エンジンの再始動と欠けた左耳『超重戦車E-100Ⅱの戦い 後編 マムートのフィナーレ 第17話』

■5月7日(月曜日)守備位置からフェアヒラント村へ


「エンジンが再始動しません! 軍曹!」

 『キュル、キュル』とセルモーターの回(まわ)るはずの音が、『ガスッ、ガスッ』と聞こえるだけで、エンジンが発動する音は聞こえて来ない。

「軍曹、セルモーターが外(はず)れています」

「バラキエル、殺(や)られる前に、奴(やつ)らを殺るんだ! ラグエル、後部ハッチを開けてくれ! アル、俺(おれ)とマムートの後ろへ行って、エンジンを回すぞ! 其(そ)の辺(へん)を擦(す)り抜(ぬ)けて、こっちへ来い!」

 レシーバーを外して座席を離(はな)れながら覗(のぞ)くペリスコープに、左の方から緑色の曳光(えいこう)が敵に向かって飛んで行き、スターリン戦車の砲塔に火花を散(ち)らして弾(はじ)かれた。

 それは、艀(はしけ)乗り場近くの村外れへ移動したアハト・アハトからだと思われたが、悔(くや)しい事に2000m以上の距離からではスターリン戦車の前面装甲を撃(う)ち抜けていない。

 バラキエル伍長は、左手で俯仰角(ふぎょうかく)を調整するハンドルを回して砲身の狙(ねら)い角(かく)を付けながら、右手で砲塔を旋回(せんかい)させるハンドルを懸命(けんめい)に回して、砲の向きを敵戦車へ急(いそ)いで合わせようとしている。

 上下角(じょうげかく)の狙いはハンドルを回す手動方法しかないけれど、左右への砲の旋回は電動モーターで砲塔全体を回している。

 其のモーターを回す電力はエンジンの回転で発電するダイナモから給電(きゅうでん)されていて、エンジンが止(と)まった今は、一生懸命汗(あせ)だくで旋回ハンドルを精一杯(せいいっぱい)速(はや)く回して、マムートの照準(しょうじゅん)を敵よりも早(はや)く、敵へ正確(せいかく)に合わせるしかない。

「装填(そうてん)完了!」

 ラグエルの声に、僕は急いで彼らの足許(あしもと)を通(とお)り抜けて、砲塔後部の開いたハッチまで行き、外へ出ようとハッチ枠(わく)に縁(ふち)に手を掛けると、エンジングリルの最後部から降(お)りる軍曹が見えて、其の後(あと)にマムートが発砲して、其の衝撃波(しょうげきは)を伴(ともな)う大きな音で耳栓(みみせん)を兼(か)ねたレシーバーを外した耳の鼓膜(こまく)が圧迫(あっぱく)されて、聞こえていた騒音(そうおん)が一瞬で囁(ささや)きの様な小ささになった。そして、砲弾の発射で気圧が一気(いっき)に下がって瞬間的に起(お)きる猛烈(もうれつ)な風の反復(はんぷく)で、体が砲塔内へ吸(す)い込まれ掛けた直後、吐(は)き出されて転(ころ)がる体が車体の後ろ側へ落ち掛(か)けた。

 後面上部の両端に取り付けられている牽引(けんいん)用の大きなU字フックの間へ張(は)られた2本のロープを持ち手に通されて、ブラ下がる20個の空のジェリカンの底縁(そこふち)が手許(てもと)にガンガンと当(あ)たり、ガチャガチャと煩(うるさ)くて邪魔(じゃま)だけど、焦(あせ)る気持に、そんな事はどうでも良かった。

