第3話 心の中の津田健次郎が私に百合をささやく




 わりとどうでもいい会議なはずだった。社内のやや広めの会議室。大きなモニターには私たちに仕事を恵んでくださっている大手IT会社デネブの担当者が3人映っている。弊社開発担当者として私が引っ張ってきた彼、周防君がテーブルの上にぽいと置かれた平らなスピーカーをちまちまといじっている。もうひとりの同僚であるサブリーダーを任した彼女、似野さんは、目を閉じて静かにイライラとしていた。そんなとき、ようやく会議室のドアがバンと開いた。


 「遅れて申し訳ございません!」


 灰色のスーツ姿の女性。ショートボブにモチーフが揺れるピアス。その服は少しよれよれとしていて、彼女の仕事の力量が乏しいことを感じさせる。その後ろから来た背広の男はエンジニアらしさが過剰にあふれてて、融通が利かなさそうな気配がしていた。


 (こいつは……。もしかしたら、なかなかのもんじゃないか) by CV 津田健次郎。


 この状況に心の中の津田健次郎が、早速口を出す。

 私は津田健次郎が出る作品ばかりを見過ぎたせいで、こうして津田健次郎のボイスがいつも心でささやいている。ちなみにおすすめは『ACCA13区監察課』だ。

 そんな内面を隠すように私は彼女へ声をかけた。


 「アルタイル様はそちらの2名でよろしかったですか?」

 「はい、いつもお世話になっております……」


 名刺を差し出そうとしてきたので、私はやんわりとそれを拒絶する。


 「すみません、時間が押してまして。みなさんお忙しいでしょうから、名刺交換はのちほどで」

 「そ、そうですね……」


 彼女らが私たちとは対面の壁側の席に座り、大慌てで大きなノートPCを黒いバッグから取り出す。

 こちらのチームで人のやりくりが追い付かず、その話をしたらスポンサーから追加開発を任された同業他社。

 この女性はPMとか開発責任者とか聞いている。まあ、私より歳下かな。場馴れしていない様子に、少し私のなかで警報が鳴る。


 (さて……。お手並み拝見と行こうじゃないか) by CV 津田健次郎。


 相手のノートPCが無線LANにつながるのを見届けて、私は彼女のほうを向いてうなずく。


 「それでは準備が整ったようですので、定例会議を始めさせていただきます。本日のアジェンダはアルタイル様から開発内容の確認ということでしたが、よろしいですか?」

 「はい、私、アルタイルの御子柴と申します。こちらは今回の開発主任を務めます北沢と申します。弊社ではこのような案件には慣れており……」


 自己紹介が長いな。とりあえずそのまま話させておく。


 「……それで現在弊社でのスケジュールとしては、共有させていただいている図のような形になります。仕組み的にはgRPCもRESTも使わず簡単なものにさせていただき、開発するこのAPIの内容についてこの場でご質問させていただきたく……」


 少しざわつく。大枠の説明もないので、なぜその仕組みやスケジュールになったのかわからない。そのうえで向こうが作業担当するAPIの中身を聞かせろ、というなんともちぐはぐな感じ……。そもそも事前にこういう話をするというのも聞かされていなかったから、この場で答えようがない。うっかり答えてしまったら、言質を取られて、最悪弊社でお膳立てすることになり、人手が取られて予算が超過してしまう。手を動かす周防君だって現状で目いっぱいなのだし。


 (ほう。なかなかやってくれるじゃないか) by CV 津田健次郎。


 まず噛みついたのは、このままだと被害者になりそうな周防君だった。


 「すみません。まず教えていただきたいのですが、API自体の認証はどのような形にされますか?」

 「こちらは事前にデータを共有させていただきますので、とくに認証機構もいらないと存じてます」

 「追加開発部分は別のVPCで組まれるので、データベースの共有はしないとの認識ですが……」

 「ですので、事前にデータダンプを取って、それを互いのデータベースにストアすれば済むかと」

 「ユーザーが追加されたらどうなるのですか?」

 「それは、デネブ様のご意向次第かと思います。現状の工数を鑑みると、この方法がもっともよい方法であると弊社は思っています」


 彼女がイライラとした口調で言う。なんでこんなこともわからないの?みたいな。

 周防君が技術者的良心で説得を始める。セキュリティ的に問題だし、今後の拡張性も犠牲になる。サーバ間通信にしろクラサバ間の通信にするにしろ、トークンのやりとりなど何かしらの認証機構を基に、データを都度共有するような形にさせてほしいと懇願するように話す。

