回想 神の祝福と東方見聞録 『超重戦車E-100Ⅱの戦い 後編 マムートのフィナーレ 第5話』

■5月4日(金曜日)アルテンプラトウ村からフェアヒラント村へ移動途中


 空襲が激(はげ)しくなって昼間も、夜間も、降って来る多くの爆弾が破壊と死を齎(もたら)している。

 週間映像ニュースや新聞の記事は、反撃、撃破、撃退、防衛、死守などの言葉で締(し)め括(くく)られる勇(いさ)ましいエピソードばかりなのに、一向(いっこう)に暮らし向きは以前に戻る兆(きざ)しも無く、悪くなる一方だった。

 それなのに、団結、協力、義務、結束なんて、似たようなスローガンばかりが町中に貼(は)られていて、迂闊(うかつ)に異端の言葉を呟(つぶや)くだけでも、何処(どこ)かへ人知れず速(すみ)やかに連行されてしまう。

 そんな、無慈悲(むじひ)に強いられる国家と全体を優先する状況と、理不尽(りふじん)に押し付けられる連帯責任に洗脳された街中の誰もがピリピリと警戒していた。

 親も、子も、兄弟も、友人も、誰もが信用できない。

 子供が親を、親が子供を、親同士や子供同士でも当局へ密告するような陰鬱(いんうつ)で残酷(ざんこく)な世の中になっている。

 異端の異議を唱(とな)えて口論にでもなったら、必(かなら)ず相手は僕を論理以外の、例えば、腕力や虐(いじ)めの暴力や疎外(そがい)で、僕の考えを間違った体制の方向へ正(ただ)そうとして来るだろう。

 思想関連を矯正(きょうせい)する政府機関に通報や密告されるのは堪(たま)らない。

「先生! 僕は、誰にも言いません。聞いた僕も、無事ではないはずですから……」

「分っていますよ、アルフォンス・シュミット君。先生は、君が、そんな人ではない事を知っています。どうか、今の政治体制の此(こ)の国では誰(だれ)にも言わないで、自分だけの秘密にして下さい。親、兄弟、友人にもです。厳重(げんじゅう)に用心して、言葉は慎重に選(えら)んでから口に出して下さい。誰がどのように政府や教会の関係者と関係しているか、分りませんからね。くれぐれも内なる秘密を外に漏(も)らさないように気を付けて下さい」

 先生と僕が話している事を誰かに知られると、僕達は捕(つか)まり、巷(ちまた)で噂(うわさ)されている何処か、2度と戻って来られない場所へ連れて行かれて、本当に危(あぶ)ないと思う。

「アルフォンス・シュミット君。お互(たが)いに、いつもの通りですよ。気を付けましょう。あと、危険ついでに補足すると、本来、キリスト教とイスラム教は、ユダヤ教の1派です。いずれも唯一(ゆいいつ)の神は、旧約聖書のヤーウェ、ヤコブ、イサク、エホバで、発音は違えども綴(つづ)りは同じです。神の目論見(もくろみ)通りに世界は混乱していますが……全(すべ)て同じ全能の神の名前なのです。キリスト教はナチスの政権下では、教義と人種純血を混合して『積極的キリスト教』と呼称(こしょう)され、ユダヤ人のイエス・キリストはアーリア人にされてしまいました。だいたい、キリスト教はユダヤ教から派生しているのに、これは、かなり無理が有りますね。困(こま)ったものです」

「あなたは街(まち)でユダヤ人を見た事が有りますか? 服の左胸に黄色い星形を付けている人達です。星形といえば大抵(たいてい)は五角形ですが、彼らユダヤ人が崇(あが)めるユダヤの神の星は、六角形の黄色いダビテの星なのです」

 僕は思い出そうとしていた。

 確(たし)か、6年か、7年前、服に黄色い星を付けた人が通りを歩いていたのを見ていた。

「元々(もともと)は、キリストを裏切り、磔(はりつけ)の処刑に導(みちび)いたのはユダヤ人だとして、キリスト教徒はユダヤ人達を忌(い)み嫌い、ずっと以前から虐待(ぎゃくたい)したり、殺したりしていました」

