死の縁からの生還『超重戦車E-100Ⅱの戦い 後編 マムートのフィナーレ 第22話』
■5月7日 (月曜日) エルベ川対岸のアメリカ陸軍第83歩兵師団戦区
水面下になった僕の顔が引き出されて、目の前に迫(せま)る顔の口が大きく開いて速く動き、何かを言っているけれど、全然(ぜんぜん)聞こえて来ない。
冷(つめ)たい川水に濡(ぬ)れて凍(こご)える瞳(ひとみ)は磨(す)りガラス越(ご)しの様で良く見えず、両手で僕の胸倉(むなぐら)を掴(つか)んで激(はげ)しく揺(ゆ)らす相手が誰(だれ)だか分からない。
其(そ)の胸倉を掴む手の片方が離(はな)れて、僕の両頬(りょうほお)に往復ビンタを何度も喰(く)らわせてくれる。
(……! 痛(いた)い! 痛い! やっ、やめろ! ああっ、やめてぇー。……やめろぉ……)
『やめろ!』と泣き叫(さけ)んでいるつもりが、全(まった)く声に出ていないし、滲(にじ)む視界が涙(なみだ)の所為(せい)なのかも分からずに、バチッ、バチッと何かを叩(たた)く音が聞こえたのと同時に、目を懸命(けんめい)に開いているつもりなのに真っ暗(まっくら)になって、一向(いっこう)に明るくならない。
(今度こそ、一瞬(いっしゅん)で僕の全(すべ)てが終わりって事なのだろうか?)
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幸(さいわ)いにして、僕はナチスドイツの終焉(しゅうえん)の日々を生き残れた。
戦いの最期(さいご)を共にしたマムートのクルーは、誰しもが人情味(にんじょうみ)溢(あふ)れて人道的だった。
軍曹と伍長は武装親衛隊や陸軍に召集(しょうしゅう)された当時、模範的(もはんてき)なヒトラー・ユーゲントだったかも知れないが、余りにも過酷(かこく)な戦闘と悲惨(ひさん)な戦火の繰(く)り返しに自分の存在意義に疑問を持(も)ち、非道なナチのプロパガンダの酔(よ)いから醒(さ)まされて、人非人(にんぴにん)の行いの現実を直視して人道主義的な考えに改(あらた)めていた。
もし彼らが狂信的なナチの党員で夢物語りの理念に熱狂した儘(まま)の軍曹と伍長だったとしたら、今日という日にエルベ川を渡(わた)る事の無いまま、ビアンカに再(ふたた)び逢(あ)う事も無く駅舎の脇(わき)か村外(むらはず)れで弾薬を撃ち尽(つ)くし、数え切れない命中弾を浴(あ)びて擱座(かくざ)したマムートの中で、或(ある)いはベルリンやポツダムで留(とど)まり、行動不能に陥(おちい)ったマムートの中で脱出できない儘に爆破されて、僕は確実(かくじつ)に死んでいただろう。
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数個の石を並べただけの簡単な炉に鍋(なべ)を置いた焚き火(たきび)の周(まわ)りへ食べ物が広げられ、それを囲(かこ)んで座(すわ)っている皆(みんな)が笑(わら)っている。
ラグエルとイスラフェルが浮き輪代わりにしていた大き目な缶(かん)は、調理したシチューやコーヒーなどを温(あたた)かい儘で密封して運ぶ専用の容器で、それを彼らは艀(はしけ)乗り場の炊(た)き出し場から持ち出して来て、ちゃっかり使っていたのだ。
しかも、二(ふた)つの容器には半分ほどシチューが残されていて、これまた炊き出し場に有ったホーロー鍋と人数分の食器類も毛布(もうふ)に包(つつ)んで運び出していた。
其の鍋で残り物のシチューが温められていて、食欲を煽(あお)る匂(にお)いが辺(あた)りの空気を満(み)たしている。
それに戦闘で着ていた迷彩服(めいさいふく)を脱(ぬ)いで、何処(どこ)かの誰(だれ)かが船着場に残していった私服のジャケットとコートに着替えていた。
迷彩服などの軍人だった事が分かる類(たぐい)は燃(も)やされたようで、燃え残りの布端(ぬのはし)が焚き火の横で燻(くすぶ)っていた。
ただ、勲章(くんしょう)や徽章(きしょう)はアメリカ兵に高く売れるかも知れないといって、ビアンカの妹と弟がしゃぶる飴(あめ)の缶の底へ隠(かく)したそうだ。
ソ連軍の重戦車が砲撃と銃撃を浴(あ)びせながら迫り、対空射撃が衰(おとろ)えた所為(せい)で空爆が低空になって、爆弾の投弾を正確にさせ、同時に激しくなった砲撃の弾着も集中し出した時、状況観察と判断に優(すぐ)れ、生活力に長けたラグエルとイスラフェルは生き残る事に迷(まよ)いが無くて、しっかりとエルベ川を渡った後まで考えていたのだった。
きっと他にも、生活や金目(かねめ)な物を持って来ていて、ルールへの道中や戻(もど)った後の生活と安全の事までを計算高く考えているに違(ちが)いない。
二人(ふたり)には技能者より商売人の才覚(さいかく)が有るみたいで、ルールの連中を『見習(みなら)わなくてはいけないな』と思う。
既(すで)に、社会人としての自立している連中の強(したた)かさが恨(うら)めしく、其の抜(ぬ)け目の無さに感心してしまう。
