫌ですねえ?ご自分にどれほどの価値があると思っているのでしょう?自意識過剰って言うんですよ知ってます?」
ニノあたりが見たら、震えながら鳴き声をあげそうな女の闘い。背後に黒豹とホワイトタイガーの幻影が見えなくも無い。
「こほん、ちょっと聞きたいんですけど、潮さん。この間、私に
ずびし、と雪凪は人差し指を潮に向けた。字面だけなら小学生の諍いだ。潮は雪凪の指先を少し眺めた後、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「嫌ねえ?自意識過剰はどちら様?あたし、そんなこと言ってないわ?」
「そうですか。じゃあ、私に呪詛もかけてないし、これからもかけないと誓います?」
「なあに?怖いのお?」
くすくす、と潮は嘲るように笑った。雪凪は、む、としたが、深呼吸を一つして、平静な表情を取り戻した。なんだか雰囲気に呑まれたが、雪凪は潮と喧嘩しに来たわけではないのだ。
「なら良かったです。知らないうちに人を苦しめていたら寝覚が悪いですし」
「はあ?」
少しばかり残っていた可憐さをかなぐり捨てて、潮は心底馬鹿にした表情を雪凪に向ける。一生懸命伸ばした導火線に鋏を入れられてショートカットされそうになりながらも、雪凪はポケットからハンカチを取り出した。
「あんたそれ……っ!」
ぴらり、と広がったソレを血走った目で凝視して、何かを確認した後、感情の見えない瞳を雪凪に向けた。
「お兄様から……貰ったとでも……言うの……」
雪凪が肯定すると、潮はしばし、俯いた。ぎゅう、と掴んだ腕に徐々に力がこもっていく。白魚のような指が、血の気のしない、朽ちた珊瑚のような有様だ。
「……はは」
あはははははははは
乾いた笑いが中庭に虚しく響いた。
「…………あんたって、お兄様からも……大切にされてるんだあ……」
俯いたまま、潮がつぶやいた。どこか呆然としたような声音だ。
初めて会った時のように、詰め寄られるかと思っていた雪凪は面くらう。
あまりの大人しさに、若干警戒しつつ、
「……それで?何?あたしを嘲笑いに来たって言うわけ?へえ?随分趣味が良いわね。見直したわ、あなたのこと」
顔を上げた潮は、爽やかな笑みを浮かべていた。しかしその表情にどこか薄ら寒いものを感じた雪凪は、警戒を解かないまま、潮に問いかけた。
「いえ……その、お聞きしたいことがあって、お呼びしました」
「あっは!あなたって何処までも人の神経を逆撫でするわね…捻り潰してやりたくなるわ」
「……」
どうやら彼女と自分は、絶望的なまでに馬が合わないらしい。もうこうなったら、早く用事を終えて離れよう、と雪凪は思った。自分は、潮を怒らせることしか出来なそうだ。
「宗治郎くんって、
「はあ?呪術の名家に向かって馬鹿言ってんじゃないわよ。周家はウチよりもずっとずうっと力の強い家よ」
「そうですか…いえ、潮さんなら何か知ってるのではないかと思いまして…」
口に出してしまってから、失言だったと雪凪はすぐに自覚した。まるで煽っているみたいではないだろうか。幼馴染なのに、知らないの?という。そういうつもりではなかったのだが、そういうつもりにしか聞こえないだろう。
おそるおそる潮を見やると、恐ろしいまでの笑顔で無表情だった。
「あは、あははは、あんたって最高よ。ここまであたしのこと怒らせた人、今まで居なかったわ?……なんでよ、なんであんたなの?なんで………」
ぶつぶつぶつ…と口の中で何事かを呟きながら雪凪を睨みつける潮。雪凪は、少し考えて……やっぱり言おう、と決心した。サワルナキケンチカヨルナ案件なのは分かるのだが、やっぱり一言、物申したい。
「潮さん。あなたは宗治郎くんのこと、本当に好きなんですか?」
「…………当たり前じゃない。あたし、お兄様のこと、だあいすきよ。この世の誰よりも、だあいすき」
雪凪は潮のぎらぎらと輝く瞳をみつめた。
「なら、普通にそう伝えれば良いのでは?……ただの勘ですけど、宗治郎くんに近づく女の人……追い払ってきてたりしてません?」
「なあに?お説教?そういうの鬱陶しいからやめて欲しいんだけど。でもそうよ。お兄様に色目を使う奴、あたしが全員呪ってやったわ?」
「……周りを排除したって、それで何になるんですか?宗治郎くん自身と関係を築かないと、意味がないでしょう」
潮は、独占欲を露わにするわりに、宗治郎のことを知らない。多分、自分よりも……と雪凪は気付いていた。
「……うるさい」
おそらく、それは潮も承知しているのだろう。
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!家族がいて、愛されていて、幸せなあんたには分からないわよ!!」
それは、血を吐くような叫びだった。
「………確かに、私には、潮さんの気持ちは……分かりません。でも、あなたのその行動は、宗治郎くんも、あなたのことも、不幸にする気がします」
雪凪は、潮が何をしたいのか理解できなかった。宗治郎の周りの人間を排除して、それで彼の側に誰もいなくなったからといって……宗治郎が潮を好きになると思っているのだろうか……?
