第15話 いいのよ。心配も迷惑もかけてくれて。あの日から私のすべては誠司君のものだから

「痛っ」

「あ、ごめんね。痛かったよね。もっと優しくするね」


 僕は今、奈美さんの家で奈美さんに傷の手当をしてもらっているところだった。

 奈美さんはこれでもかと優しく手当してくれているのだが、どうしても消毒液が傷に染みる。だから無意識に痛いと言ってしまう。


「はい。これでよし」

「ありがとうございます」


 手当を終えた奈美さんは救急箱をしまうと僕の隣に座り直した。


「誠司君」

「はい」

「誠司君」

「はい」

「誠司君……」

「……はい」


 奈美さんは僕の存在を確かめるように何度も名前を呼んできた。

 名前を呼ばれて返事をする度に奈美さんは安堵の表情を浮かべた。


「触れてもいい?」

「……痛くないようにお願いします」

「もちろんよ」


 頷いた奈美さんは僕の頬をまるで割れ物を触るかのように優しく撫でた。


「よかった。っていうのも変な話だけど、誠司君が生きててくれてよかった」


 奈美さんと見つめ合う。 

 そのルビー色の瞳には次第に涙が浮かんできていた。

 大粒の涙が奈美さんの頬に一筋の線をつける。

 ただただ美しかった。その涙を見た瞬間、あの日のことが頭に蘇ってきた。


「誠司君がいなくなったら私……」

「心配かけてすみません。それから、迷惑もかけてすみません」

「いいのよ。心配も迷惑もかけてくれて。あの日から私のすべては誠司君のものだから」


 そう言いながら奈美さんは僕のことを抱きしめる。

 奈美さんに抱きしめられた僕はあの日のことを思い出していた。

 あの日……。

 奈美さんと初めて出会ったあの日は雪が降っていた。

 

「寒いな」


 雪の降る中コンビニでお弁当を買って帰ってる時のことだった。

 僕の暮らしているマンションからコンビニまでの道のりの途中には公園がある。

 奈美さんと初めて会ったのはその公園だった。

 奈美さんは雪が降っている中、公園のベンチに座っていた。


「あの人こんな雪の中で何してんだろう」


 最初は単なる興味本位だった。

 公園のそばを通りかかって、ベンチに座っている奈美さんが見えたから立ち止まっただけ。それだけだった。

 それが心配に変わったのは奈美さんがいきなり子供のように「うわぁ~ん」と泣き出したからだ。


 いきなり泣き出すから僕は何事かと思って奈美さんに近づいた。

 近づいて分かったことは、その横顔がかなりの美人で、片手にビールを持っていて、頬がほんのりと赤くなっているということだった。どうやら昼間っからお酒を飲んで酔っている様子だった。

 そんな奈美さんのことをほっとけるわけがなく、僕は声をかけた。


「あの、大丈夫ですか?」


 僕が声をかけると奈美さんはゆっくりとこちらを向いた。

 いつから泣いていたのだろうか。その目は赤く腫れあがっていた。

 その赤く腫れあがった目に警戒の色を浮かべて「誰?」と奈美さんは言った。


「えっと……」


 そりゃあ、いきなり声をかけられたら警戒するよな。


「流川誠司っていいます。その、何してるのかなって気になって……」


 下手に嘘をついてもっと警戒されても嫌だと思って僕は正直に言った。


「見たら分かるでしょ。お酒飲んで泣いてるの」


 冷たくそう言った奈美さんはお酒を呷った。


「だからほっといてくれない」

「……風邪ひきますよ」

「あなたには関係無いでしょ」


 そう言われてしまえばそれまでなのだが、声をかけた手前、僕もそれではいそうですかと引き下がるのは嫌だった。

 それにこのまま引き下がったら、おそらく彼女のことを考えて眠れなくなる。


「確かに関係ないかもしれませんけど、こんな雪の中で泣いてる女性をほっとけるわけがないでしょ」


 お酒も飲んでるし、下手したら死んでしまう可能性だってある。

 僕はそう言うと、着ていたコートを奈美さんの肩にかけた。

 その綺麗な顔にばかり気を取られ気が付かなかったが、奈美さんは雪が降っているというのにコートもアウターを何も着てなくて、そればかりかまるで何かの衣装と言わんばかりの肩の出た派手な服を着ていた。

 コートを肩にかける間、奈美さんはずっと僕のことを見ていた。


「そうやって優しくして何が目的なの? まさか、私の体……」

「な、何言ってるんでるか!? 目的なんてありませんよ。ただのお節介です。自己満です。だから、何も見返りなんていりません。僕がやりたくてやってるだけなので。ところで、隣、座ってもいいですか?」