(僕は、まだ生きている……)
タブリスの叫びで四人(よにん)が再びエルベの雪解(ゆきど)け水に飛び込んでくれて、幸運にも昇天(しょうてん)寸前の僕は生気(せいき)を失(うしな)わない内に西岸へ引き上げられた。
少し離れた場所から連続した射撃音の重(かさ)なりと爆発音が聞こえている。
気怠(けだる)く朦朧(もうろう)とした意識でも、ソ連兵の機銃射撃と迫撃砲弾の爆発だと分かっていた。
まだ撃って来ている……、此方(こちら)側に人影でも見えているのだろうか? ロスケ共は、しつこいなぁ。……でも、深夜零時までは戦争が続くのだったなぁ……)
此方側の離れた場所から、応戦する突撃銃の連射と狙(ねら)いすました狙撃音(そげきおん)がした。
隠(かく)れずに反撃しているのは、たぶん、東岸からの射撃を引き付ける為(ため)の自己犠牲なのだと思う。
途切(とぎ)れない銃声に四人(よにん)は急いでソ連軍から見えなくて狙撃の銃弾を避(さ)けられる護岸(ごがん)の土手(どて)の向こう側まで僕を引き摺(ず)って行き、其処(そこ)で介抱(かいほう)された。
凍えて体温を失いつつある僕の衣服を脱(ぬ)がして、真っ裸(まっぱだか)にした僕の無感覚になった全身を、皆(みんな)で大声で僕に呼び掛けながら擦(さす)ってくれて、僕は少しずつ感覚を戻して行った。
それからは乾(かわ)いた軍用毛布にぐるぐるに巻かれて、更(さら)に川岸から離れた、より安全な場所の大きな木の下へ抱(かか)えられて行き、起こされた焚き火の近くへ転(ころ)がされた。
焚き火の炎の暖かさに、直ぐに眠りに落ちた僕が憶えているのはここまでで、体温が戻って再び目を醒(さ)まし、タブリスをマムートから助けて脱出したのを話していた事も、タブリスに感謝の言葉を何度も言われていた事も、軍曹と伍長に直立不動で敬礼された事も、乾かされた服を着せて貰(もら)って、また毛布に巻かれた事も、再(ふたた)び寝息を立てて熟睡(じゅくすい)していたらしい僕は憶(おぼ)えていない。
はっきりと目を覚(さ)ました時は、大きく枝振りを広げた樫(かし)の木の葉の隙間(すきま)から見える青空に、斜陽(しゃよう)でほんのり赤味を帯(お)びた白い雲が漂(ただよ)う空と、もっと、ずっと間近(まぢか)に、長い髪を僕の頬(ほお)へ触れさせて見下ろすポニーテールを解(と)いたビアンカの優しく微笑(ほほえ)む顔が有った。
彼女の妹と弟も、僕を覗(のぞ)き込むように見ている。
遠くからゴロゴロ、パンパンと、雷か、花火のような音が聞こえる。
たぶん、撃破された戦車の搭載弾薬が誘爆している爆発音と、フェアヒラント村を占領したソ連軍が逃げ遅れたドイツ兵を掃討(そうとう)したり、捕まえたりする射撃音だと思う。
僕を見る彼女の笑う瞳(ひとみ)から涙(なみだ)の雫(しずく)がポロポロ落ちて、僕の頬を温かく濡(ぬ)らした。
「泣いて、……いるのか? ビアンカ……」
「……そうよ。戦闘が始まった音を聞いたのは、まだ、フェリーに乗る順番を待っていた時だったの。其の時まで、疎(まば)らに飛んで来ていたソ連軍の砲弾や、落とされていたソ連機からの爆弾は、全部、そっちへ行ったわ。だから、急ぎ再開されたフェリーに乗れて、こっちへ渡れたの」
「君達が、無事に渡れて嬉しいよ」
「私、土手道まで行って、あなたの乗る戦車が戦うのを見ていたわ。射つ度(たび)に、ソ連軍の戦車が燃えたり、爆発したりして凄(すご)くて、あなたの無事を祈っていたの。あなた達の戦車の御蔭で、順番を待っていた人達の殆どが、ソ連軍が乗り場に迫る前に渡れたの。アル……、ありがとう」
そう言った彼女は、涙で濡れた僕の頬を指で拭(ぬぐ)い、それから僕の額に自分の額を触れさせた。
「熱は無いわね。……本当に、ありがとう」
『ドックン!』、殆ど肌(はだ)が触れる距離で動く彼女の唇(くちびる)と肺一杯に吸い込む彼女の匂いが、僕の心臓を一際(ひときわ)大きく鳴らした。
僕の額へ額を当てたままの彼女が、僕を包む毛布の中に手を入れて胸を擦(さす)って来る。
其の、躊躇う素振りも無く僕の肌に触れれるのは、きっと、少女団の医療授業で看護(かんご)や蘇生(そせい)の治療方法を学んでいるからだろう。でも、僕の熱くなる体温と胸の高鳴る鼓動が伝わっているはずの、紅(あか)らめる彼女の頬に、献身(けんしん)や奉仕(ほうし)の博愛精神だけではないと思いたい。
「温(あたた)かい……、体温が戻ってるわ。もう大丈夫ね。あなたが生きていてくれて、嬉(うれ)しい」
彼女の指が拭(ふ)いてくれたばかりの僕の頬を、再び彼女の涙が濡(ぬ)らす。
彼女は額を僕から離すと、更に、躙(にじ)り寄って来て、両手の掌(てのひら)で僕の両頬に触れて頭を掴み上げると、僕を焚き火を囲む皆の方へ向かせて膝枕(ひざまくら)で寝かせ続けてくれる。
「あっ、ごめんなさい、アル。米神と耳が痛かったでしょう」
(……耳? 米神……?)