 それを聞くと彼女は、いただいた工数からはこちらが最適である、認証機構など作る工数はないと繰り返す。それはそっちにとっては最適かもしれないが、こちらや客にとっては知ったこっちゃない。

 時間が浪費していく中、お金を出しているほうも割れだした。「ねえ、なんでこんな仕組みで了承したの?」「いや、半年後に作り直す予定があって……」「いや、それでもさ」と会話が続く。

 そこに彼女は割って入ってしまう。


 「弊社アルタイルとしてはそのようなお話をいただいているので、このような形にさせていただきました」


 まるでお金を出したお前が悪いとでも言いたそうな口調。これはなかなかにまずい悪手だ。


 (このままじゃ言われちまうな。これだから女は、って) by CV 津田健次郎。


 所詮、技術者界隈は男性社会だ。「車のエンジンがかからない」系の逸話を本気で信じているような輩が、決裁権や裁量を持っている。私はそれと笑顔で戦ってきて、今の地位がある。最近は女性エンジニアも増えているが、たまにこうした悪手を女性側からしてしまうときがある。本来なら男女など関係ないのに、どうしてそう型にはめて思われるのか……。実際にデネブ側の担当者から女の気持ちはわからないです、と気軽に言われたことがある。

 同じ思いをしてきた戦友の似野さんが、一矢を放つ。


 「たいへん興味深いお話なのですが、弊社側でも初めてお聞きしたところですし、いったん内容を拝読させていただき、それからご返事するような形にしたほうが、より正確な内容になるかと思いますが、いかがでしょうか?」

 「それではスケジュールが……」


 彼女はあきらかに焦っていた。声が震えだしている。横にいる開発者は腕組みをしたままで黙っている。なるほど、そちらの戦友になるはずの人間は話し合いの拒絶か。あちらは何かに失敗している。予算か人員か指揮か、それとも……。


 (ああ、めんどくさいな。そろそろ殴っちまおうぜ) by CV 津田健次郎。


 まあ、そうだね。私もそう思っていたところだよ。


 (なあ、嬢ちゃん。ずいぶん昔に教えただろ。人を殴るときはこうするって。『ありがとうございます』ってな) by CV 津田健次郎。


 私はようやく口を開く。


 「ありがとうございます。技術的なところは今後詰めさせていただくとして、法令的な懸念についてはご検討されていますでしょうか?」

 「いえ、今はそんな話はしていないと思いますが!」

 「データの共有については、個人情報保護法の観点から弊社で共有しにくいデータもあります。そちらも含まれるように思うのですが」

 「それは……」


 彼女がようやく言葉に詰まる。好機と見て畳みかける。


 「もしそのようなことに不慣れなようでしたら、私たちにはこの分野で経験があるスタッフがいます。技術的なところも含めて、御社をお助けするためにさまざまなアドバイスはさせていただきます。どうしても別途費用が掛かってしまうところではあるのですが、ぜひご検討いただければ御社も助かるのではないかと思っています」


 (翻訳してやろう。『お前たちがふがいないから金を寄越せ、俺が手本を見せてやる』ってとこだな) by CV 津田健次郎。


 まあ、そんなところだ。付け加えるなら、周防君の指摘はおせっかいだ。彼女たちの開発が遅れたらこの指摘が業務妨害とも受け取れかねない。だから火の粉を払ったまでのこと。あくまで助ける姿勢を見せながら、みんなで作ろうぜ感を醸し出し、相手を全力でぶん殴る。スポンサーのデネブさんを前にしているので、ドン引きされない程度のギリギリのパンチ。


 「弊社としては……」


 彼女が涙声で探るように言いかけたとき、お金を出しているデネブ側の人間が口を挟む。


 「すみません。そろそろお時間がありまして。どうでしょう。弊社とアルタイルさんとの間で詰めて後日、七海さんやベガさんたちにお話しするということで。アルタイルさんには現状をまとめていただき、次の定例会議までにもう一度内容をここにいる人たちで検討する感じで、いかがでしょうか?」