(宗治郎くんは、切り捨てるべきだと思ったら、多分、容赦はしない)
それが宗治郎の本意であるかは別として。
「いいのよ。それで」
潮はうっそりと笑った。
「幸せなやつになんと言われたって、あたしは救われない。お兄様だけよ。お兄様だけが、あたしを罰することが出来るの。そうしてあたしは、お兄様の傷になるの…………」
頬を薔薇色に染めた潮は、それだけを見れば、確かに恋する乙女である。けれど、甘く煮詰められたような黒い艶やかな瞳が、彼女の歪さを象徴していた。
雪凪は、張り付いたようになった喉をなんとか開いた。
「潮さんは…宗治郎くん一人に寄りかかりすぎだと思います…」
「お兄様しか欲しくないもの」
これが、依存、というのか…と雪凪は戦慄した。創作の中では数多く見たことがあるが、現実では初めてだった。ヤンデレ?メンヘラ?……二つの違いは何なんでしょう……と、余計なことが頭の中を駆け巡る。どうしよう、ヤンデレメンヘラとの対人関係を学ぶマンガって読んだことがない!後で検索しよう、と雪凪は心に誓った。
……と、混乱している雪凪であるが、現実の時間は止まらないし、今、潮を止める可能性があるのは雪凪だけだった。それが望みの薄い闘いだったとしても、潮に面と向かって言葉を紡げるのは雪凪だけなのだ。雪凪は、覚悟を決めた。
「やさしい人と、一緒にいるのは心地いいですよね?わかりますよ。でも、人は一人に寄りかかりすぎちゃ、きっと駄目になってしまう。どんなに仲が良くとも、いつかおかしくなってしまう」
「お兄様となら、それがあたしの幸せだわ?」
とても嬉しいことを言われた!とばかりに、目を輝かせる潮を見て、雪凪は徐々に、もやもやと胸の内で燻っていた思いが、形になっていくのを感じた。それは、怒りだ。
「ご自分のことばかりですね……」
思った以上に、吐き捨てるような言い様になってしまい、雪凪は少し慌てた。しかし潮は特段、意に介さなかったようだ。
「みんなそうじゃない。自分が一番可愛いの。それの何がいけないの?誰もあたしを救ってはくれない。だから自分で自分を救うのよ。あたしだって
潮の感情は、どれも熱量を持っている。放たれる言葉を聞くたび、雪凪はそれに圧倒され、紡ぐ言葉を失いそうになる。きっと宗治郎を介さず、潮だけと知り合ったならば、早々に関わるのを辞めてしまっただろう人種だ。お互いにそれは分かっていた。
「そうでは、ありません……」
月並みだが、人は皆幸せになる権利があると、雪凪は思っている。しかし、自分の幸せのためなら、何を傷つけてもいいなんてそんなはずは、ない。しかし、潮にそれを言っても伝わらないだろう。宗治郎の言うように、善悪の基準が潮には存在していない。他者の心情を想像する余裕が彼女にはない。愛を求めて彷徨う獣のような姿は、いっそ哀れだった。
「教えてください。どうして、宗治郎くんなのですか?」
「簡単よぉ……だって、お兄様、あたしより……可哀想なんだもの!」
「可哀……そう……?」
「いやよお、教えてなんてあげなあい!自分で聞いてみれば?絶対教えてくれないとおもうけどね?」
ふふ、ふふふふ…………
歪んだ赤い口元を見つめていた雪凪は、潮に抱いていた感情が攻撃的なものではなくなっていることに気づいた。あれほど不気味で、恐ろしく感じていた彼女が、うずくまって泣いている、小さな女の子に見えてきたのだ。潮にとっては、屈辱的かもしれないが、芽生えたのは確かに、憐れみだった。
「ねえ、騙されたと思って、私と友達になってみません?」
「…………はあ?」
だから雪凪は、気がついたらそう口にしていた。
「私に、潮さんの苦しみは分かりません。でも、分かち合うことなら、出来るかも知れません。」
「あんたに何の得があるのよ?」
「特がないと友達になれないんですか?」