 そう聞いたが奈美さんが頷く前に僕は隣に座った。


「私、許可してないんだけど……」

「まぁ、いいじゃないですか」

「可愛い顔して、意外と大胆なのね」

「名前聞いてもいいですか?」


 可愛いと言われて少し恥ずかしくなった僕は話を逸らした。


「教えると思う?」

「僕だけ名乗ったのに不公平じゃないですか」


 誠司は頬を膨らませた。


「知らないわよ。あなたが勝手に名乗ったんじゃない」

「え~教えてくれないんですか」

「そんな顔で見られても教えるわけないでしょ」


 警戒新たっぷりの目を向けられて僕は首をすくめた。


「そうですか。分かりました」


 そこで会話は途切れた。

 それからしばらく無言の時間が続いた。

 僕の体はどんどんと冷えていっていた。

 その間も奈美さんはお酒を飲み続けていた。

 やがて、酔いが完全に回ったのか奈美さんは下を向いて独り言を言い始めた。


「はぁ~なんで私、あんな失敗しちゃったんだろう~。最悪……」


 僕はその独り言をただただ静かに聞いていた。


「もう自分が嫌になる」


 そう言って奈美さんはビールを呷る。

 その独り言を聞いている限り、どうやら仕事で失敗をして落ち込んでいるようだった。

 仕事でのミスか。

 仕事をしたことがない僕にはその悩みは分からないことだった。だけど、ミスをして落ち込む気持ちは分かる。


「ミスは誰にでもありますよ。大事なのはミスをした後にどうするかじゃないですか?」


 なんてありきたりな励ましの言葉を言うと奈美さんはバっと顔をこちらに向けた。


「な、なんですか?」


 怒らせてしまっただろうか。奈美さんは僕のことをジーっと見つめていた。


「そうよね。ミスは誰にでもあるわよね……でも、ダメなの。一回でもミスをしたら。私はプロなんだから。それでお金をもらってるんだから。一回くらいのミスはいいかって思ったらおしまいなの」


 たしかに、奈美さんの言う通りなのかもしれない。

 仕事での一ミスは人生を左右すると常々父さんから言われていた。 

 そのことを思い出した僕は軽率なことを言ってしまったのと反省した。


「すみません。そうですよね」

「でも、そうね。いつまでもめそめそとしていられないわよね。私はプロなんだからそのミスを次に活かすくらいの気概じゃないといけないわよね」


 どうやら励ますことができたみたいだ。 

 奈美さんは少し微笑むと立ち上がった。


「ありがとね。えっと、名前何だっけ?」

「流川誠司です」


 僕もベンチから立ち上がる。


「誠司君ね。誠司君のおかげで少し元気出たわ。それからずっと黙って話を聞いてくれてありがとう」

「いえいえ。初めに言ったじゃないですか。ただの自己満だって。僕の自己満が役に立ったならよかった……はっ、くしゅん」


 間の悪いことに僕は大きなくしゃみをした。


「ご、ごめん。私がコートを借りてたから。寒かったわよね」


 そう言って奈美さんは自分の肩にかかったコートを僕に返そうとする。

 僕にコートを返そうとしていたその手に触れて首を振った。


「そのコートはお姉さんにあげます。家まで着て帰ってください。そんな、肩を出した状態で歩かせるわけにはいきません」

「でも……」

「それに一度差し出したものを返してもらうような情けないことは……くしゅん」

「ほんとどこまでお人好しなのよ。私の家はすぐそこだし、お酒を飲んで体はポカポカしてるから。やっぱり返すわ」


 奈美さんは肩からコートを外すと僕に羽織らせた。


「じゃあ、私は帰るわね。もう、会うことはないかもしれないけどね」


 そう言って奈美さんは少しふらついた足取りで公園から出て行った。

 その日はそれで終わった。

 奈美さんと親しくなったのは翌日、風邪をひいた僕の家に奈美さんが引っ越しの挨拶をしに来た時だった。



 そんな六カ月も前の懐かしいこと思い出して僕は笑った。

 今思うとあの時の僕、カッコつけすぎだろ。


「どうしたの?」

「いえ、奈美さんと初めてあった日のことを思い出して」

「ああ、懐かしいわね」


 奈美さんもふふっと笑った。


「あの時のぐいぐい来る誠司君カッコよかったな~。今は今で可愛いんだけどね♪」

「恥ずかしいので忘れてください!」

「なんでよ~。いいじゃない。それに、忘れるわけないわ。あの日のことは大事な思い出なんだから♪」

「僕にとっては恥ずかしい記憶です」

「ふふ、一生忘れてあげない♪」


 奈美さんはそう言うと僕の顔をおっぱいに優しく抱き寄せた。


「もう会うことないなんて言ったのに、まさか次の日には再会することになるとは思ってもいなかったわ。きっと運命だったのね。私たちがあの日に出会ったことは♪ そして、私はあの日、誠司君のことを好きになったのよ♪」

「奈美さん……」


 視線をあげると奈美さんと目が合った。

 吸い込まれそうなほど綺麗な瞳。 

 不意にニコッと微笑まれ心臓がドキッとした。

 そのまま見つめ合っていたらおそらく僕たちはキスをしていたかもしれない。

 しかし、そんなことはなく部屋にインターホンの音が鳴り響いたことで僕たちは視線を逸らし合った。


☆☆☆


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