 裁定が下る。スポンサーがバイネームで私を名指ししたのだから、それなりにパンチが当たったのだろう。


 「はい……。御社がそれで良ければ……」


 勝った。


 (お前が地面とキスしてんのは、俺が殴ったせいじゃない。俺という化け物に出会った不運のせいさ) by CV 津田健次郎。


 それだけではないけどね。デネブ側も丸投げしている。何もかも教えてくれるわけではない。私たちのような存在は、これでいいのかと例を示しながら決められた予算と人と時間の中でがんばるしかない。ご愁傷様としか言いようがない。これはビジネスの世界だ。

 彼女はうなだれていた。気持ちはわかる。今日の会議が元で失注でもしたら、君たちの明日のご飯代はなくなるのだから。私は倒した彼女をかわいそうに思い始めていた。


 (お前がひのきの棒で戦おうとしているときに、俺たちは運よく聖剣を持ててたってだけの話だ。まあ、悪いとすれば出来ないことを言い訳にひのきの棒で満足しちまってたんじゃないのか、お前は) by CV 津田健次郎。


 隣に座ってた似野さんが、待ちかねていたように手際よく会議を閉めにかかる。次の日程を確認している間、下を向き何も話さない彼女を、私は何とも言えない気持ちで見つめていた。






 会議が終わり、オフィスの自席に戻ると周防君からうれしそうに声をかけられた。


 「七海さん、ありがとうございました。あれは素人ですね」

 「聞かれちゃうと面倒だからそんなこと言っちゃダメだよ。まあ勝ちましたけど」

 「ですよね。あれに巻き込まれたら、いくら工数があっても足りませんし。かと言って予算が増えるわけでもなし」

 「お金くれたらなんでもやるけどね」

 「あはは」


 周防君がにこやかに笑う。かわいい男の子だった。柳楽優弥みたいな。まあ、推しは愛でるだけだけど。コンプラのせいで、社内恋愛ってだいぶ遠くなったな……。

 笑い終えると周防君が私にお願いをし出す。


 「あとでプルリク出すので見てもらいますか?」

 「いいよ。出したらSlackでメンション飛ばして」

 「お願いします。あんまりマサカリぶつけないでくださいね」

 「わかってるって。泣かない程度にするね」

 「ひどいな、もう。じゃ、お願いします」

 「はいよー」


 彼の華奢な後姿を見る。何をするにしてもみんな臆病になる。「そういうご時世、仕方がない」と仕事に頭を切り替える。

 さっきの会議している間にリモートの社内会議が3つほど割り込まれていた。「それぐらいSlackで投げろよ、意味わからん」と思いながら、ワイヤレスヘッドホンを耳につけて会話を始める。あれこれ聞いてくる同僚たちに適当に話していたら、お腹が鳴りだした。話している間にGoogleカレンダーで今日の予定を見る。19時までびっしりだ。


 (なに、失策という奴さ。昼休みの時間を予定に入れてなかったのは。殴るべき相手は、見境なく予定を入れてくるクソ虫どもだ) by CV 津田健次郎。


 音を立てないように机の引き出しを開けるが、こんなときのためにいつも置いてあるお菓子たちは、あいにく欠片もなかった。

 途方にくれていると、似野さんがコンビニの袋をカメラに映らないようにちらりと見せた。

 私は声に出さず、似野さんに小さく手を合わせる。


 「ちゃんと食べないとだめですよ」


 似野さんが小声で言う。こんな気遣いが涙が出るほどありがたい。袋を私のノートPCの横に置くと、一緒に何かを書いた付箋を見せる。


 ――アルタイルさんがしばらく会議室を使いたいとのことです。空いているとこにご案内します。


 私は大きくうなづいて、声を出さずに了解の合図を出す。似野さんは小さくうなずくと、大きなシュシュで束ねた黒髪を揺らして、会議室のほうへと向かっていった。

 それにしても何に使うんだろ。自社へ帰ればいいのに。帰りたくない理由でもあるのかな……。そんな考えは同僚からの画面越しの質問にすぐかき消された。






 たまに会議が予定していた時間よりも早く終わると、砂漠を放浪した果てにオアシスを見つけて飛び込んだ気分になれる。次の会議までに似野さんからもらったものを食べようと袋に手を伸ばす。いつものおにぎり2個とペットボトルのほうじ茶。彼女はよく私を見ている。私がお昼にこれぐらいしか食べられなくなってることも。だけど、今回はちょっと違ってた。小さなチョコレートが入っていた。あ、そうか……。今日はそんな日だ。