 僕が見ていた黄色い星の人は、足早(あしばや)に歩いていたが、両脇を黒い軍服姿の厳(いか)つい男の人達に支(ささ)えられているようだった。

 僕の前を通って行く時に、マジマジと見た黄色い星の人の外套(がいとう)は畑を転(ころ)げ回ったように汚(よご)れていた。それに顔は紅(あか)く腫(は)れていて、殴(なぐ)られた痕(あと)の赤疸(あかたん)が見えた気がしたけれど、其(そ)の表情は痛みを感じていないみたいに笑(わら)っていた。

「虐(しいた)げられるユダヤ人達は2千年の間に生き延びる術(すべ)を見出しました。それは賢(かしこ)く金銭を稼(かせ)いで財(ざい)を築(きず)くのです。賢く有れば尊敬が得られます。財が在れば頼(たよ)りにされます。彼らは勤労と勤勉で商売と学問に長(た)けて行き、多くの気付きと豊(ゆた)かな発想で地域の支配者になったり、高位の学者になったりして、体制から虐待を避(さ)けるように仕向(しむ)けていました」

「気紛(きまぐ)れな支配者が突然に政策を変更して宗教的にユダヤ人の迫害を始めた時、彼らの財と知識は、彼らの命を保護して逃亡させる為の資金や保証金や身代金(みのしろきん)になるのです」

 黄色い星の人と一緒(いっしょ)に歩いていた黒い軍服の一人は外側の手にピストルを握(にぎ)っていた。

 両脇の二人は黄色い星の人を引っ張る様にして、直(す)ぐに通りの向こう側の路地に入って見えなくなってしまった。

 今思い返すと、きっと彼はユダヤ人の工作員で、ずっと隠れ家で行っていた反ナチス運動が成果を上げた為に捜索されて捕(つか)まったのだろう。そして、秘密警察に捕(と)らえられた悲劇こそが、彼の反抗的活動が効果的だった証(あか)しなのだと知り得たからの、誇(ほこ)りに満ちた笑顔だったのだ。

 ロシアで戦っている兄から届いた手紙にも「捕らえたパルチザンの半数はユダヤ人だと知らせて来たぞ」と父が言っていたから、占領地での工作員はユダヤ人が多いのだろう。

 過去や現在の社会的問題を一方的な見地(けんち)から判断出来ないという事を知って、物事に疑問を添(そ)えて見るようになったのは、此の頃からだ。

 黒い制服のピストルはアメリカ映画に出て来る早打(はやう)ちのカウボーイが腰に下げている回転式で、黄色い星、黒い制服、銀色のピストル、それらは印象的で、子供の僕には六角形の星の鮮(あざ)やかな黄色が、何処か特別な場所へ行く素敵な人の印(しるし)だと思えたのと、銀色に光って綺麗(きれい)なピストルも勇ましく格好(かっこう)が良いと思えて、とても印象深い場面として覚(おぼ)えていた。

 それは、僕が8歳になったばかりで、目に映(うつ)る強くて逞(たくま)しい格好の良い物に憧(あこが)れているの頃だった。

「1933年に選挙で勝利したナチス党が政権を取り、ヒトラーが首相となってからは、ユダヤ人への迫害は日常化しました。翌年の1934年からは、更に迫害は酷(ひど)くなって、些細(ささい)な事で連行されて強制収容所へ送られるユダヤ人が増えました」

 思い返せば、黒い制服姿の二人はゲシュタポの通称で恐れられていた秘密警察だったのだろう。

 男の顔の赤疸は二人に殴られた痕だ!

 彼の笑う顔は逮捕されて逃亡を諦めたのと、これからの自分の運命を知っているからこその表情だったんだ!