頭を動かされて、漸(ようや)く右の米神がヒリヒリと痛むのと、左の耳のズキズキ疼(うず)く痛みを思い出して、顔を顰(しか)めてしまった。
額には包帯がまかれて、両方の傷は手当てが為(な)されている。
「いや、少し痛むだけ……、手当ては、……ビアンカ、君がしてくれたんだ?」
ビアンカの心配する問い掛けに、僕は否定的に答えながら、彼女の言葉と行いが嬉しくて痛みに平気なフリをする。でも本当に、まだ、齧り取られた衝撃に痺れて麻痺しているのかも知れないけれど、手当てされて安心する気持ちが痛みを薄れさせていると思う。
「傷口を綺麗に洗ってから、エイドキットの軟膏(なんこう)を塗って、ガーゼを当てて包帯を巻いたの。血は止まっていたわ。あの子達と、あの方の彼女のライラさんも、手伝ってくれたのよ」
(あの方? ああ、ダブリスか。……の彼女さん? 誰? そういえば、浅瀬に流れ着いた彼を介抱してたっけ。あの美少女は、ライラって名前なんだ。再開できて良かったな、ダブリス)
「君の妹の…… ヘンリエッタと、弟のフリオだっけ? それに、……ライラさんも、手当てをしてくれたんだ」
「そうよ。痛くなったら、遠慮(えんりょ)なく言ってね。膿(う)んでいないか診(み)るから」
「あっ、ありがとう。ビアンカ」
「うん、どういたしまして。アル」
フェアヒラント村の艀乗り場近くの土手道で弾薬を撃ち尽くすまで、ソ連軍を撃退し捲(ま)くってから水没させるまでのマムートの戦いと、沈むマムートから脱出した僕が流されて助けられるのも彼女は見ていて、僕を助けに岸辺を走るクルー達を妹と弟を連れて追い掛けて来て、傍(そば)で安否(あんぴ)を気遣(きづか)ってくれていたのだ。そして今、僕が想いを寄せていた美しくて可愛いビアンカの膝を枕に寝ている僕は、心の底から感謝する気持ちで一杯だった。そして、全身の隅々(すみずみ)と五臓六腑(ごぞうろっぷ)まで至る全ての感覚と思考から、本当に僕は幸せだと感じていた。
近くでメルキセデク軍曹とバラキエル伍長に、ラグエルとイスラフェルとタブリス、それに、名前を『ライラ』だと、今、ビアンカから教えて貰ったばかりのダブリスの彼女が、『アハハハッ』と、喜び溢れる顔で笑ってる。
僕の顔の上で、『ウフフフッ』と、嬉しく笑うビアンカに寄り添う妹のヘンリエッタに、弟のフリオも、『ケラケラ』と、楽しそうに笑ってる。
手放しの喜びに僕も、傷の疼きに顔を引き攣(つ)らせながら、『アハッ、アハッ』と、歯切れ悪く笑っていた。
(僕達は生き残っている……。生き残れた! 生きているのが嬉しい!)
軍曹が何かを言って皆を笑わせた。
笑いながら伍長が言った言葉にも皆が笑う。
ダブリスも、ラグエルとイスラフェルも笑い続けている。
笑うビアンカと笑いに巻き込まれたヘンリエッタとフリオもケラケラ笑っている。
皆の笑い声が嬉しくて、僕も釣られて笑う。
笑いながら、僕は生きている事を実感していた。
(戦争は今日までだ。深夜12時で終わる。全ての国土を蹂躙(じゅうりん)されたドイツ第3帝国は、戦争に敗北して無条件降伏するのだ。やっと長い戦争が終わるけれど、まだ、この先、どうなるかは分らない。アメリカ軍の捕虜になっても、無事に生き延びさせてくれるとは限らない。だけど、それを考えて悩(なや)むのは後回(あとまわ)しだ。今は、楽しめれる時で、笑える時に、心底(しんそこ)、笑えればいい。きっと、笑える気持ちが、未来を明るくするさ!)
つづく
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