「お前は、このクランク棒を外したら持って来い! 俺は、其の四角いカバーを外しておく!」

 路上に降り立つのに失敗(しっぱい)して落ちた痛(いた)みを、そっち退(の)けで立ち上がると、軍曹はそう言って、クランク棒を留(と)めている大きな蝶螺子(ちょうねじ)を緩(ゆる)めるのを止(や)めて、イスラフェルから渡(わた)された大きなスパナとパイプを使い、手際(てぎわ)良くボルトを抜いてカバーを下(さ)げると、僕が苦労して取り外したクランク棒を受け取り、カバーで蓋(ふた)をされていた穴へ突(つ)っ込んだ。

 『ガチッ』

「そし、クランクシャフトと繋(つな)がったぞ。アル、このクランク棒を回すから、手伝(てつだ)うんだ!」

 クランク棒のグリップを前に腰(こし)を入れて仁王立(におうだ)ちに構(かま)えた軍曹は両手でしっかりと握(にぎ)り、引き回そうとする。

 軍曹の向かいに立つ僕は、それを真似(まね)て汗だくで握る手に力を込め、ぐっと腰を落として開いた足裏(あしうら)を路面に押し付けて踏ん張(ば)り、重量挙(あ)げのフィニッシュのように背骨と両腕を伸(の)ばして押し回す。

 『ガシャアーン』、『ガラ、ガラン』、マムートの右側面に擦(こす)れた真っ赤(まっか)な敵弾が、車体の中央部にボルト締(じ)めしていた履帯(りたい)の装甲(そうこう)カバーを飛ばしながら路上を跳(は)ねて行き、『バウッ……』、バラキエル伍長が撃ち返す発砲の衝撃に周り中(まわりじゅう)から土煙(つちけむり)が上がった。

「バラキエル、エンジンを回すから、撃たないでくれ!」

 大声で怒鳴(どな)った軍曹は体重を掛けて引っ張り(ひっぱり)続け、僕は渾身(こんしん)の力でクランク棒を回そうとグリップを押し続ける。最初は回る気配(けはい)が無かったシャフトは、『グッ、グォ』と僅(わず)かずつ動き出し、四分の一回転辺(あた)りで、『ググン、ググゥーン』と回し易(やす)くなった。

「タブリス! チョークを引いて、少しだけアクセルを踏(ふ)め! アル、クランク棒を引っこ抜け!」

 『バスッ、バスン、バスン、バス、バス、バス』、クランク棒を抜いた途端(とたん)にエンジンが息を吐きながら回り出して、エキゾーストパイプから青白い排気が噴出(ふきだ)した。

「成功だ! タブリス、アクセルを踏み込んで、吹(ふ)かしてみろ!」

 『ブロッ、ブロロロォー』、軍曹の大声にエンジンが回転を速めて応(こた)えてくれる。

 『バウッ……』、エンジンが問題無く回転するのを知ったバラキエル伍長は既(すで)に狙いを付けていた敵戦車へ発砲する。

 またもや周囲に土煙が上がり、其の舞(ま)い上がる土埃(つちぼこり)を貫(つらぬ)いて赤い火の玉がマムートの脇(わき)をスレスレに飛び去(さ)って行った。

「さあ、アル、早く元に戻(もど)して中に入るぞ!」

 急いで、四角いカバーをボルトで、クランク棒を蝶螺子で固定する。

「席に戻ったら、直(す)ぐに信号銃を用意しろ。色は青で2発だ!」

(信号銃……?)

 信号銃と信号弾の取り扱いは教練で習(なら)っていたし、更に、ブランデンブルクの工場では、軍曹と伍長が皆(みんな)に装填や構えの注意点なども含(ふく)めて構造と使用する目的を詳(くわ)しく教(おし)えてくれていたのを思い出す。

 軍曹と僕は飛び込むようにマムート内のポジションへ戻ってレシーバーを掛けると、今では聞くとホッとしてしまう『撃ちます!』の落ち着いたバラキエル伍長の声が聞こえ、発砲で噴き出す炎(ほのお)と煙(けむり)、瞬時に反動で後退する砲身がペリスコープから見えた。