「ユダヤ人達は、老弱男女、産まれたばかりの赤ん坊も、病人も、怪我人も、一緒に家族ごといなくなりました。ユダヤ人達は強制収容所に連れて行かれたと聞きますが、其処で何をしているのか分かっていません。誰も戻って来ないのですから、生きているのか、死んでしまったのかも、分からないのです」

「それは彼らの優秀さを妬むキリスト教のゲルマン人の上級国民達が、ドイツ社会からユダヤ人の排除を願った結果なのですが、もしも、排除せずに国家の繁栄政策の主体となる金融業や貿易業に、また開発者や技術者や戦闘員へ大量動員していれば、現在のドイツの悲愴な状態にはなっていなかったでしょうね」

「1941年から1943年の間にドイツの街中からユダヤ人がいなくなり、見掛ける事は有りません。調べる術が有りませんから確証は無いのですが、ドイツ軍に占領された土地のユダヤ人達も同様に何処かへ連れ去られていると噂されています」

「ナチス党はユダヤ人を生活の全(すべ)てに於(お)いて弾圧や迫害をしていますが、寧(むし)ろ、敵対するよりも強制的に宗教の戒律(かいりつ)を開放させて民族的融合を企(くわだ)てるべきだったのです。彼らの能力や古(いにしえ)からの組織を支配して全地球的に利用すれば良かったのですよ」

「団結力の強い彼らは戦力として粘(ねば)り強く戦い抜いて勝利に導いてくれたでしょう。其の賢さから科学や生産の技術を向上させて国家に貢献していた事でしょう。ユダヤ教の彼らとキリスト教徒と平等に接して対応していれば、第3帝国は生活のし易(やす)い豊かな社会になり、様々な明るい希望に満ちていた事でしょう」

「世間の批判に惑(まど)わされず、個人的な恨(うら)みに拘(こだわ)らず、才能溢(あふ)れる巧(たく)みな演説で国民的支持を得ていれば、今頃は総統の野望は達成されて、私達は世界中へ自由に旅行しているかもですよ。アルフォンス・シュミット君」

 もの凄(すご)く危険な考えだけど、モーゼの子孫が得られる約束の地は、現在のドイツになっていて、古代イスラエル王国のカナンの地を第3帝国が保障しただろうと考えると、世の中を戦争で疲弊(ひへい)させている総統の政策は、僕を無性に腹立たせた。

「ところで、何が神の祝福(しゅくふく)と思えますか?」

 突然、先生は話題を変えて、神の祝福とは何かと、僕に訊いて来た。

(祝福は……、御祝(おいわ)い……、嬉(うれ)しがらせるみたいな……、気分を有頂天(うちょうてん)にさせられたような?)

「……神の祝福ですか? それって、自分に都合(つごう)が良い事ばかりが起きて、自覚する興奮と高揚(こうよう)に、主(しゅ)に感謝の祈(いの)りを呟(つぶや)くようになる様(さま)ですか?」

 僕の答えを聞いて閉じた唇(くちびる)の片端(かたはし)をあげ、意地悪(いじわる)そうな微笑(ほほえみ)をする先生へ僕は続けた。

「幸せだと思う事ですか? 嬉しさに、楽しさや穏(おだ)やかさを感じる事ですか?」

 意地悪な笑い顔を真顔(まがお)に戻すと、先生は僕の言葉に繋(つな)いで紡(つむ)いで行く。

「そうです。それに、怒(いか)りや悲しみに妬(ねた)みもね。そんな幸福感と相反(あいはん)する不幸感も、先生は神の祝福と同義だと考えるのですよ」

 確かに先生の言う通り、幸せと不幸の感覚は同じ琴線(きんせん)の上に在るのかも知れない。

「アルフォンス・シュミット君。先生は、こうも考えています」

「はい?」

 先生は、興味深げな僕を見ながら、今度は唇の両端(りょうはし)を上げて微笑(ほほえ)む。

「怒りを覚(おぼ)えるから、平穏(へいおん)な喜びを求める。悲しみに暮れながら、嬉しさを懐(なつ)かしむ。……相反する感情を知る事が、神の祝福だと私は思っています」

 幸せも、不幸も、祝福なのだとすると、神は、なんて無慈悲(むじひ)なのだろう。

 そもそも、神は慈悲深く正義(せいぎ)なのだと、何処に示(しめ)されているのだろう?

