第35話 イシケナルの署名入りの書付け ※ヘリオス視点

 3日前、僕の乗った馬車は襲撃された。


 酩酊めいてい状態のようにトロリとした視線で、ふらふらしながら馬車に乗り込んだ護衛そして、焦点の合わない朦朧もうろうとした様子の馭者ぎょしゃ小父おじさんが、僕の事を振り返りもせずに出立しゅったつしたのを静かに見送る。

 目の前のこの紫紺しこんの髪の男が使ったであろう魅了の魔力は、相手の思考を麻痺させるか、それとも誘導する類のものなのか、とにかく「害はない」と男が断言していたから大丈夫なはず、と無理に自分を納得させる。


「私を待たせるとは悪い子だ。さて、私に敵わない事は既に分かっているだろうが、余計な気は起こすなよ?面倒は嫌いだ。分かったらさっさとその馬車に乗るんだ。」


 紫紺の男が告げると、豪奢な黒塗りの馬車が現れた。絶妙なタイミングに感心して、どんな人間が馭者を務めているんだと眺めていると「何をぼうっとしている!愚図は嫌いだ。」と、更に苛立った声で急かされる。


「どうして自分を誘拐する人間にこころよく従うと思っているのか、不思議でなりませんね。これからを案じる心に足が鈍っても仕方ないでしょう。」


 本当は、誘拐なんて犯罪をくわだてる様な下衆げすに従いたくなんて無い、と言いたいところだけど、この男や、従えた私兵たちの上質な衣服や物腰から高位貴族だと判断した僕は、ぐっと堪えて本心を隠す。まぁ、本当に怖がってたら言い返すことも出来ないだろうから、僕の思惑なんてバレバレだろうけどね。そう思っていたのに。


「何だ?小僧、私が怖いと言うのか?よく見てみろ。そしてさっさと動け。」


 紫紺の男は心底不思議そうに目をしばたたかせ、更に一歩二歩とこちらに近付いて、ギッと見開いた目を僕に向ける。え?なんのつもり?おじさんに見詰められても気持ち悪さしか無いんだけど。


 お姉さまの、好奇心に満ちたキラキラした瞳と違い、欲を全面に押し出したギラつく瞳に嫌悪感が増す。

 腹の底から何かを押し出してしまいそうな気持ち悪さに、ぐっと唇を引き結んで、距離を詰められた分後退あとじさると、紫紺の男はまた不思議そうにまばたきして、じりじりと距離を詰めて来る。


「だから!一体何なんですかっ!」


 気持ち悪い!とはっきり言わなかったところは、僕とお姉さまの差かもしれない。お姉さまは、つい本心がこぼれ落ちるような迂闊うかつなところがあるから。


「何だと?」


 それでも紫紺の男の表情には驚きと共に苛立ちが現れる。


「そもそも貴方は僕をどうしようと言うんですか?家格の力関係で無理を押し通されるのも厄介だから、今は話を聞いてあげるとは言いましたが、殺すつもりなら僕も大人しくしている気はありません。人質ですか?それともたださらっただけですか?」

「ふむ‥‥そうだな、あの生意気な小娘に身の程を分からせてやろうとは思っていたが、そう言えばお前も効きが悪いのだったな。面白い、ならば私の侍従じじゅうと客人、どちらか好きな方を選ばせてやる。どうする?」

「では客人で。」

「そうだろう‥‥うん?今なんと言った?」


 即応えた僕のセリフは、紫紺の男が当然だと思っていたものとは異なっていたのだろう。心底意外なことが起こったかのような、間の抜けた表情で僕を見返す。


「客人待遇を要求します。」

「ミーノマロ公爵たる私の侍従だぞ?男爵家の子供には過分な待遇だ。遠慮せずとも良いのだぞ。」

「ですから、働く気はありません。遣える気の全く無い相手の従僕なんて出来ませんから。」


 そして僕は客人待遇となるはずだったのだけれど。


 ガシャン


 ミーノマロ公爵の館に着いた僕は、到着するなり外から鍵のかかる部屋へ入れられた。部屋自体は、公爵と言うだけあって、バンブリア男爵邸の応接間などよりもずっと贅を凝らした調度類に包まれているし、部屋自体も比較にならないほど大きい。けれど、外から掛けられた鍵のお陰で外に出ることは叶わない。


「公爵様は、客人を外から鍵のかかる部屋に閉じ込めるのですか?」

「閉じ込めたつもりはないが、中に客人が入ると偶然鍵が掛かってしまうようだ。まぁ、諦めてのんびりくつろいでいると良い。なんせ、君は客人だからな。自由にしてくれて構わない。客人だと云うのは、さっき君に渡された紙にもしっかり記載、署名したから大手を降るって過ごして構わないぞ。」


 扉の向こう側から、イシケナルの笑いを含んだ声が響く。とんだ嫌がらせでイライラするが、鞄の中から取り出したイシケナルの署名入りの書付けをじっと眺める。


『ヘリオス・バンブリアを、イシケナル・ミーノマロの客人と定め、自由を認める。』


「なら、自由に出入りもさせてもらいますね。」


 言って、魔力を腕に集中して纏い、膂力りょりょくを一時的に増す。お姉さま直伝の技だ。僕は、お姉さまほどスムーズにこの技は使えないけれど、お姉さまが使う姿を繰り返し見てきたし、それと同じだけその力を使わなければならない沢山の事に巻き込まれてきた。失敗した僕が落ちたり、挟まれたり、滑ったりする度にお姉さまが心底心配そうな表情で涙ぐむから、僕はお姉さまにそんな顔をさせたくなくてとにかく頑張った。


 ゴギンッ


 握ったドアノブが、いびつな音を立てて扉に付いた根本からネジ曲がる。


「良かった。偶然鍵が掛かってしまうとのことでしたが、ちょっと建付けが悪いだけだったみたいです。」


 扉を開けると、そこにはまだ得意気な表情のまま、口だけを半開きにした紫紺の男が立っていた。咄嗟に体が動いたのであろう衛士が飛び掛かってきたので、僕は魔力を全身に纏うと同時に、その男の勢いも利用して、襟元をつかみ放り投げた。

 お姉さまに仕込まれた技だ。柔よく剛を制す、だったかな。


 面白いほど遠くに投げ飛ばされた衛士を、その場にいた者達がただ黙って見詰める。


 お姉さまが、いかにとんでもないかを再確認することになった。

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