第8話 商人は利益を求め、実利をもたらすもの。

 夕闇が迫り、空に一等明るい星が輝き出した頃、ようやくわたし達はバンブリア邸への帰路に着いた。

 中央広場に程近い場所の馬車留まりで待っていてくれた家の馬車の姿が見えたところで、ハディスがふと足を止め、手を繋いでいたわたしもそれに引っ張られる格好で立ち止まる。

 繋いだ手に軽く力が込められて、何かあったのだろうかと見上げると、ハディスは今日一番の真面目な表情でこちらを見詰めていた。


「セレネ、今朝のは冗談でも何でもなくて――嫌でなければドレスを贈らせて欲しい。」

「あの真っ赤のですか?」


 悪夢に出てきそうな‥‥と言うのは空気を読んで、さすがに思い留まった。


「うん。本当に気が進まなければ―――いや、それはもう、どうでも良いか‥‥。僕が君に贈ることをただ許して欲しい。イシケナルの贈った物なんて着ないで。着る機会が無くても、僕の物を持ってくれているだけで安心出来るから、僕のために、ただ贈らせて欲しい。」


 ハディスの何だか色々諦めた様な、寂し気な様子に、チクチクとざわつく心臓がドキリと跳ねる。


 どうしてそこまでして赤いドレスをわたしに贈ろうとしているんだろう?


 言いかけて止めた。ハディスはわたしに好意を寄せてくれている。わたしは、鈍いうえにすぐに結論を避けて逃げ出してしまうくらいには意気地なしで、更に都合の悪いことは誤魔化してしまおうとする様な卑怯者だ。それなのに好意を疑い様の無いくらいの態度を示してくれているのに、聞いてどうする。


「ハディス様、わたしは将来ともにバンブリア商会を盛り立ててくれる婿を取りたいと考えているのです。」

「そうだったね。何度も聞いてるから知ってるし覚えてるよ。そして僕はセレネが学園を卒業するまでの期間限定の護衛だ。そこに今は『将来』を窺わせるものは何もないね。残念だけど。」


 是とも否とも答えないわたしは相変わらず卑怯だ。

 ハディスの声に含まれるのは紛れもない諦めだけれど、その上でのアプローチにどんな意味があるのかは見えてこない。応えられないわたし自身が歯痒くて仕方ないし、突き放す意気地もない。そんなこちらの気持ちを分かった上での申し出なんだろうけど。


「以前にも言いましたよね。護衛である貴方達のやる事、身の安全の責任はわたしが取るので、絶対にわたしを差し置いて厄介ごとに首を突っ込まないでください。やるなら一言言ってください。無理に止めないくらいには貴方たちを信頼しています‥‥と。今、あなたはまだわたしの護衛です。」


 きょとんと目を丸くしたハディスが、一瞬おいて顔中をくしゃりと歪ませて苦笑する。


「参ったなぁー、そうだったね。報告がいるんだったっけー。」

「何があったんですか?」


 護衛の期限もまだな今、突然強引に先へ手を伸ばそうとする理由を考えたら、多分ハディスの方に期限の近い不都合が現れたとしか思えない。


「うん、まだはっきりとは分からないけど‥‥さぼり続けていた仕事に、そろそろ顔を出しに行かなきゃならなくなるかも・って。」

「お仕事ですか?それって王弟の方のですか?それとも騎士の方のですか?」

「両方かな。けど決まりじゃない。それでも、遅からず行くことになりそうだから、それだけ伝えておくね。」


 諦めを含んだ優しげな声に、気持ちが不快にざわつく。

 わたしはキッと瞳に力を込めて、穏やかな色を湛えるハディスの黒に近い深紅の瞳を睨み付けた。


「――自分ぼくの事を忘れないでって、置き土産ですか?なら受け取れません。安心して気が抜けると云うこともあるでしょう。なら、ハディス様が戻ったときに改めて受け取ることをお約束します。」