 僕の知る限り、導(みちび)き、見守り、チャンスを与え、縛り、罰(ばっ)する。

 明確な救いは無く、永劫(えいごう)に続く試練の中に、幸(こう)と不幸が繰り返されるだけだ。

「先生、僕は、幸せ溢(あふ)れる日々の中で過ごしていたいと、願っています」

「もちろん、先生も同じですよ。毎日、幸せであるように祈(いの)ります。辛い不幸に苦しむのは嫌(いや)ですからね。堪(た)えられないかも知れません」

 そう言って、先生は僕の頭を撫(な)でてから、まるで対等の友人にするように僕と握手(あくしゅ)をする。

「先生の考えは以上です。話は終わりました。くれぐれも、君の安全の為に、今の内容は忘れて下さい。もし、覚えていても、決して他言してはダメですよ。お互い、どんな惨(みじ)めで悲惨(ひさん)な仕打(しう)ちの人生になるか、分りませんからね! いいですか、親にも、兄弟にも、親しい友人にも、絶対に言わないで下さいね。さあ、冷め切らない内にホットミルクを飲んで、寛(くつろ)ぎなさい」

 僕の眼を優しい眦(まなじり)で見詰めながら、立てた人差し指を、自分の唇に当ててから僕の唇に添(そ)えた。

 其の仕種(しぐさ)は本当に二人(ふたり)だけの秘密を守る儀式のように感じて、僕の記憶に枷(かせ)として強く刻(きざ)まれた。

話が済むと先生が、『こういうのも読んで、当時と現在を比(くら)べて史実は自分で学ぶ、習慣を強めなさい』と、僕に貸し与えてくれたのは、史実と幻想が混在記述された旅行記、『マルコ・ポーロの東方見聞録(とうほうけんぶんろく)』だった。

「其の本には、我がドイツの同盟国で遥(はる)か東方に在る強国、日本は、黄金の国ジパングだと書かれていますよ。ジパングの国名は英語のジャパンの語源で、其のスペルをドイツ語発音してヤーパンですね。そして、ジパングの語源は、中国の貿易港が在る地方の方言発音のジーベンクォです。日本と中国の文字文化は漢字圏で、日本を示す漢字は、太陽が昇(のぼ)る国を意味する漢字を使います。日本での発音は全く違うニホンですがね。まあ、そういう事にも考えを馳(は)せながら、面白(おもしろ)く読んで下さい。返してくれるのは、いつでも良いですよ」

 上下2巻の東方見聞録をペラペラと流し読みしながらホットミルクを飲み終えると、先生は真剣な顔になって言う。

「そういえば、日本での宗教の主流は仏教だそうで、中国から伝来した仏教は1300年前の君主政治の時代に日本の国教となったのです。ですが、日本の国土には紀元前3000年以上の古代から信仰されている神教が既に有りました。国教となった仏教の幸せは人それぞれの内に有り、人は死んで悟(さと)りを得て神になる教え、全ての物や事柄(ことがら)や自然には安寧(あんねい)を齎(もたら)す神が宿(やど)っているという神教、其の二つの信心(しんじん)する教えは、時の君主によって両方とも信仰すれば良いとされたのです。だから、イスラム教やキリスト教やユダヤ教の信仰が許(ゆる)されているのです」

「嘗(かつ)てのモーゼがエジプトからパレスチナの地へユダヤの民(たみ)を導いた様に、現在のユダヤ人達がナチス党の虐げから逃れて極東の満州国(まんしゅうこく)や朝鮮(ちょうせん)半島まで行けていれば、日本の理解と協力で日本に都合(つごう)の良いユダヤ人国家が誕生していたかもしれませんね。だが残念な事に、強国のドイツと同盟を結(むす)んでいる日本は、ナチス党党首のヒトラー総統に遠慮して公(おおやけ)には行動せずに更なる新天地への中継地にしかなっていないでしょう」

 先生の言葉を聞きながら、確かに一つの思想や一つの教えに全体を染(そ)めて固める事は、人の生きる道として危険な考えではと、僕は思っていた。

「近い将来、君は軍務に就いて、もしかすると保安隊や秘密警察に配属されるかも知れません。だけど、そうなっても、君は悩(なや)まずに、この国で御家族と共に生き続ける為に、政治犯の検挙や民族迫害に加担(かたん)する取り締まりを躊躇(ためら)ってはいけないよ」