 (お前はたぶん悪党だ。小悪党ってもんじゃない。人の気持ちを踏みにじるような奴には、さて、どんな名前がふさわしいんだろうな) by CV 津田健次郎。


 そうだ、私は。そんなもんだ。彼女の好意を利用して仕事をしている。私の転職先についてくると真剣に話をされたあの日も……。

 Slackのしゅぽぽという音がして、ワイヤレスヘッドホンをつけっぱなしだったことに気がつく。書かれたメッセージを見て、これはまずいなとすぐ思った。その場で立ち上がり、パンパンと手を叩く。何事かとチームのみんなが私に注目する。一呼吸おいて、私は伝わるように大きな声を出す。


 「Slackの全社スレにも載りましたが、まん延防止等重点措置のため、明日からフルリモになります。原則出社禁止です。今日帰るときは各自ノートPCを持って帰宅してください。自宅作業するときはVPNへのログインと作業記録を忘れずに。よろしくお願いします」


 各自の席でうへえと呻く声、やったーと喜ぶ声が相反する。自宅勤務はうれしがる人とそうでない人もいる。みんな事情がそれぞれある。

 周防君と似野さんにも、しばらくリアルでは会えなくなるのか……。私の事情はそれぐらいしかなかった。


 (寂しいときは寂しいって、そう言えばいい) by CV 津田健次郎。


 そうだけどさ。そうも言えないのが社会人であり大人って奴なんだよな……。

 椅子の背もたれに体重を預けてため息をつく。それからGoogleカレンダーをじっと見つめる。10分後の会議はたぶんあいつらだけで回せるだろう。その次の会議は、あとで議事録見ると言い張れば大丈夫。1時間は空けられる……。

 私は素早くふたりにDMを飛ばす。「いっしょに仕事についての雑談がしたい。お菓子と飲み物を持って10分後に13会議室に集合」と。イイね的なスタンプをすぐにふたりからもらい、私は安堵して椅子に沈み込む。


 (こんなときに飲みには行けないし、その誘いだってパワハラになっちまうかもしれない。お前にしちゃ、まあ上出来じゃないの) by CV 津田健次郎。


 そんなことを思ってたらアラートが飛んできた。開発用サーバのディスクフルを知らせている。担当しているSREは今日の朝会で別プロジェクトのメンテをしているとか言ってたのを即座に思い出す。まあ、私がやればすぐ済むか。コンソールを開く。いつもの手順でやっていたら、なかなかディスクの容量が広がらない。あれ?あれれ?と思いながら、いろいろ調べていく。tmpディレクトリを別のファイルシステムにマウントして10Mバイト以上空けないと自動伸長しないというよそ様のドキュメントを探し当てたときには、もう1時間ぐらい経っていた。

 Slackには似野さんからDMが1通だけ来ていた。意を決して開くと「ああいうの、微妙な空気になるからやめてください」とだけ書かれていた。


 (あっはっは。なにやってんだお前は) by CV 津田健次郎。


 何してんだろうな、私。本当に……。

 似野さんにお詫びのメッセージを送る。リアクションはない。いつだって仕事は私に寂しさしか与えない。仕事は私の寂しさを埋め合わせてくれない。こざかしいずるさ、にじむような焦燥感、空虚な羨望、そんなもので私をいっぱいいっぱいにさせるだけ。私は疲れたふりをして、ちょっとだけ目を閉じる。






 いろいろ一段落させていたら、もう21時を回っていた。つかつかと周防君が私の横に来る。


 「プルリクいつ見てもらえるんですか?」

 「ごめん、忘れてたわけじゃないよ。夜遅くになっちゃうけどいい?」

 「はい、大丈夫です。すみませんが、今日は帰ります」

 「ごめんね」

 「いえ」

 「また明日もお願い」

 「はい」


 彼は正しい。エンジニアとして。

 彼は間違い。弱っている上長への対応として。

 似野さんからもらったチョコを彼に渡して反応を見てみたい気がしたけれど、そんなことすらさせてくれなかった。


 (わざわざ人の道を踏み外すことはないんじゃないか。そうならなくて良かったって考えろよ) by CV 津田健次郎。


 人の気持ちを横流しするのは、まあ、そうなんだろうな……。

 不器用に包装を剥がして、チョコをかじる。私好みのほろ苦い味がした。


 「すみません、七海さん。お話したいことが……」

 「あ、アルタイルさん」


 ぎょっとした。あわててノートPCを閉じる。画面には会社の数字やらなにやら部外者に見せられないものばかりが映ってた。これ、報告したらセキュリティの部署が青筋立てて腹を立てる場面だ。