 ペリスコープを通して見た最新戦況は、敵戦車の位置に変わりが無かったけれど、新(あら)たに燃えている3輌と、今し方(いましがた)、命中弾を受けて白煙が立った1輌が見えた。

 牧草地で新たに群(む)れていた9輌のスターリン戦車は4輌が狩(か)られて、残りはニーレボック村の燃え落ちた家並み近くまで逃(に)げてしまい、互(たが)いに相手を屠(ほふ)るのが困難(こんなん)な遠距離に離れてしまった。

「タブリス、発進させろ。後進の続(つづ)きだ」

「了解、軍曹」

 転がるように座席に戻って座(すわ)り位置を正(ただ)していた僕は、履帯上に張り出したスポンソンの隙間(すきま)に詰(つ)め込んでいた防水キャンバス地の大きな袋(ふくろ)の中から、信号銃と信号弾を出して青色の信号弾を単装(たんそう)の信号銃へ込めた。

 左横では、ギアを入れアクセルを開けながらクラッチを離したタブリスがマムートを発進させて行く。

 噴かしてもエンジンの回転音は安定して聞こえ、破損(はそん)した気筒(きとう)は無くて燃料の供給(きょうきゅう)にも異常は無さそうに思えた。

 汗が噴出し続け、上下する肩で喘(あえ)ぐ息と心臓の鼓動(こどう)の高まりが少しも治(おさ)まらない僕に、軍曹が命(めい)じる。

「アル、少しハッチを開いて、青色の信号弾を二(ふた)つ、線路脇にいるヒトラー・ユーゲントの連中に見えるように撃て! 連中(れんちゅう)に後退を知らせて、エルベを渡らせろ!」

 ずっと遠くで動きが停滞気味(ていたいぎみ)といえ、週間映画ニュースで新鋭(しんえい)兵器を装備した歴戦(れきせん)の強敵(きょうてき)と報道していた、戦闘経験が豊富(ほうふ)で多くのドイツ軍部隊を壊滅(かいめつ)させているとして、ソビエト社会主義共和国が名誉(めいよ)称号(しょうごう)を付与(ふよ)した親衛軍(しんえいぐん)の戦車軍団なのか、正確な射撃で命中弾を3発もくれた敵戦車隊が正面にいる恐(おそ)ろしさに、ビビる気持が真上(まうえ)のハッチを開けるのを躊躇(ためら)わせて、命令への返事を忘(わす)れていた僕へ、軍曹が冗談(じょうだん)を言う。

「それとアル、信号弾は、ちゃんと外へ撃つんだぞ。マムートの中を火事にするなよ」

 レシーバーの皆が一斉(いっせい)に笑ったけれど、ちっとも可笑(おか)しくない僕は、目まぐるしい状況の展開に頭がクラクラしている。

「りょっ、了解です、軍曹。外へ撃ちます」

 収(おさ)まらない皆の笑い声を聞きながら、開閉(かいへい)レバーを下げて頭上のハッチを開き上げて横に廻(まわ)す。

 ハッチを開いた装甲板の向こうの空間には白い雲と青空の広がり、飛び交(か)う敵の砲弾と銃弾の赤い曳光が手を伸ばすと届きそうな近さで線を描(えが)いて行く。

 赤い曳光の多さに、ただの便乗者なら恐怖で顔も出せずにハッチを直ぐに戻してしっかりと閉じてしまうだろう。

 仰(あお)ぎ見る僕の顔に爆風が吹き掛かり、硝煙と牧草地の土の臭いで咳(せ)き込ますが、ちゃんと搭乗員として認(みと)められて軍曹に命令されているという意識に皆(みんな)の励(はげ)ましが加わり、まるで守護(しゅご)の護符(ごふ)を得て不死身(ふじみ)になったか様に車外に上半身を一気(いっき)に晒(さら)して、僕は線路脇の窪地(くぼち)にいる筈(はず)の彼らを探(さが)した。