 先生の目は潤(うる)んでいるのか、瞳が淡(あわ)く光っている。

「そうなった君に責任が無いと言い切れないですが、率先(そっせん)して任務を遂行(すいこう)して性急な出世(しゅっせ)をしていかない限り、大衆の恨(うら)みの標的にならず、人道的に重大な罪を背負(せお)う事はないでしょう。この国の人々の為にならない諸悪(しょあく)の根源は現在の個人の自由を認(みと)めない政治と全体主義の統治体制に有るのですから……」

 深く頷(うなず)いて、僕は返事をした。

「はい、先生……」

「……そろそろ僕は、……帰ります」

 僕は御暇(おいとま)すると告(つ)げて挨拶(あいさつ)をする。

「そして最期に、他人の意見や提案を鵜呑(うの)みにして従(したが)い、後悔をする人生にしないで下さいね。アルフォンス・シュミット君」

 先生は立ち上がり、僕をドアへと促す。

「分っています。先生。これは私だけの秘密です。今後、このような質問はしません。明日も、いつも通りにします。ありがとうございました。これで失礼致します。先生」

 東方見聞録を指差す先生は、それを僕のショルダーバックに入れて持ち帰るように示した。

 2冊の本を大事そうに抱えて通りを歩く僕に不審さを感じた誰かが警察や保安局に通報して、僕は身分証の提示を求められ、持ち物を調べられるだろう。

 そうなれば、東方見聞録の出所(でどころ)を言わされて先生と僕の家は家宅捜査を受けるかも知れない。

 今は僅かでも怪(あや)しく思われたら親しい隣人でも通報されて尋問(じんもん)と捜査を受けた挙句、思想教育に収容所に入れられてしまうという不自由な世の中だから、用心するに越した事はない。

「ああ、いつも通りだ。さようなら。気を付けて返りたまえ」

 戸口でニッコリと笑いながら手を振って見送る先生へ、小脇(こわき)に抱(かか)えていた2冊セットの東方見聞録をショルダーバックに入れながら、僕は笑顔で高く手を振り返しながら帰っていた。

 僕は先生との話から、人は生まれながらに悪を持っていると考えた。

 だが悪を悪だと認識していない『生き抜く為(ため)の本能』で、行ってはならない悪だと理解するのは道徳や規則を刷(す)り込まれてからだ。

 だから生き延びる為に行われる醜(みにく)い所業は『悪』だろう。

 人間の悪に其の様な根源の有る事は聖書に記述されていて、兄弟姉妹が争(あらそ)い、貶(おとし)め、殺し合う。

 親は子供を生贄(いけにえ)に焼(く)べたり、代償として他人に与えてしまう。

 家族は年長者の男性に支配されて自由な生き方や考え方を否定され、其の人生を支配される。

 男性は多くの妻を持てるが、女性は嫁(とつ)ぎ先の男性に尽(つ)くさねばならない。

 だが、それらの行為を不平等で不公平で不公正だとは微塵(みじん)にも思っていない。

 人間が神自身を模(も)して創られたとしたら、神も今日でいう悪行を平然と行う存在なのだろう。

 其の事も聖書には記されている。

 故に神の加護(かご)や神託(しんたく)は有るだろうが、慈悲は無いだろう。

 僕は『善』を醜い行為を行わない様にする慈悲と自愛の考え方だと、今は思っている。

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 路面を踏(ふ)み付けるマムートの1枚1枚の履帯(りたい)からの小刻(こきざ)みな振動で小さく揺(ゆ)られながら、はっきりと僕は先生との話を思い出していた。

(あの本……。東方見聞録は、まだ先生に返してなかったな……。いつか、シュパンダウへ戻れて本が無事だったら、先生に会いに行こう)

 毛布に包(くる)まって通信手席の開いたハッチの縁(ふち)に腰掛け、無線機に入る敵味方の通信を制帽の上から掛けたヘッドギアのレシーバーで傍受(ぼうじゅ)しながら、冷(ひ)ややかな夜風に吹かれていたら、再(ふたた)び、まだ、まともな授業なされていた去年の春に、人種論について先生にした質問の続きを思い出していた。