「あ‥‥はっ、そう来たか。分かった、約束だよ?」

「はい。せいぜい、戻れない、渡せない不安感の中でもがいて頑張り続けてください。」


 ハディスからは不安げで優しい諦めの色は消え去り、逆に不穏な黒い気配を漂わせてニヤリと笑う。


 と、次の瞬間、ハディスはその場に跪き、未だ繋いだままだった手を、恭しく掬い取る様に持ち上げ、そして指先にそっと唇を落とした。


「僕が問題を解決して戻って来たら、君は僕の色のドレスを受け取る。約束、確かに承った。」


 スッと見上げられた整った面立ちは憑き物が落ちたように晴れやかで、それはそれは美しい貴族の笑みで、けど何か良くない思惑に搦め捕られているようで気持ちが悪い。


 何か失敗した!?


 けどその何かが分からず、口をパクパクさせながら何も言えず、棒立ちのままひたすらぐるぐると考えを巡らせていたわたしに、馬車から降りて近付いてきていた小父さんが、感慨深そうに、すんっと鼻を鳴らす。


「いやー、お嬢さんも隅におけませんやね。」


 何!?どういう意味!?


 更なる困惑を重ねたわたしの側の空間がふわりと揺らいで冷笑を浮かべたオルフェンズが現れるや否や、ハディスの首筋めがけて短剣を投擲する。


「赤いの、時間切れだ。」


 舌打ちと共に手刀でそれを叩き落としたハディスを見て、ようやくわたしは再起動したらしい。


「ハディス様!?ドレスってまさか‥‥赤色のって、ハディス様の色って‥‥!?」

「ふふっ、無事帰れないかもしれない僕の代わりに自分の色のドレスを傍に置くから、僕だと思って待ち続けていて――と?無事帰った暁には婚約ですか?愛妾ですか?女々しいうえに思い上がりも甚だしい、大変愉快な出し物を観させていただきました。愉快すぎてずっと見守らせていただきましたが、そんなもの私が簡単に反故に出来てしまいますからね?しかも今日の足取りと言ったら、まず私と桜の君とのデートの2番煎じとは‥‥。それとも上書きしたいと云う嫉妬と独占欲ですか?あぁ、愉快です。」


 珍しく怒涛の勢いで話し出したオルフェンズは、ハディスに掴まれたわたしの手を引っ手繰る様に奪い取り、跪いたままのハディスを見下ろすと、挑戦的な笑みを唇に刻む。


「何のしがらみも無い私は、こうしてずっと桜の君のお側に付いておりますから、貴方は何の危惧も無く離れてくださって結構ですよ?」

「僕のために働いてくれるなんて感動だなぁ。銀のならセレネを間違いなく守れるだろうしね、僕のために。」


 眉を顰めたまま口元に笑みを浮かべた複雑な表情で、すっと立ち上がったハディスは息のかかりそうな至近距離でオルフェンズと微笑み合う。


 どちらも譲らない姿勢で不穏極まりない様子だけれど、根本が間違っているわ。


 勢い良く2人の間に割って入り、片手を腰に当てて、つんと顎を反らす。


「ただ漫然と護られる気はありません!厄介事には逃げる、戦う、自分の出来る限りは尽くして、最善を自分で手繰り寄せますからご心配なく!わたしは貪欲に実利を掴むため、全力を尽くす商会令嬢ですもの。」


 言い切ると、丸く見開いた深紅とアイスブルーの2組の目が丸くなってこちらを凝視し、やがて揃って笑みを浮かべた。「それでこそセレネだ」とか「やはり桜の君は面白い」だとか「やっぱりお嬢様に浮いた話は難しいですなぁ」なんて皆口々に好きなことを言ってくれる‥‥。


 まぁ、それでもいい。商人は利益を求め、実利しあわせをもたらすもの。大切な人たちの笑顔が曇らなければ満足よ。



 見上げた空は、すでに夜の帳が降りていて、ぼんやりと光る星が連なり、薄く天の川を象り始めていた。

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