 確実にマムートの外へ発射する為(ため)と線路に沿(そ)って彼らの前を横切って飛ぶように撃てる位置へ、信号銃と予備の青色信号弾を掴(つか)んだ僕は上半身を捩(ねじ)じるように乗り出して、頭に掛け直したばかりのレシーバーが下がって首掛(くびか)けになるのも構わずにヒトラー・ユーゲント達の前面辺りに狙いを定め、辺(あた)りに死体と怪我人(けがにん)とゴミと化した手荷物や客車の破片が散らばる踏み切りを渡り終えた所で発射する。

 森に潜(ひそ)む敵兵からか、隠れながら近付いて来て牧草地に伏(ふ)せている敵兵からなのか、カン、カンと直ぐ傍(そば)でする兆弾音(ちょうだんおん)と、シュッ、シュッと、掠(かす)めるような擦過音(さっかおん)と吹き寄(よ)せる風に、僕は狙い撃ちされていると察(さっ)した。

 いつ、顔面の骨を射ち抜かれる『ガン!』の音と共に真っ暗(まっくら)になるか分からない恐怖が襲(おそ)い、震(ふる)え出す身体(からだ)に手足の感覚が消えてしまう。だけど、任務を放棄(ほうき)して車内に逃げ込むわけにはいかない。

 青く光りながら飛ぶ信号弾が、低く身構えて東から迫(せま)る敵を注視(ちゅうし)する彼らの前を飛んで行く。

 歯を食い縛(しば)り、僕は中折(なかお)れ式の信号銃から急いで燃焼を終(お)えて空になった熱い薬莢を凝視(ぎょうし)しながら、感覚が分(わ)からなくなった指で排出して予備の信号弾を装填する。そして、信号銃を持つ手を伸ばして狙い、再(ふたた)び、彼らの前を横切るように撃った。

 視界を横切った青い光に気付(きづ)いて此方を見たヒトラー・ユーゲント達に、僕の身振(みぶ)りと大声で叫(さけ)んで伝える、『逃げろ』の意思が届(とど)いて、彼らが一斉にエルベ川へ向かって走り出すのが見えた。

 其の上半身を晒して信号弾を射ってから手を振る僕の行為(こうい)を見ていた、森から出て来た敵兵や近くへ線路近くへ迫っていた敵兵、それとニーレボック村から牧草地を駆けて来る大勢のソ連兵が僕を狙い射って来て、僕の間近の其処(そこ)ら中でカンカン、チューンチューンと銃弾が当たる音と飛翔音が集中し出した。

 其の迫って来るソ連兵達に気付いたバラキエル伍長が、再び、同軸機銃の長い連射で死神の鎌を再現させて次々と射ち打ち倒し、逃げ惑(まど)う敵兵達を森や壕の中へ追い払った。

 車内へ戻ろうと下げる顔の視界に、SWS重牽引車に牽引されて来て展開していた75㎜対戦車砲と105㎜榴弾砲は、弾薬を撃ち尽(つ)くしたのか、砲尾の鎖栓(させん)ブロックが無くて周辺には誰もいない。

 牽引車も、電気系統をズタズタにされたエンジンが剥(む)き出しで、放棄(ほうき)されていた。

 それを見た刹那(せつな)、左頬(ひだりほほ)を掠(かす)めて何かが飛び去って行くと、突然、右側を見ていた視界に大きな火の玉が迫って来て逸(そ)れる事もなく真横の装甲板に激突した。

 行き成り左の耳に拳骨(げんこつ)で殴(なぐ)られた様な強烈な痛みが走り、反射的に右へ顔を背(そむ)けると、今度は右の米神(こめかみ)の辺りに猛烈な激痛が有って、僕は座席に転げ落ちた。

 どうにか意識を保(たも)てた僕は、直ぐに座席に座り直しながら、両手でズキンズキンと痛む米神とズキズキと疼(うず)く耳を探(さぐ)ると、指先はヌルヌルと滑って掌(てのひら)がベトベトに濡(ぬ)れて、僕は切り傷が出来て出血しているのを知った。