(ドイツ人が神懸(かみがか)り的に優秀な種(しゅ)ならば、僕達はマムートに乗って、森の中の暗い街道を人が歩くよりも遅い速度で進んではいないだろう)

 見てくれの違いは有っても、種の能力は平等だ。

 教育環境や指導方針の違いなのか、偶々(たまたま)、敵の中に我々よりも優秀な人材がいて、彼らに導かれた戦略はドイツを敗北寸前に陥(おとしい)れている。

 戦争はドイツの負(ま)けだ!

 総統は四日前の4月30日にベルリンで亡(な)くなった。

 総統官邸の目前に迫(せま)るソ連軍へ最後の突撃の戦闘に立ち、戦死されたとラジオのニュースで聞いていたが、官邸地下の強固な掩体(えんたい)壕(ごう)の執務室でピストル自殺したと無線通信に入っていた。

 戦死でも、自殺でも、他の死に方でも構わないが、第3帝国の体制を指導する総統は、もう此(こ)の世には存在しない。

 僕は勿体(もったい)ぶったキリスト教の聖書の語(かた)りより、ナチス党が崇(あが)めているゲルマン神話の物語の方が、描写が浮き上がって来てときめき、よく読み返していた。

 人々のモラルは崩(くず)れ去り、生き物は死に絶(た)えてしまう世界の終焉を告げる角笛(つのぶえ)ホルンが吹かれる終末の『ラグナロク』の日、其の神々の黄昏(たそがれ)の世界観が特に好きで、神々と巨人族の最終決戦に人類は巻き込まれ翻弄(ほんろう)される有り様の戦いに興奮した。

 オーディン率(ひき)いる神々は甲冑(かっちゅう)に身を固めて、超兵器のような剣(つるぎ)や鎚(つち)や盾(たて)で巨人達を薙(な)ぎ倒し、戦死者を選定して其の魂(たましい)をヴァルハラの館(やかた)に連れ去るヴァルキュリャと館(やかた)に集められた死せる戦士達が巨人族を打ち倒しても、超高温の炎を巻き散らして自身も燃え尽きる超巨人のズールトに焼かれてしまう。そして、神々と巨人族と人間達は地獄の死者の国ヘルヘイムの奈落(ならく)の底に落とされた。

 しかし、天上界の大広間ギムレーと世界樹ユグドラシルの葉間(ようかん)の森は焼け残り、其処(そこ)へ逃(のが)れた極少数の善良で正しい神と人が新(あら)たな世界を紡(つむ)ぎ出して行く。

 ベルリンは三(みっ)つの幹に九(ここの)つ世界を宿(やど)すユグドラシルで、総統官邸が天上の防御施設のギムレーだと、いつしか総統は考えて、東側と北側から攻め込む大砲を戦争の神々と呼ぶソ連軍と西側と南側から迫る巨人の群れの様な連合軍、それに第3帝国のドイツ軍が信じられないほどの激しい消滅戦の果てに、無になったドイツの地は平定され、其処にギムレーとユグドラシルで生き残った総統と善良(・・)なドイツ人は復活する神と巨人諸共(もろとも)、世界を支配する……。

 そんな荒唐無稽(こうとうむけい)な事を陥落(かんらく)するベルリンの総統官邸の強固な地下壕の自室で最期まで夢見ていたのだろう。

 シュパンダウの通りで無残に殺された同級生達は誰もが善良な友だった。だけど、誰も葉間の森へ逃げ込む事が出来なかった。

 現実は望みの欠片(かけら)の一(ひと)つも見付けられずに死んでしまった大勢の人々と同じく、総統も虚(むな)しく亡(な)くなってしまった。

 ナチスドイツは国民も、政治も、経済も、国土も、全て失った!

 此処(ここ)の森を抜ければ見えるエルベ川までの土地が、第3帝国に残された国土の全てだ。

(長くても4日、早ければ明日、5年と8ヶ月も続いた戦争が漸(ようや)く終わってくれる♪)


つづく

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