 「そのですね、もう少し……」

 「すみません、御子柴さん。私、似野が承ります。七海はまだ予定がありまして。こちらへぜひ」

 「はい……」


 異変に気付いた似野さんが、アルタイルの人を遠くへと引っ張っていく。10分ほどして私のところまで戻ってきた。


 「ギリギリまで会議室を使わせてください、ってことでした」

 「そんなのSlackにでも連絡くれれば……」

 「なんというかその……。七海さん、殺されないようにしてくださいね」

 「え、なんかそんな話なの?」

 「同僚の人が先に帰ってて。すごい殺気というか……。会社で何か言われる前に資料をまとめたいそうなんですが」

 「なんだ……。アリバイに使われているってこと? うちが引き留めているから帰れない的な?」

 「そんな感じです」

 「まあ、いいや。会議室ぐらい使わせてあげなよ」

 「いいんですか?」

 「それぐらいならさ。なんかかわいそうだし」

 「七海さんはやさしすぎですよ」

 「そんなにやさしくはないよ。打算的し過ぎて、自分自身では嫌になってるけどね」

 「本当にそうだったら誰もついてきませんから」

 「そんなものかな……」


 しぐさがかわいい動物でも見ているように、似野さんがくすくすと笑い出す。

 詫びるならいまのタイミングかな。


 「さっきはごめん」

 「いえ。気にしていません。……チョコおいしかったですか?」

 「うん。私が好きな味だった」

 「だって覚えていますから」


 忘れてくれてもいいんだけどな。






 一人二人と帰ってく。会議室を除けば、もうこのフロアには私と似野さんしかいなくなっていた。

 似野さんは根を上げたように帰り支度を始め、コートを着たあとで私に近づいてくる。


 「すみません、私もそろそろ」

 「うん、また明日」

 「家だと仕事しづらいんですけどね」

 「ああ、顔見ながら仕事したい感じ? Discordとか……」

 「いや、そういうんじゃなくて……。そうですね。『千春さん』も早く帰ってください」

 「うん、あとちょっとだから。周防君からのコードレビューだけだし。ありがとうね」

 「では、お疲れ様でした」

 「はい、お疲れさん」


 誰もいないときだけ、彼女は私を下の名前で呼ぶ。

 そこに恋愛感情はないと信じていたい。でも最近匂わせがひどくなってる。

 それすら利用して、私は自分の仕事を成し遂げている。


 (俺でよければ、いくらでもののしってやるぜ) by CV 津田健次郎。


 そうだね、そうしてくれよ。彼女の後姿を見送りながら、そんなことをいろいろなしがらみで縛られた椅子の上で思う。


 やっと周防君から出されたプルリクのコードを読み始める。さっぱりとしたきれいなコード。だいたい軽微なものだったので、少しだけコメントをつけてLGTMを出す。

 あとは明日でいいだろう、もう……。帰って寝たい。最近好きなアニメもぜんぜん見てないな……。津田さんが出るのはみんな見てたのに。


 (変わっている子だ。俺はいつだってお前の心の中にいるのに) by CV 津田健次郎。


 そうだね……、いてくれて助かる。いてくれなければとっくに私はつぶれてるだろう。

 ふとスマホの時計を見る。もうすぐ0時を回るところだった。


 様子を見に行くかな。


 よいしょと立ち上がり、歩きだす。会議室へと続くドアのセキュリティにカードをかざす。ピッという音がした後で、ドアを開くと会議室のひとつにはまだ灯りがついているのが見えた。

