避難民への無慈悲な殺戮『超重戦車E-100Ⅱの戦い 後編 マムートのフィナーレ 第21話』

■5月7日 (月曜日) エルベの川の中


 敵の狙撃兵(そげきへい)や機関銃の掃射(そうしゃ)を恐れて警戒(けいかい)したが、弾丸の飛翔音(ひしょうおん)や跳弾音(ちょうだんおん)は聞こえず、近くに水柱(みずばしら)が立つ事も無かった。

 1発の銃弾も飛んで来ない事に、ロスケ共は僕達に気付いていないのかもと、東岸の艀乗り場の方を見れば、坂道や斜面の林を大勢のソ連兵が下りていて、遅(おく)れて来た避難民と降伏するドイツ兵を捕(つか)まえている。

 其(そ)の様子を見ていると、ソ連軍の将校の一人(ひとり)が、望遠スコープを付けた小銃を持つ兵士に近寄り、脱出する人達を満杯に乗り込ませて、岸から離(はな)れたばかりの最後の艀便(はしけびん)を指差(ゆびさ)し、大声で命令した。

 命令された兵士は、ゆっくりと狙撃銃を構(かま)えて狙(ねら)いを付け、そして、射(う)った。

 川辺(かわべ)に銃声が響(ひび)き、遮蔽物(しゃへいぶつ)が何も無い、東岸から150mばかり離(はな)れて、西岸まで僅(わず)か50m足(た)らずの近さまで来て、ゆっくりと水面を進んでいる艀のデッキに立っていた避難民達の中から一人の男性が、よろめきながら川に落ちて流れ去って行き、連れ添(つれそ)いらしき女性の甲高(かんだか)く長い悲鳴(ひめい)が聞こえて来た。

 避難民達が一斉(いっせい)に伏(ふ)せ、持っていた手荷物類をロスケ側に置いて弾除(たまよ)けにする。

(なぜ? 射つ!)

 ソ連軍はベルリンを占領して、連合軍はドイツ軍を降伏(こうふく)させたじゃないか!

 しかも、ドイツを好き勝手に分割して、無慈悲(むじひ)に統治(とうち)できる無条件降伏だろう!

 占領地のドイツ人に平気で暴力(ぼうりょく)・強盗(ごうとう)・凌辱(りょうじょく)・殺人などの極悪非道(ごくあくひどう)な事をしても、重く罰(ばっ)せられる事は無く、まだまだロスケ共は好き放題(ほうだい)に略奪(りゃくだつ)するのに決まっている!

 西岸にいる田舎者(いなかもの)の無教養(むきょうよう)な下っ端(したっぱ)の連合軍兵士も同じだ!

 奴(やつ)らもドイツ人を人間とは思っていないだろう。

 確(たし)かに、ナチス・ドイツは身勝手(みがって)な民族思想と経済思想で、肥沃(ひよく)なロシアの大地を侵略して、スラブ民族を陵辱して迫害(はくがい)、抹殺していたと思う。

 其の仕打ちの鉄槌(てっつい)は下(くだ)されて、ナチス・ドイツの指導者は死んだ!

 第三帝国も今日で、完全に滅(ほろ)ぶのは決定的だ。

 ナチスの思想に染(そ)まったドイツ人は、悉(ことごと)く打ちのめされて途方(とほう)に暮れている。

(だから、もう、殺さないでくれ! あんたらは、勝者なんだから、もっと、寛容(かんよう)さが有ってもいいじゃないか!)

 艀のキャビン上に対空用に備(そな)えていた機関銃が応射(おうしゃ)して、岸辺に群(むら)がるソ連兵達がバタバタと倒(たお)れると、岸辺中のボリシェヴィキどもが一斉に艀へ撃ち掛け、着弾の水飛沫(みずしぶき)に包(つつ)まれた艀の平(たい)らなデッキに伏せる人達から血飛沫(ちしぶき)が高く噴(ふ)き上がった。

 立ち上がって逃(に)げようとする人々は射ち倒されて、二人、三人と連れ立つように川面(かわも)に消えた。

 ボロボロになって行くキャビンから機関銃が撃ち続けて、発砲煙で霞(かす)む岸辺中を着弾の土煙(つちけむり)で、更(さら)に、霞ませた。

 伏せていた負傷兵達も小銃や短機関銃で反撃しているけれど、丸腰の避難民達は、狭(せま)い平床(ひらどこ)を逃げ惑(まど)う内に無慈悲に射殺されるか、憐(あわ)れにも冷たい川へ飛び込んで溺(おぼ)れるだけだった。

 突然、艀の周りに大きな水柱が幾(いく)つも立ち、艀の上で爆発が起きた。

(迫撃砲だ……)

 辺(あた)りの水面を、爆発で飛ばされた人達の死体が流れて行く。

 デッキ上が綺麗(きれい)に一掃(いっそう)されて、漂(ただよ)うだけになった艀が流されながら、向こう岸の浅瀬で座礁(ざしょう)して止まった。

 其の艀から驚(おどろ)いた事に十人ほどが生き残っていて、岸に這(は)い上がると直(す)ぐに低い土手(どて)の影へ隠(かく)れた。

 百人以上は乗り込んでいたように見えた艀が、近距離から執拗(しつよう)な集中射撃を浴(あ)びて、更に、迫撃砲弾の爆発で粉砕(ふんさい)されても、十人が生存(せいぞん)していたとは、僕には奇蹟(きせき)のように思われた。

 でも、それは全(まった)く以(も)って、酷(ひど)く悲しい出来事だった。

(なぜ! まだ殺す!)