雪凪のその言葉は、愛されている人間の言葉だ。自分に余裕があるから、他者を慮ることができる。損得勘定でしか物事を図れない潮は、自分の醜さを指摘されたようで、不愉快に思った。
「馬鹿にしてるの?吐き気がするわ」
「じゃあ、宗治郎くんのこと、教えてもらえるかも、という下心がある、ということでどうですか?それも本当ですし」
「いやよキモチワルイ。あたしあんたのこと嫌いだもの」
「そうやって選り好みしているから友達できないんじゃないですか?」
「あはははは!あんたって最高よ、最高にイライラさせてくれるわ!」
ぎり、と睨みつけたその顔は、きちんと憎悪に彩られていた。それを認識しつつも、雪凪は引き下がるつもりは毛頭なかった。
「ま、いいです。勝手に友達ということにしますので」
「は、はあああ?あなたってもしかして頭の方がおかしいの?」
「潮ちゃん」
潮は鳥肌が立った。
「……なんのつもり?」
「私のことは雪凪でいいですよ」
「はあ?呼ぶわけないでしょいい加減にして!!」
「嫌です」
興奮で瞳孔が開き気味になった潮にも、雪凪は動じなかった。否、動じていないように努めていた。
「潮ちゃんが私のことを嫌いになるのは潮ちゃんの自由です。だから、私が潮ちゃんのことを嫌いになるかならないかは、私の自由です。そうでしょう?」
――何を馬鹿なことを
――『ちゃん』なんて、許したおぼえは…………
そんな潮の波打つような心境とは反対に、雪凪の心は凪いでいた。じ、と潮を見つめる薄水色の瞳には底が見えない。潮は、ぞわり、と胸の内に広がる感情を信じられなくて踵を返した。それは、恐怖だった。未知のものへの。理解が出来ないものへの……。
「逃げるんですか?」
「……!うるさい!あんたとこれ以上話すことがないだけよ!」
潮は、雪凪の視線を振り切るように歩き出した。
――なんなのよ、あいつ。
――あんな……あんな屈辱的なこと、言われたの初めてだわ。……許さない…………。
がり、と親指の爪をかじった潮は、その自らの悪癖に気づき舌打ちをした。この幼稚な癖は、自分が動揺しているときに無意識で出てしまうのだ。潮はそれをきちんと分かっているからこそ、忌々しかった。
兎にも角にも、このような状態で『友人達』の前に戻れない。
潮は仕方なく、中庭に面したベンチに浅く腰掛ける。雪凪の気配が残るようなこの場所に、長くはいたくなかったが背に腹は変えられない。
ぼんやりと中庭を見つめていると、先程のやりとりが脳裏を流れていく。
(ああ、ああいやだ、こんなこと、思い出すなんて……わたしがまるで、傷ついているみたいじゃない!)
ふるり、と頭を振った潮は、そのまま上体を崩した。惨めだった。こんな風に、簡単に傷つけられる自分が何よりも嫌いなのに、何をしてもうまくいかない。欲しいものは、いつも手に入らない。
こんなとき潮はいつも、恨みを思い出していた。負の感情は、痛みを与えてくる代わりに、絶望に囚われ身動きが出来なくなりそうな潮に、身体の底から湧き上がるような、力を与えてくれていた。……しかし、今日に限ってそれはうまくいかなかった。
(……なんでよ。なんで……これじゃあ、本当に、あたしが…………)
風に流れて、知らない誰かの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。なんの悩みもなさそうな、明るい声。潮は、ぎゅっと目を瞑り、両耳を強くおさえた。
うるさい
うるさい
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!!!
「…………………………当たり前に愛されて、当たり前に人を愛している。いいなあ、羨ましいなあ…あたしだって、そうなりたい……」
あたしは、ただ、あんたみたいに、愛されてみたかっただけなのに
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