 私はあきらめたようなため息を漏らす。

 会議室を通り過ぎて、受付の近くにある社員用自販機で缶コーヒーをひとつ買った。


 コンコン。


 ノックの後、会議室のドアを開ける。


 「すみません、みんな帰宅したのでそろそろ……」


 ノートPCにかじりつくようにしていた彼女は、捨てられた子犬のような目で私を見つめた。


 (おいおい。ずいぶんとしんなりしたじゃないか) by CV 津田健次郎。


 これが彼女の素かもしれない。下手なメッキは剥がしたほうがいいときもある。

 私は彼女のすぐそばに近づく。戦友に話しかけるようにやさしく言う。


 「もう少し頑張りますか? 付き合いますよ」

 「いえ、これは弊社の仕事ですから……」

 「じゃこれは陣中見舞いということで」


 買ってきた缶コーヒーをテーブルにことりと置く。

 めずらしいものを見たように、彼女はそれを凝視した。


 「こんなことしてどこが楽しいんですか?」


 (おっと子犬が噛みついてきたぞ、これはこれでかわいいじゃないか) by CV 津田健次郎。


 「いえ、そんな。純粋に大変そうに思いまして」

 「応援? 励まし?」

 「そんなところでしょうか」


 座っている彼女が見下ろしている私をしっかり見つめる。


 「じゃキスでもしてください。缶コーヒーじゃなくて。あなたにはできないでしょうが」


 (なんだと……。売られた喧嘩は買わないとな。だってもったいないだろ?) by CV 津田健次郎。


 私は彼女の顎に手を添えて顔を上に向ける。すぐにそのまま唇を重ねた。ほんのちょっとの間だけ。

 さあ、お望み通りのキスだ。これでどうかな?


 「御子柴さん、たいへんなようでしたら、私も手伝いますから……」


 突然、彼女がテーブルのものを手で振り払う。

 ノートPCがばーんと空を飛んだ。

 大きな音を立て、無残に床へと落ちて何度も転がっていく。


 (おいおい、キレちまったのか) by CV 津田健次郎。


 彼女がすっと立ち上がる。


 「先に仕掛けたのはあなたですから」


 小外掛? 裏投? とか思ううちに、床へ倒された。そのまま彼女が覆いかぶさってくる。すぐ首筋に吸い付く。左手で胸を揉みしだく。余裕も何もない必死なだけな愛撫。少し反応してあげたら、そこを重点的に舐めたり吸ったりしている。


 かわいいな。私を感じさせようと必死になる姿がなんともかわいい……。


 (男は度胸、女は愛嬌) by CV 津田健次郎。


 じゃ百合はなに?


 (決まってるだろ。最強さ) by CV 津田健次郎。


 このかわいさは確かに最強だな……。

 私はかぶさっている彼女の体の片側をつかみ、えいっという感じで上下を入れ替える。攻守逆転。今度は私が彼女の首筋に舌を這わせる。そうしながら左手を胸に伸ばす。意外とブラって感触が固い。ガードを解くべく左手ひとつで胸元のボタンを開けていく。これは確かに練習がしたいなと思うぐらい苦労する。それでもいくつか外せたので、首元からわずかに出せた胸のふくらみにかけて、舌をつつーっと滑らせる。


 「んっっ!」


 なるほど、こんなのが良いんだ。あれ、なんかこう……。ちょっとおもしろい。

 女の子を相手にするのは人生で始めてだった。でも、こうして相手の気持ちの良いところを探っていくのはなかなか楽しい。

 下のほうはどうだろう。胸のあたりをちろちろとしているまま、左手をふとももへと降ろしていく。その先を期待でもしているせいか、彼女の体がぴくんと反応した。

 スカートをたくし上げながら手を入れ、ストッキング越しに何度も感触を確かめる。抵抗しないなあとぼんやり思う。じゃ、もう少し先に進んでもいいのかな。ふとももをからませながら、体を密着させていく。


 「ぅ……、んっ。んんっ……」

 「いい声で鳴くね」

 「いやらしい人ですね……」

 「どっちが」

 「私は……」


 その言葉をキスで塞ぐ。舌のこすれる感触が少しくすぐったいが、水の音といっしょに漏れ出す吐息がなんともかわいい。

 こうなったら、もっとかわいい姿を見たいな……。

 唇を離し、何か言いたそうにしている彼女をそのままにして、耳を軽く噛む。


 「んっ! そこは……、や……」


 なんだ。耳がいちばん反応いいな。じゃあこうしたら。彼女の体がびくびくとわななく。楽しい。

 何度かそうして、やっと体を離してあげた。

 彼女を見下ろす。スーツは乱れまくっているし、胸元は開いてふくらみが見えるし、スカートは腰までめくれている。ものすごい格好にさせてしまった。少し良心が呵責する。

 肩で息をしながら、彼女は私を求めるようにずっと見つめていた。


 ここじゃやりづらいんだけどな……。


 もう人はしばらく来ないはずだけど、この床ではどうにも膝がすれて痛い。冷たいのもよくない。


 (公私混同はよくないだろ。つまり理由ってそういうことさ) by CV 津田健次郎。


 ああ、そうだね。


 「私の家、行こうか」

 「……はい」


 彼女が顔を背けて恥ずかしそうにそう言う。私は立ち上がり、彼女に手を差し伸べる。握り返してくれたので、よいしょっと起こしてあげた。






 彼女は裸のまま私のベットの上で体育座りして遠くを見つめていた。なんかかわいそうになって白い毛布をその上からかけてあげる。

 あのあとタクシーの中でもキスしまくってて、家についてからもどかしいように服を脱いで結局こうなった。ホテルのほうが……とか一瞬思ったけれど、部屋を取る手続きすら待てなかったぐらい。