 最後の艀に乗った逃げ惑う哀(あわ)れな人々が、たった、150m向こうの岸へ移るのを、見逃してくれても良かったのにと、憤(いきどお)る僕は強く思う。

(くっそぉー。それだから、ボリシェヴィキは、農奴(のうど)上がりの無教養な田舎者(いなかしゃ)で、文明を知らない蛮族(ばんぞく)共と卑下(ひげ)されるんだ! 勝者なら、もっと堂々(どうどう)としていろ!)

 ボリシェヴィキどもは射撃の的が無くなってしまい、対岸へ逃(のが)れた人を撃ち殺そうと狙っていた兵も、興味(きょうみ)を失(うしな)って銃を下げ、辺りに散乱する物品の物色に戻(もど)っていた。

 そんな敵の様子(ようす)に、狙われてはいないと判断して、キューポラのレールに縛(しば)っていたジェリカンを外(はず)すと、ガチガチと歯の根が合わないほど震(ふる)えてモタつくタブリスを、細いロープで結(むす)んだ二(ふた)つの空のジェリカンを被(かぶ)せるように持たせて浮かせた。それから、脱(ぬ)がせた片方のブーツを、其の靴紐(くつひも)で彼の手首に結んだ。

 キューポラが水面下に沈み、車内に残っていた空気がガバッガバッと噴き出ると、あっという間に砲塔上面が腰(こし)の深さまで下がってしまい、慌(あわ)てて流れていかないようにタブリスの襟首(えりくび)を掴(つか)まえながら、自分の分のジェリカンを抱(だ)きかかえた時に、砲塔上面に踏ん張(ふんば)って立っていた感覚が、スッと足裏(あしうら)から無くなって、いきなり水面に残されてしまった。

「行くぞ、タブリス!」

「ああ、頼(たの)む……」

 か細(ぼそ)い声のタブリスの目だけが、僕を見て頷(うなず)いた。

 遂(つい)に、エルベの強い流れの圧力が、重さで耐(た)え続けていたマムートを、もっと深いところへと運び去って行った。

 此処(ここ)は川幅の真ん中(まんなか)辺りで一番深くて流れが速い処(ところ)だ。

 マムートは沈んで、川底の岩礁(がんしょう)の様になってしまうのだろうか?

 それとも、今も尚(なお)、深い川底で圧(お)し流されているのだろうか?

 其の何方(どちら)にせよ、うねり流れる川面には、其の所在を示(しめ)すような漣(さざなみ)や渦(うず)が一切(いっさい)見られない。

 もう見る事も、触(ふ)れる事も出来ない所へ、マムートが去った生き別れのような哀(かな)しさと寂(さび)しさに、雪解(ゆきど)けのエルベの水を、更に、冷たく感じさせて僕を凍(こご)えさせた。

 手足をバタつかせて水飛沫を上げないように立ち泳(およ)ぎで少しずつ タブリスの襟首を掴(つか)んで引っ張(ひっぱ)りながら西の岸辺に近付いていたが、氷(こお)りそうな水温の低さで無感覚になった身体(からだ)と、力の入らない手足に僕は、後、何分間の命が有るのだろうかと思う。

 悴(かじか)んだ手と指先が腕(うで)ごと感覚と力を失い、掴んで引っ張っていたタブリスの襟首を離(はな)しそうだ。

 岸辺までは5mほどで、触れていても感覚が無くて分らないのかも知れないけれど、足先が川底に届(とど)かない。

 直ぐ其処に岸辺の淀(よど)みが見えて、震える体を揺(ゆ)すりながら呻(うめ)くタブリスを、全身の力を込(こ)めたつもりの何も感じなくなった両手で、『速く、其処(そこ)から岸へ上がって、生きろ!』と、強く押し流した。

 押したタブリスは上手(うま)く淀みに入って、浅瀬の水底に手足が触れたのか、咳(せ)き込みながら動こうとしていた。

 僕も流れから淀みへ入ろうと懸命(けんめい)に泳ぐけれど、最早(もはや)、感覚の無い身体に手足を動かせているかも分からず、どうしても淀みへ行けないまま、流れの縁(ふち)を漂うように流れされて行く。

 浅瀬に着いたタブリスが四(よ)つん這(ば)いで岸に上がって行くのを見ながら、やっと浮いているだけの僕は流されて行く。

 ちゃんと片手に渡した右足の靴を持ったタブリスが振り返り、僕を見ると大きく口を開(あ)けて叫(さけ)びながら手を伸ばしたが、水面から持ち上げた僕の手は届かないし、タブリスの声も聞こえない。

