第45話 閑話 仏の御石の鉢

『仏の御石の鉢』の漆黒の滑らかな淵にそっと細い指先を這わせながら、ミワロマイレは今日何度目かわからないため息をついた。


 彼が纏うのは、神殿の唯一最上位の人物を表す大神殿主だいしんでんぬしの装束。


 純白の裾の長いローブに、精緻な細工の施された銀の肩当てを付け、肩甲骨までの鮮やかな黄髪をふわりと揺らすミワロマイレは、一見すれば女性と見紛うばかりの線の細さだが、男の中でも一見して高いとわかる高身長のため、女性に見られることはない。


「多すぎる」

「申し訳ありません」


 苛立ちを含んだ言葉は、誰にでもなく呟いたものだったが、背後に控える神経質そうな片眼鏡モノクルの少年がすかさず、けれど何の感情も籠らない言葉を返す。


 治癒院にはこれまでにない数の患者が運び込まれていた。症状はそれぞれ異なるものの、共通するのはいずれも己の物のはずの黄色い魔力を帯びていると云うこと。患者たちは、病人らしく力なく眠っている者ばかりではなく、錯乱したように動き回る者もいるため、一つの病室に複数人をただまとめておく訳にもいかず、病状に応じて幾つもの病室に分けて入院させることになっている。

 更には、を要する貴族の患者の多さから、さらに病室事情を複雑にし、普通なら幾人かをまとめておける様な病状でも個室を工面する羽目になっている。それぞれを回る身としては面倒なことこの上ない。


 ムルキャンの奴め、派手に動きすぎだ。


 患者としてベッドに寝ている一人に、鉢に沿わせた指をそっと向ける。

 すると、陽炎の様に患者の身体に纏わりついていた黄色い魔力がミワロマイレの指先から腕を伝い、鉢の中へと吸い込まれて行く。

 眠りながらも苦悶に満ちていた患者の表情が幾分和らいだのを確認すると、鉢をそっと手にした布地の中へ隠し、室外で待機させていた神官と巫女に、いつものように後の世話を任せて退出する。


 自分の魔力は、時間をかければいずれ消えてゆくし、こうして抜き取ることも出来る。けれど、力の効果により呼吸を止めた者や、心の臓の動きまでも鈍らせ、命の危機に陥るまでに悪化した者を救うことはできない。

 この力は、不完全な力だ。『想い』を強くすることはできるが、思いによって現れた症状がその人間を蝕むものであっても止めることはできない。他人に対してもそうであるように、自分自身に対しても同じだ。


 だから、こんな面倒な大神殿主の地位も受け入れた。

 それなのに。


『仏の御石の鉢』は、この王都フージュ王国に在る全ての神殿の頂点となる大神殿に秘密裏に伝えられた神器である。その形は片腕で抱えられる小振りなもので、緩く丸みを帯びミルク椀を想像させる。色は漆黒。ミワロマイレが現れるまで、このただの黒いうつわが神器だと伝えられていても半信半疑だった者が殆どであった。

 しかし、ある時ミワロマイレが『患者』としてこの大神殿内に在る治癒院へ連れて来られた途端、その鉢から何故か枯れることなく水が湧き出てくるようになった。


 ミワロマイレの力は女神の神話に登場する『仏の御石の鉢』に呼応するものだったのだ。


 水は枯れることなく、汲みだしたら汲み出しただけ水は増える。ただの水であっただけでも奇異であるのに、その水を飲用として用いると不思議なことが起こり始めた。兵士は力を増し、勉学に励むものは更に励むようになり、美しさを求めるものは更に美しく。

 けれど継続して使い続けると、やがて不都合が生じるようになった。効果が過剰になりすぎるのだ。「強さ」「美しさ」「賢さ」どのような内容にしても、過剰で極端な考えに偏って行く。


 かつて彼が患者となったのは、魔力が体中に溢れすぎ、魔力過多により常に高熱に悩まされ命の危機に陥っていたからだ。動物や人は魔力を帯びすぎると変容する――動物は魔物となり、人も同様だと言い伝えられている。しかし、ミワロマイレがこの大神殿に居るようになり、水が神器から湧き出るようになると、彼の高熱もぴたりと治まった。


 大神殿主の立場にあるのは、ひとえに自らの命のためだといっても過言ではない。

 信仰心が強いわけでも、特別慈愛の心があついわけでもない。だから神殿の経営に関しては、神殿司しんでんし大禰宜だいねぎに任せていた。それが良いか悪いかなど考えたことも無かった。




「わたしには神殿の事は分からないから具体的問題点は挙げられないけど、せめて相手の顔ぐらいまっすぐ見て話せないかと思っただけよ」


 全身に眩しい桜色の魔力を纏った少女が、隠しきれていない不愉快さを滲ませた口調で告げた言葉。今まで、こんな事を私に向かって言う者は居なかった。


「お前たちはぁ、他人事の様にただ眺めるだけぇぇぇ‥‥こんな神殿ところっっ!辞めてやるぅぅぅ!!!」


 不満などあるはずも無く、好き勝手していると思っていた大禰宜ぶかが、顔を歪めて叫んだ言葉。

 私は何か間違えていたのだろうか?ただ生きるために神殿ここにいるだけの私が‥‥。


「まさか大ボスが、こんな責任も問えない腑抜けだったなんて」


 私から離れたところでひっそりと呟かれた言葉だったが、少女に注視していた私にはしっかりと聞き取れてしまった。傍の少年や、赤髪の男にたしなめられているようだが、言いたいことがあるのならそちらこそ面と向かって言えばいい。私も自分が神殿ここに居る意味を、そしてムルキャンの行いに対して何が出来たのかを知りたい。だから敢えて言葉を拾ってやる事にした。


「聞こえたぞ、破廉恥娘」


 ぎくりと小さく飛び上がった桜色の少女が、そろそろとこちらを振り返る。


「私の何が腑抜けなのかい?言ってみせろ」


 少女は「気のせいです」「聞き間違えです」などと言葉を連ねているが逃がす気はない。

 笑みを浮かべてみせると、少女は若干青ざめ、傍の少年と男はひっそりとため息をついた。

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