第43話 さすがに何もした覚えはないよ――ねぇ?
クロノグラフ学園長はともかく、部外者であるわたし達がまだ居るうちにやって来た衛兵に、イシケナルは
「何事だ。」
イシケナルが、
「愚図は嫌いだ。しっかりと話せ。」
再びイシケナルが言葉を促すと、衛兵は
「シンリ砦より急報を!――大森林より、大木トレント‥‥並びに数多くの動物型魔物が出現、――砦は現在魔物達と交戦中‥‥です!」
森が溢れていた。
正確には、森の高い木々よりも更に高くに頭を出した何体ものトレントが、全身を揺らめかせて動いていた。シンリ砦の物見役の衛兵には、その景色は、あたかも森全体が一つの生命を持ち、身体全体を震わせる不気味な胎動をしているかの様に見えた。
物見役が危急を知らせる銅鑼をけたたましく打ち鳴らし、通信役が領主館へ連絡を取ろうと滅多に使うことのない緊急通信用の魔道具を作動させようとして、これまで緊急時下の実用で使うことの無かったその道具が、はっきりとした音を捉えられなくなっている事に今更ながら気付いた。年に一度の作動確認では間違いなく動いていた。けれど、姿を変容させる程の魔力を孕んだ魔物が、周囲に何体も現れている状況では使ったことが無かったからかもしれないし、周囲に姿を現した魔物達が何か通信を妨害する行動を取ったのかもしれないが、それは分からない。何故なら、未だ嘗てシンリ砦の面する森から魔物が溢れ出て来ることなど無かったから。
辺り一帯には、誰も感じた事のない重い空気が満ちていた。
息苦しく、総毛立つ様な不快感が満ち、身体全体が倦怠感を訴えるような、誰もが感じた事の無い異様な心地を覚えて、本能的に恐怖した。
成長しきった大木トレント1体でも、衛兵達が組織的に対応して何とか倒せる様な魔物なのに、それが複数体、森全体が動いている様に見える程の数が現れている。しかも、ウサギや山猫型の小型魔獣までもがちょろちょろと走り回っているのが見える。
これまで、シンリ砦では、年に1、2度、森の浅い場所まで移動してきてしまった
それなのに、今この砦が面する森からは、嘗て見たことの無い数の大木トレントがゆっくりとではあるものの、人の住む平野目掛けて侵出して来ようとしている。森は砦の建つ平野を挟み、ミーノマロ公爵邸の在るカヒナシ地方最大の街へと繋がっている。絶対に、これを見過ごす訳にはいかないと、対峙の経験もノウハウも無い砦内は恐慌状態に陥りつつも、何とか大木トレントへの対応をすべく動き出してはいる。
けれど指示を仰ぐべき領主イシケナルへの通信手段が無い、兵力が足りない、退治のための武器や道具が足りない、街への避難指示を行う手段が無い。
そうして、今イシケナルの目の前に立つ泥だらけの衛兵が、危急の報せを持って駆け付けることになったのだった。
「シンリ砦が魔物と交戦中だと?討伐ではなく、砦までの侵攻を許したのか?」
「1体ではなく――複数体‥‥森全体が揺れ動くかの様で正確な数は知れずっ。私が出立した時点では、少なくとも――3体と交戦中でした!3箇所全てにおいて討伐の目途は‥‥立っておりません。」
その衛兵だけは、イシケナルの元に雇われた他の者達とは異なり、彼に見惚れる素振りもなく、ただ必死に窮状を訴えていた。それが一層、その衛兵が見て来た物の緊急性を伝えている様に思えて、何の事情も分からないわたしでも、不安に心臓の鼓動が早くなるのが分かった。
「お爺様!?」
「あぁ、これまで一度たりとてそんな事はなかった!3体同時など‥‥。」
新旧のこの地の領主が共に経験したことの無い事態に、互いに驚きを隠せなかった様だ。
この地方の森林と言えば、わたしとヘリオスが獲物を麻痺させる花粉を持った『トレントの亜種』を採集していた所だし、イシケナルと出会ってしまった湖のある場所だわ。王都のお隣の領地だけあって近くて便利だから素材集めにも何度か来たことがあるけど、そんな危ない目に遭ったことはなかったよ?
むしろ、いつも狩場にしていた王都に一番近い森の方が、この服を作る素材になった大木トレントに追い掛けられたりして危ない目に遭ってるくらいだし。まぁ、あの時も初めて大木トレントがわざわざ出向いて来るのに遭遇してびっくりしたけどね。
あれ?そう言えば、亜種のトレントが現れたのが1年前、大木トレントに追い掛けられたのが2ヶ月ほど前。そして今の大量発生。
「なんだか最近トレントが活発になって来ているんじゃないかしら。」
「小娘?何か身に覚えがあるんじゃないだろうな!?」
小声だったはずなのに、イシケナルが過敏に反応するから、その場の視線がわたしに集まってしまった。いや?さすがに何もした覚えはないよ――ねぇ?
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