 何か服を着ようと思ってたけれど、なんか面倒になって私も裸のままでいた。


 「コーヒー飲む?」

 「紅茶のほうがいいですが……。まあ、飲みます」


 体を重ねてもこの子は変わらないな。私はちょっと苦笑いする。

 ふたつのマグカップへインスタントコーヒーを作り、ベットまで持っていく。


 「ごめん。カップ持ってて」

 「はい……」


 私も彼女のすぐそばで体育座りをする。触れ合うすべすべな人肌があったかくて気持ちいい。彼女がカップを渡してくれる。ふたりで裸なまま毛布をかぶってコーヒーを少しずつすする。


 (公序良俗にだいぶ違反してるようだが、まあやってしまってものは仕方がないな) by CV 津田健次郎。


 そう、仕方ない。まるでうっかりロケットにでも載せられた気分。月に命中するまで二人はこのまま猛スピードみたいな。

 彼女の反応を探るようにしていくのも楽しいけれど、いじらしく私を感じさせようとしていたところとか、少し余裕が出てきて「ここですか?」とおずおずと聞いてくるところとか、私もだいぶなんかこう……。

 何これ。プロジェクトのふりかえりとか反省会みたいなもの? 職業病やばいな……。

 放心していた彼女がぽつりとつぶやく。


 「同じ部屋でリモート会議したら、バレますかね……」

 「まあ、そうかもね」

 「私、帰ります」

 「午前休ぐらい取ればいいのに」

 「そんな余裕ありませんから」


 (ずいぶんツンケンしてんな。お前が悪いんじゃないのか?) by CV 津田健次郎。


 まあ、それはそうかも。体ばかり楽しみ過ぎたか。


 (なあ。体から始まる恋があってもいいんだぜ。いいか。愛って奴は自由なんだ) by CV 津田健次郎。


 そうだけどさ……。

 目の前でブラを付け始めた彼女を見ながら、私はなんというか、このまま手放したくない気持ちと手放したほうがお互いのためになるんじゃないか、という相反する想いに駆られていた。


 身支度をすっかり整えた彼女が、狭い玄関先で平らなパンプスを履いている。私も適当なTシャツだけざっくりと着て彼女を見送る。


 「気をつけて帰ってね」

 「あなたは私と付き合うべきです」

 「ん?」

 「私にないものばかり持っててずるいです。

  スキルだって人望だって体だって……

  でもあなたは寂しい。

  みんな臆病なばかり。様子見ばかり。

  私が愛してあげます。あなたが欲しがってた唯一の物を私が提供します。

  だから私たちは付き合うべきなんです。

  以上、プレゼンを終わります」


 (これは先を打たれたな。どうすんだよ、お前) by CV 津田健次郎。


 どうって……。

 わかってるでしょ。そんなこと。


 彼女の頬に手を添えてキスをする。彼女を吸うように何度も舌をからめながら。喘ぎが強くなり体を何度もびくんとさせているときに、ようやく唇を離した。


 「どうか私の想いを持ち帰ってご検討ください」


 頬を赤く染めて、少し肩で息をしている彼女が、そう言った私を見つめていた。


 「失礼します!」


 そう短く言うと、彼女はくるりと背を向けて帰っていった。

 閉じられたドアを見つめて、しがらみはもうなんとかするしかないだろうなと私は覚悟を決めていた。






 後日、詳細なライフプランが彼女から送られてきた。リモート会議中にこっそり開くと、私はによによと声に出さず笑い出した。同封のガントチャートによれば私たちは3年後に結婚するらしい。やればできるじゃん。


 (おめでとう。おっと、俺からはそれぐらいにさせてくれよな) by CV 津田健次郎。


 そうだね。それぐらいのセリフが私の心の中の津田健次郎にはちょうどいい。

 私は承認しますとだけ彼女に返した。




推奨BGM: フミンニッキ「今夜」

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