 どちらの傷口も出血は止まらず、触(さわ)った左の耳の耳介(じかい)の形は変で、触ると痛い変な形になった上縁はペラペラグチャグチャになって、ガリッと齧られたみたいに上半分が無くなっているみたいだった。

 耳横の皮膚も擦(こす)り削(けず)られたようで、火傷したようにヒリヒリして痛い。

 カン、カンを装甲板に当たり続ける銃弾に急いでハッチを閉(し)めながら、耳介は掠めた銃弾が上半分を飛ばしたのだと察した。

 右の米神は5㎝くらい切れてパックリと開いていた。

 砲塔の側面装甲板に命中した敵弾は、装甲板の上縁(うえふち)を半円形に削り取って行き、削られた鉄片(てっぺん)が米神辺りを切り付けながら飛んで行ったのだった。

 薄い米神の皮膚と肉を切り裂(さ)いて骨を削った其の衝撃(しょうげき)で、弾(はじ)かれた様に戻されて座席へ落とされた僕は、落ちる際(さい)にもハッチの縁に傷付いた米神を強打しているのだと、どうにか理解できたが、ジーンと痺(しび)れて微動(びどう)も出来ない痛烈(つうれつ)な痛さが、僕を座り姿勢の儘(まま)で蹲(うずくま)らせた。

 それに伴(ともな)って襲って来た恐怖に、僕は心底縮(ちぢ)み上がり、全身がガクガクと震え出した。

 更に、大口径徹甲弾の1弾が砲塔の右側面に命中して、フックに掛けていた2枚続きの予備履板を粉砕して、弾頭が装甲板に突き刺さった。

『ドガーン!』

 砕(くだ)けて半分になった履板の片割(かたわ)れが、まだ横へズラして閉めている途中のハッチカバーの上に激しい勢いで落ちて、けたたましい音を立てた。

 座席へ落ちる前に、反射的に敵弾が来た方向へ視線を走らせて見た彼方(かなた)に、新たに出現した敵戦車は牧草地や線路上にも、撃破されて燻(くす)ぶる戦車の影にもいなかったが、こっそりと線路脇の牧草地に群(む)れて対戦車砲を展開している人影が見えた。

(いつの間に、展開したのだろう? いたのは2門だけだ! 歩兵もいて、フェアヒラント村の方と此方の森へ銃を向けて撃っていた……)

 身体には、他に射たれたような傷は無かったが、初めて見た自分の体から出る多くの血で僕は気が触れんばかりに取り乱(みだ)しそうになった。けれど、酷(ひど)い痛みが四肢(しし)に感覚を戻し、保(たも)てた意識が軍曹へ震える声で報告させた。

「軍曹、信号弾は撃ち終わりました。彼らは気付いて、後退しています。ふっ、負傷(ふしょう)しま……。いえ、右側面の被弾は線路横の対戦車砲からです。2門います。新たに接近する戦車はいません」

 『負傷した』と言い掛けたのを、任務に支障(ししょう)が無い怪我(けが)なら報告すべきではないと判断して止めた。

 そんな僕の負傷に気付いたのか、タブリスが血だらけだと思う僕の顔をチラチラと何度も心配そうに見ている。

(見ろ、僕は大丈夫(だいじょうぶ)だろう、タブリス。まだ、真っ暗になってないぞ!)