 其のタブリスへ浅瀬の水を撥(は)ねながら、素早(すばや)く駆(か)け寄る女子がいた。

 女子のスカートの裾(すそ)から見える膝下(ひざした)の白い足に、溌剌(はつらつ)としていた頃のビアンカを思い出した。

(羨(うらや)ましいぜ、タブリス。綺麗で優(やさ)しい、相思相愛(そうしそうあい)の彼女だな。ああ、……ビアンカ、どうか無事で、……幸(しあわ)せになれよ。……僕じゃあ、無理(むり)っぽいなぁ……)

 微睡(まどろ)むようなビアンカへの想(おも)いに、とろんと眠気(ねむけ)が来ているけれど、水面下になっている齧(かじ)られた右耳の中が冷たさの所為(せい)なのか、とても痛くて気持ち良く眠れやしない。

 もっと、息をしなくてはと思うけれど、胸も悴んで大きく息を吸(す)えないし、細く吐(は)く息も凍(こご)えて震えている。

(……一人だけ生き残るじゃなくて、犠牲者(ぎせいしゃ)は、僕一人って事だなぁ……)

 急に耳や額(ひたい)や身体中の痛みが薄れて来て、自分の終焉(しゅうえん)が直ぐに来る予感を感じながら、川面(かわも)に立つ波が全身に被り、息を止める僕を沈めさせて行く。

(僕達はマムートに乗って、ニーレボック村やフェアヒラント村で、死神のように大勢のソ連兵を殺した。アルテンプラトウ村でも殺した。僕は、シュパンダウの大通りでもソ連兵を何人も殺している。僕は命令と、僕の義務を果たす為に殺していた。僕が生き残る為に……。勝ち残る為に……。そして、僕は生き残っている……。だけど、今……、凄(すご)く虚(むな)しい……)

 今夜午前零時に武器を放棄して降伏すると決められて、命令されていた。だから、それまでに集まっていた避難民達と、敗残兵達と、防衛隊や守備隊の兵士達と、残留を希望しない村民達が、僕達も含(ふく)めてエルベ川を無事に渡る筈(はず)だった。

 なのに、3年半もドイツと戦って勝利したソ連軍は、たった14時間ほどを待てずに攻(せ)めて来た。

 フェアヒラント村と周辺の三(みっ)つの村には、数十台のソ連戦車が燃え、数百人のソ連兵が骸(むくろ)を晒(さら)している。

 それ以上の数のドイツ人も、屍(しかばね)になって横たわっている。

 数百人のドイツ軍兵士が死に、数百人の民間人が、フェアヒラントの村の中やエルベの川縁(かわべり)で死んでいた。

 ソ連軍が突入して来なければ、怪我(けが)や死ぬ事も無く、エルベの西岸で笑(わら)っていただろう。

 ロシア人達も、各村の家々で住人達と終戦を祝(いわ)う宴(えん)で騒(さわ)いでいたり、艀乗り場でアメリカ兵達とボルシチやピロシキとビフテキやハンバーガーを振る舞い合っていたりして楽しく遣(や)っていただろう。

(突入を命じたソ連軍の責任者は、戦争犯罪人だ!)

 メルキセデク軍曹は、鋭(するど)い観察力と適切な判断で、クルーを導(みちび)いてくれた。

 バラキエル伍長は、人並(ひとな)み外れた卓越(たくえつ)の射撃能力で、マムートを狙う全ての敵戦車と脅威(きょうい)を殺(や)っつけてくれた。

 ラグエルとイスラフェルは、全力で全弾を装填(そうてん)してくれて、より速く敵を屠(ほふ)れた。

 タブリスは、軍曹の指示通りに正確(せいかく)な操縦で、マムートを動かしていた。

 彼らに比(くら)べて僕は、逃げ出す事しか考えていなかった。

 シュパンダウでの戦闘は逃げ出す為だった。マムートに乗ったのも体裁(ていさい)良く義務を果たして生き残る為だった。

 其のヘタレだった僕は、信号弾で少年達と少女達を救(すく)って、タブリスも助けた。

(それが、僕が生きる為の使命(しめい)だったのかも知れない……。使命は…… 果たしたから……)

 鼻が水に浸(つ)かり、鼻の奥がツーンと刺(さ)す痛みで噎(む)せると、口の中へ入る水に、咳が出るのを息を止めて耐えた。

 ついさっき、『何、人生、終わりそうになってんだよ』、とか『まだ、僕達は生きているぞ! もっともっと、生きるんだろう?』と言って、ビアンカを励(はげ)ましていたのに、今は、僕の人生が終わりそうになっている。

(……大人(おとな)になる前に終わっちゃうなあ。でも、まあ、今日、ビアンカと話せて良かったなあ……)

 マムートに乗っていなかったら、例(たと)え、生き残って長生きする人生だったとしても、彼女と遇(あ)う事は無かっただろう。彼女に遇えたのは、マムートの御蔭(おかげ)だ。

(ありがとう、マムート……。さようなら、ビアンカ……)

 両目を開けたまま、反対の耳も水に沈み、目の前が真っ暗(まっくら)になって僕は思う。

(ああ、最期(さいご)が来た。これが軍曹の言う、真っ暗なんだな……)


つづく

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