 水筒の水で傷口を洗(あら)い、キャンバス地の袋から出したエイドキットの粉末止血剤を、米神の傷口に擦り付け、齧られて痺(しび)れる耳介へ降り掛けた。

(おおっ……、うっううぅぅ……。痛い! いたいぃ! イタイィィ……)

 傷の痛みに沁(し)みる痛みが加わるが、動脈(どうみゃく)や太い静脈(じょうみゃく)を切断したのでもないから、世界最先端のドイツ医学の技術で開発された顔中粉だらけにした止血剤は、直ぐに出血を止めて乾燥させると信じて、湿(しめ)らせた布で冷(ひ)やし、ジンジンして苛付(いらつ)く痛みを紛(まぎ)らわす。

(くっそぉー。右へ1㎝ズレていたら頭蓋骨が削られて脳漿(のうしょう)を流しているところで、治療(ちりょう)しないと精々(せいぜい)二日間(ふつかかん)の長(なが)らえで、其の後は雲の上で目覚(めざ)めているだろうな。2㎝ものズレだったら頭を貫通されて両脇を天使に支(ささ)えられて浮(う)いていただろう。まだ米神の傷は鋭(するど)く痛むけれど、削れて飛ばされた鉄片が骨を貫(つらぬ)いて刺さっていたなら、此方でも天国の階段を上っていただろう)

(此(こ)の痛みと苦しみは、開かずに持っているだけで幸(しあわ)せを得られると、神から授(さず)けられた箱をパンドラが開けた所為(せい)だ! 痛みと苦しみの元凶(げんきょう)が解(と)き放(はな)された全ての災(わざわ)いの成果ならば、箱に残った『希望(きぼう)』を閉じ込めずに出して、積極的に災いを希望に上書きしていて、此処までの苦しくて悲しい災いではないのではと思う。そして、有り得ない事だろうが、世界中の彼方此方(あちらこちら)に災いや不幸が通り抜けられる扉(とびら)や門(ゲート)が有って、ちょっとの隙間から全開まで様々(さまざま)な状態で開けられているなら、人類全体で全ての扉と門を見付け出して完全に締(し)め切り、2度と災いと不幸が押し開く事の出来(でき)ない、万が一(まんがいち)開いても災いと不幸を引っ張り出す事が出来ない様に、きっちりと表と裏から鍵(かぎ)や閂(かんぬき)を掛けておくべきだろう。明日は終戦になると知らされている現状を鑑(かんが)みれば、パンドラの箱に災いを戻して蓋(ふた)を閉じようとしている最中(さいちゅう)かも知れないし……、扉や門の向こうへ不幸を吸い込ませて再び出ようとする災いを押し戻しながら閉めて鍵を掛けようとしている途中かも知れない……)

 ガクガクと大きく身体を揺らしていた振るえは、報告を終えて少し緊張が薄れた所為(せい)なのか、初めて経験した大怪我の状態を知ったからなのか、漸(ようや)く止血剤の効果で出血が少なくなって来た所為なのか、徐々に全身が歯の根が合わないほどのショック状態から落ち着いて来て、しっかりと歯を咬み合わせて口を閉じ、痛みに耐えるブルブルと小刻みに震えるだけに変わった。

「御苦労、アル。ヒトラー・ユーゲントの何人かは倒れたが、彼らが村外れまで逃げ切るのを見たぞ! タブリス、静かに停車させろ。バラキエル、アルが言った対戦車砲を見付けしだい、仕留めろ!」

 既に、軍曹の指示を察していたバラキエル伍長は、砲塔を右へ廻らせている。

「いました、軍曹。左の丘の手前、線路の左横に2門が並んでいます。ラグエル、瞬発榴弾を込めろ!」

「タブリス、アル、正面の敵の動きに注視しろ! こっちへ砲を向ける戦車や大砲を見たら知らせろ!」

 レシーバーのスピーカーからバラキエル伍長の敵位置の視認報告と装填弾種の指示に、メルキセデク軍曹の声が続いて聞こえた。

 見越(みこ)し射撃などした事がないのか、後進するマムートが通り過(す)ぎたばかりの僕の前の道路上を右から左へ、敵の対戦車砲が発射した火の玉は一瞬で横切って行った。

「タブリス、此処(ここ)で停止だ。頼(たの)んだぞ、バラキエル伍長!」

「撃ちます!」


つづく

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